2008年3月24日月曜日

この世の中にとどまり、複数形で考える

ハンナ・アレントの思想を考える時には、彼女が、ハイデガーが西洋哲学の伝統からするならば本当に優れた哲学者であったということを一方で実感しながら、他方で、彼がナチスに入党したりと政治的にはおよそ愚かなことしかしえなかったことを落胆の思いで見なければならなかったこと、および、彼女が一方でヨーロッパの教養を肌身で感じ自らの血肉としていながら、他方で彼女がユダヤ人であるという理由だけで迫害され国を追われ、同胞ユダヤ人が600万人の規模で合理的に殺戮されたということを戦慄の思いで見なければならなかったこと、などを考慮に入れる必要があるのかもしれません。

優れた西洋哲学は、一人の立場から世界を統御してしまおうという発想に行き着いてしまいました。西洋哲学的な発想は、複数の立場が並立できるし、またそうであるべき人間の世界を、単数形で考えられた人の理想に無理矢理に変えてしまおうとして、これまでの人間が想像もできなかった人災を起こしてしまいました。これらがアレントが感じていた同時代的問題ではなかったでしょうか。

理想の中に入り込み、理想から世界を操ろうとするのではなく、人間の世界というこの世にとどまり、人間を単数形でなく複数形で考え続けることを徹底しようとしたのがアレントなのかと私は愚考します。この意味でアレントこそは、従来の意味での「哲学者」として認識されることを徹底的に拒み続けた、現実世界での哲学者の一人と言えるかもしれません。

以前のブログの記事でも取り上げたアレントの『政治の約束』は、次の引用から始められています。前の記事で取り上げたエピローグと同様に、彼女の思想を代表する重要な言葉かと思いましたので、前と同じように、拙訳を掲載します。きちんとした翻訳は高橋勇夫先生のもの(筑摩書房)でご確認下さい(注)。拙訳はかなり補い、また文構造も単純化したりした意訳となっています(Traduttore traditore “The translator is a traitor.”)。

[語り合うことなどに代表される、複数の人々の間ではじめて可能になる]活動を行うならば、まず最初に、[これまでの西洋哲学の発想からするなら]まことに遺憾ながら、「絶対的なるもの」、つまり私たちの感覚を「超えた」もの -- 真理、正義、美 -- を、私たちは把握しえないということが判明する。なぜならばどんな人も「絶対的なるもの」が具体的には何であるかを知らないからである。確かに、誰も「絶対的なるもの」をそれなりに概念化している。しかしながら、一人一人は「絶対的なるもの」を具体的には全く異なるものとして想像している。活動が、人間は[単数形で存在するのではなく]複数形で存在するということに依存したものである、ということから考えるなら、西洋哲学の最初の破局とは、思考する者たちが活動を[そんなことはできるわけもないのに]究極的には統制することを望み、原理的に考えるならば、専制政治の下でしか可能にならない統一を西洋哲学において求めてしまったことにある。二番目に[判明することは]、活動の最終目的[というものを捏造してしまい、それ]に奉仕しようとするならば、どんなものでも絶対的なるものとして成り立ってしまうということである。例をあげるなら、[ナチスが奉仕しようとした]民族や[共産主義者が奉仕しようとした]無階級社会などが、絶対的なるものととして成立してしまう。すべてのものがどれも同じように目的を達成する[正当化された]手段となってしまい、まさに「何でもあり」になってしまう。[絶対的なるものへの奉仕が行われるようになってしまった]現実[世界]は、[本来なら、人間の複数性を前提とするはずの]活動に対して、ほとんど何も提供することができなくなってしまう。現実[世界]は、ペテン師が思いつきそうな最もばかげた理屈程度にしか、活動に対して提供するものがなくなってしまう。[そうなるとおそろしく不正なことも含めて]すべてが許されてしまう。第三に[判明することは]、絶対的なるもの、例えば正義、あるいは(ニーチェのように)一般的な意味での「理想」を、最終目的のために適用することによって、人はまず、不正で残酷な活動を可能にしてしまう。なぜなら「理想」、正義自体が、もはや[それらの絶対的概念がそうであるべき、判断のための]基準ではなくなってしまい、この世界の中で達成可能で、作り出すことが可能な最終目的になってしまうからである。別の言い方をしてみるなら、哲学を現実のものにしてしまえば哲学は破壊されてしまい、「絶対的なるもの」を現実のものにしてしまえば、絶対的なるものが破壊されてしまう。そして最後に「単数形で考えられた人」を表向きの現実としてしまえば、「複数形で考えられる人間」[という人間本来のあり方]が破壊されてしまう。

In the moment of action, annoyingly enough, it truns out, first, that the "absolute," that which is "above" the senses -- the true, good, beautiful -- is not graspable, because no one knows concretely what it is. To be sure, everyone has a conception of it, but, each concretely imagines it as something entirely different. Insofar as action is dependent on the plurality of men, the first catastrophe of Western philosophy, which in [in whichの誤りか?] its last thinkers ultimately wants to take control of action, is the requirement of a unity that on principle proves impossible except under tyranny. Second, that to serve the ends of action anyting will do as the absolute -- race, for instance, or a classless society, and so forth. All things are equally expedient, "anything goes." Reality appears to offer action as little resistance as it would the craziest theory some charlatan might come up with. Everything is possible. Third, that by applying the absolute -- justice, for example, or the "ideal" in general (as in Nietzsche) -- to an end, one first makes unjust, bestial actions possible, because the "ideal," justice itself, no longer exists as a yardstick, but has become an achievable, producible end within the world. In other words, the realization of philosophy abolishes philosophy, the realization of the "absolute" indeed abolishes the absolute. And so finally the ostensible realization of man simply abolishes men.
Hannah Arendt from Denktagebuch, September 1951


(注)ドイツ語からの翻訳は青木隆嘉先生の『ハンナ・アーレント思索日記I 1950-1953』の173-174ページにあります。ですが、私はドイツ語原文を現時点で参照できていませんので、ここで青木先生の翻訳に対するコメントは差し控えます。


追記(2008/04/07)
原書が手に入ったので、Hannah Arendt Denktagebuch 1950-1973 Erster Bandの132-133ページから以下の部分を引用します。ドイツ語を読むと、日本語訳まで微妙に変わってしまうところが面白いところです。特に"innerweltlich"はどのように訳すべきか、きちんと考える必要があるかと思います。


Im Moment des Handelns stellt sich fatalerweise heraus:
1. Dass das »Ablolute« und das »Übersinnliche«, das Wahre, Gute, Shöne nicht fassbar sind, weil niemand konkret weiss, was es ist. Jeder hat zwar einen Begriff davon, aber stellt sich konkret etwas ganz anderes darunter vor. Sofern Handeln auf die Pluralität der Menschen angewiesen ist, ist die erste Katastrophe der abendländischen Philosophie, die schliesslich in ihren letzten Denkern sich des Handelns bemächtigen will, dass Einigung prinzipiell unmöglich und Tyrannei prinzipiell notwendig wird.
2. Dass zum Zwecke des Handelns jegliches als das Absolutge gelten kann -- Rasse, klassenlose Gesellschaft, etc. Alles ist gleich zweckmässig, »everything goes«. Die Wirklichkeit scheint dem Handeln so wenig Widerstand entgegenzusetzen wie den verrücktesten Theorien, die ein Scharlatan sich ausdenken mag. Alles ist möglich.
3. Darduruch, dass man Absolutes -- Gerechtigikeit z.B. oder das »Ideal« überhaupt wie bei Nietzsche -- zum Zweck ansetzt, ermöglicht man vorest ungerechte, bestialische Handlungen, weil das »Ideal«, die Gerechtighkeit ja als Masstäbe nicht mehr existieren, sondern zu innerweltlich erreichbaren, herstellbaren Zwecken geworden sind.
Mit anderen Worten, die Realisierung der Philosophie schafft die Philosophie, die Realisierung des »Absoluten« schafft das Absolute wirklich tatächlich aus der Welt. So schafft schliesslich die vorgebliche Realisierung des Menschen die Menschen einfach ab.
Hannah Arendt Denktagebuch 1950-1973 Erster Band132-133

活動を行う際に、以下の致命的な点が明らかになる。
1. 「絶対的なるもの」、「感覚を超えたもの」、真、善、美とは把握不可能であること。なぜならば、誰もそれが何であるかを具体的には知らないから。一人一人の人間はそれについてのある概念を確かにもっている。しかしそれに関して、各自は具体的に全く異なるものを想像している。活動が人間の複数性に依拠している限りにおいて、西洋哲学の最初の破局とは、西洋哲学が、[西洋哲学]最後の哲学者において活動を強奪することを欲し、合意が原則として不可能なものとなり、暴君が原則として必要になってしまうことである。
2. 活動の目的のためには、どんなものでも絶対的なるものとして通用してしまうこと。人種、無階級社会、等。全てが等しく目的にかなったものである(everything goes)。現実は、活動にとって、非常わずかの抵抗しか対置できないように見える。その抵抗は、イカサマ師がでっち上げることを好みそうなとんでもない理論のように弱いものである。全てが可能なのである。
3. 絶対的なるもの--例えば正義、あるいはニーチェのように「理想」を一般的に--「目的」として設置することによって、人は不正義で、けだもののような行為もとりあえず可能にしてしまう。なぜならば「理想」、正義はもう基準としては存在せず、内面世界的に達成できるものとして設定される目的となってしまったからである。
言い換えるなら、哲学を現実のものにしてしまうことは、哲学を終わらせてしまうことであり、「絶対的なるもの」を現実のものにしてしまうことは、絶対的なるものを、世界から実際本当に終わらせてしまうことである。かくして[単数形の]を現実のものにしてしまうことは、[複数形の]人間をあっさりと終わらせてしまう。

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