5 私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか
5.1 田尻悟郎は、私の意識という《心理システム》にとっての《環境》である。
5.1.1しかもこの田尻という《環境》は、英語教師としての総合的力量の複合性において、英語教師としての私の自己同一性を破壊しかねない《環境》である。
5.1.1.1多くの英語教師は田尻実践を見た後、嘆息をついて「自分は駄目だ」と言ったり、感情を高ぶらせ「田尻先生は特別だから」などと田尻と自分の関係を切断しようとしたりする。これは英語教師の自己防衛反応であり、英語教師が、田尻実践という現在の自分が処理できない複合性に一気に接したために生じる、自己崩壊を防ぐための自衛手段である。
5.1.2 であるが同時に、この田尻実践という《環境》は英語教師としての私を、かつての私が予想できなかったように変容することを促す潜在的可能性をもった《環境》でもある。
5.2このような《環境》に接しながら、自己改革を遂行するにはそれなりの知恵がいる。
5.2.1通俗的に私たちは「この人から多くを学んでください」というが、田尻といった対象にこういった通俗的な助言を適用してはいけない。
5.2.2田尻に対しては「この人からは少しだけしか学ばないでください。あなたが自己を崩壊させないで、自己改革を続けることができる範囲だけを学んでください。大切なことはこのような実践とあなたとのコミュニケーションを切断しないことです」といった助言の方が有効である。
5.2.2.1発表者は約10年前田尻に初めて接した時に、日頃の習慣であったノートを取ることを数分で断念し、その日は田尻の雰囲気に身を浸すことだけに留めようと直感的に判断した。それから10年かけて、発表者は少しずつ田尻から学び続けている。自画自賛的になることを怖れずに言えば、これは悪い選択ではなかった。
5.2.3 田尻実践といった高い複合性をもった《環境》に接する場合、《心理システム》と《環境》の《結合》において重要な役割を果たす言語を《心理システム》は前提知識として用意しておかなければならない。すぐれた実践を観察する前に、私たちは授業について語る言語をある程度用意しておかなければならない。
5.2.3.1 発表者の経験でも、田尻実践をいきなり学部生などに見せた場合、返ってくるのは極めて表面的な感想だけであった。
5.2.3.2 上記の失敗から、発表者は、まず授業、および言語コミュニケーションについて語る言語を、理論を教えることを通じて学部生らの身につけさせたところ、教職経験を持たない学部生でもだんだんと本質的なコメントができるようになった。
5.3 私たちは田尻悟郎に田尻悟郎の知恵と技能を私たちの中に移植してもらおうと期待してはならない。
5.3.1 田尻悟郎から私たちへのコミュニケーションは、田尻悟郎から私たちへの創造的刺激であり、その創造的刺激を活かすも殺すも私たち次第である。
5.3.2 田尻悟郎のような優れた英語教師になるには、必ずしも田尻悟郎は必要ではない。必要なのは自分以外の《環境》であり、その《環境》とのコミュニケーションを決して断念しないことである。
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