このように情報化の中心が、マシン→パッケージ・ソフト→ウェブと変遷するにつれて、要求される知性は、テクニカルなものから一般的なものへと移行しているように思いえます。今やマシンを持って、パッケージ・ソフトを操れるだけではあまり意味がありません。ウェブを駆使してさまざまな仕事や活動を遂行できる人間的な知性が現在は求められているのではないでしょうか。(この「情報化」によるマシンの「人間化」を通じて、人間も「マシン化」し、今や人間とマシンは混交体になっているとも言えるでしょうが、それはまた別の話として)。
このように人間的で一般的な知性が、現在のウェブ社会では必要とされているという認識は、案外に共有されていないのかもしれません。西垣先生はこの点を情報論の立場から説明します。
情報はAさんからBさんへ小包のように移動して伝達されるものという通俗的なコミュニケーションを批判して、西垣先生は、「人間の心は、情報という実体を「入力」されるのではなく、刺激をうけて「変容」するだけなのです」(14ページ)と述べます。この考えの背後にはルーマンの哲学などがありますし、私は関連性理論で考えてもわかりやすいと思いますが、とりあえず西垣先生の論を追ってゆきましょう。
西垣先生は、情報とは、ある種の「パターン」(形相)であり、質量もエネルギーもないものであり、さらに注意すべきは、パターンとは「客観的存在ではなく、観察者とワンセットになった主観的存在」(17ページ)であると定義します。つまり、「情報とは生物が世界と関係することで出現するものであり、具体的には生物が生きる上で「意味のある(識別できる)パターン」(18ページ)というわけです。これを西垣先生は、もっとも「広義の情報」である「生命情報」(life information)と呼びます。
ところが世間で「情報」といいますと、デジタル信号のような「機械情報」(mechanical information)(最狭義の情報)や、人間の社会で通用している定められた形の「社会情報」(social information)(狭義の情報)ばかりを意味しています。こういった意味での「知識社会」や「高度情報通信社会」には「情報を、生物が環境とむすぶダイナミックな関係ととらえる視点がないのです」(33ページ)
ここでの大きな主張は、コンピュータは人間の知性にとって代わらないということです。露骨な言い方をしますと、最新のパソコンをウェブにつないだだけであなたが賢くなることはないということです。むしろあなたは多くの「社会情報」に振り回されて、自ら考えることが困難になってしまうかもしれません。
真のアイデアを練るには情報は少ない方がいい、という逆説さえ成り立つのです。
生物でないコンピュータには、情報の重要性を判断することなどできません。研究を進めていけばやがて情報の “意味”を直接理解できるようになる、といったことも期待できません。むしろコンピュータには、われわれ人間が身体的に多様な情報にふれ、想像力を活性化できうるような “場” を準備させるほうがよいでしょう。そこでは、文字テキストのみならず、画像・音声・動画映像などを自在に処理するマルチメディア技術が活躍するはずです。
なるほど、コンピュータを、人間にとって代わる人工知能として考えるのではなく、人間に様々なアフォーダンスを与え、思考や判断などを促すメディアとして考えるということでしょうか。
「情報化」の時代にこそ、振り回されず、じっくり柔軟に考えることが大切なのかもしれません。
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