2007年7月30日月曜日

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 4/7

3 体認とは

(このセクションの記述では、他のセクションにもまして、私の曲解・誤解を怖れます。皆様はぜひオリジナルの本をお読みください)

 「体認」などといった独自の概念を理解するには、まず通常私たちが経験している日常概念を喚起し、続いてその日常概念を修正・否定しながら新しい概念理解を進めてゆく方法があると思います。そういった便宜上導入する日常概念として、尹氏はケーキを味わうことを例としてあげます。

たとえば腕のいいパティシエのつくったケーキは、甘さ、酸味、苦味、しっとりとした感じなど、単一の味に還元できないさまざまな質感が舌の上に瞬間に同時に現れる。それはケーキの味がさまざまに現れて消えるという、いま起きている運動の中にしかない。それはまさにいま起きていることで、かつて食べたことのある何かに引き寄せられないし、味覚に手応えを覚えた時点で、それは事後的に語られた感覚でしかない。(77ページ)

運動という経時的過程の刻々において同時に経験される、複数の質・度合い共に異なる経験の現実こそが「体認」なのでしょうか。しかしそれは「ああ、これはおいしい」と感覚を言語化・固定化することでもありません。そういった認識は、現在まさに進行している「体認」を、言語によって、過去の経験枠の中に押し込めてしまうことであり(=「確認」)、「生きている事実をそのまま受け止める」ことではないのです。「生きている事実をそのまま受け止める」とはめくるめく展開の生成の中にいることであり、それは新しい人生の創造であり、「経験したことのないことを経験」することなのです。

 尹氏は、韓氏意拳の光岡先生の言葉を引用しながら「確認」と「体認」が、似て非なることを明らかにします。

光岡師はこう強調する。「確認は自己を枠の中に押し込めることで、体認とは枠の外を知ることです。枠の中だけでは新しいことは考えられない。未知を知ることが進化であり、だから体認が重要なのです」。(78ページ)。

 「体認」とは、言ってみるなら「今を生きる」わけであり、今、人生が創造される只中にあることと、となるのでしょうか。この「体認」に即して、尹氏はこの本のタイトルでもある “FLOW”という言葉を登場させます(補注)。

自分がまさに刻々といまを生きているとは、生成するFLOWの状態に常にあるということで、いま起きている新たなことは、既に知っている事柄には置き換えられない。この「置き換えられない」移ろう状態をただ知るのが体認で、未知を未知のものとして、「私はそれについて知らない」という把握の仕方をする。(76ページ)

補注: FLOWという言葉の表面的な一致からは、私はM. チクセントミハイフロー体験』世界思想社といった本を思い出しましたが、私はこの本は未読ですし、これらの間に関連があるかどうかは全く判断できません。ですが、万が一の可能性のために参照情報を掲載しておきます。


このFLOWとは淀まず、言葉で固定しないことだとも表現されています。

木々の葉のそよぎも、それを「見よう」とわずかでも思いを凝らした瞬間、淀みが生まれてしまう。だから「見る」のではなく、「ただ見る」。見ているけれど見ていない、見ていないようで漠然と見ているといった、固定することのないFLOWの状態でないと、目前の動きをうまく捉えられない。言葉で固定するのではなく、運動を体認するとはそういうことだろう。(164ページ)

「見ること」に淀みを作ることによって、「見ること」と「見られるもの」に断絶を作らずに、あるいはもう少し一般化していうなら、「経験すること」と「経験されること」に間断を作らずに、ただ、世界の中に新しくFLOWすること、これが「体認」なのでしょうか。それならそれで、言語学習者の言語使用や教師の教室行動で言えば「体認」とはどのようなことなのでしょうか。今更ながらに自分は「体認」がわからないことを自覚します。

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