面白かった。ヨーロッパ的な発想の一典型が見事に描かれているように思いました。これは現代日本の私たちにとっては、依然として異質の発想でありながら、「近代化」を遂行している私たちとしては、無自覚なうちに自分の中に取り込んでいる発想かと思いました。その根幹を一言でいうならキリスト教です。私は二年前に洗礼を受けてキリスト教徒(プロテスタント)になった日本人ですから、現代日本の世俗的発想もわかりますし、キリスト教徒としての発想もある程度わかります。何より、現代日本でキリスト教という「異教」を信じるということはどういうことか、について自分なりに考え続けていましたので、キリスト教の発想に関してはとても自覚的になってこの本を読むことができました。
いや私は当たり前のことを言っているだけにすぎません。ヨーロッパ近代を考える際には、キリスト教的発想が必要である、ということです。ただ私にとって今回発見だったのは、弁証法においてもキリスト教的な神の概念が重要であるということです。以下、同書から抜書きしながら私なりの解説を試みてみます。
ヘーゲルがこの本で試みているのは哲学的な歴史記述です。その記述は「事実そのままの歴史」とも「反省をくわえた歴史」とも異なります。ヘーゲルによるならば、哲学的な歴史のとらえ方とは、理性の思想で歴史をとらえることです。
哲学が歴史におもむく際にたずさえてくる唯一の思想は、単純な理性の思想、つまり、理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行する、という思想です。(上巻24ページ)
「理性」という言葉を大和言葉に持たない私たちにとって、いや、それどころかいまだに “reasonable”というごく当たり前の言葉に、こなれた日本語を見出せない私たちにとって、もうこの段階で、いったいこの歴史観は何なんだと違和感を覚えるかと思います。しかし「真打ち」は次に登場します。
神の一なる摂理が世界のできごとを統轄している、というのは、理性の原理にふさわしい真理です。というのも、神の摂理とは、世界の絶対的かつ理性的な究極目的を実現する全能の知恵だからです。理性とは、まったく自由に自己を実現する思考なのです。(上巻30ページ)
もうこのあたりで「唯一神」「創造主」、ひいては「全知全能偏在であり人格的でもある存在に愛されている」などといった発想をもたない文化の人間は、「ついてゆけなく」なるのかもしれません。しかしこういった「信仰」こそが----「ついてゆけない」ものに自らを繋げられるのは「信仰」だけです----、次のような、「西洋的」発想の根幹にあると見るべきではないでしょうか。
世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、私たちはその過程の必然性を認識しなければなりません。(上巻41ページ)
このように「信仰」により、人類は前進あるいは向上しているのだという強固な信念があってこそ----「信仰」を持たない人からすれば不可解としか思えない確信があってこそ----すべての出来事は、大いなる目的のために起こっているのだという理解が生じてくるのだと思います(そうでなければ、すべての出来事にこれほどの大きな意味を見出すことは困難でしょう)。各人がそれぞれの思いで行い、それがゆえに各所で衝突や葛藤を引き起こしているこの世の中の出来事にも意味があるという考えが次のような箇所には見られます。
いまだ前進しつつある世界史のあゆみのなかでは、歴史の究極目的が純粋な形で欲望や関心の内容となることはなく、欲望や関心において意識されることのないままに、普遍的な目的は特殊な目的のなかに入りこみ、特殊な目的をとおして自己を実現するのです。(上巻52ページ)
有名な「理性の狡知」(この翻訳では「理性の策略」)は次の箇所に見られます。
一般理念の実現は、特殊な利害にとらわれた情熱ぬきには考えられない。特殊な限定されたものとその否定から一般理念は生じてくるからです。特殊なものがたがいにしのぎをけずり、その一部が没落していく。対立抗争の場に踏みいって危険をおかすのは、一般理念ではない。一般理念は、無傷の傍観者として背後にひかえているのです。一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としているさまは、理性の策略とよぶにふさわしい。(上巻63ページ)
私たち個々人が、情熱をもち、挫折し、落胆することも、また理想の敗退にしか思えないことも、すべては、人類の前進あるいは向上へのための、必要とも必然とも考えられる過程に過ぎないという発想がここに見られるように思います。
弁証法についての私の素朴な疑問だったのは、なぜAとB(Aでないものの謂いです)の対立が、そのままでよいとされず、さらに高次のαが要請されるのかということでした。AとBが対立関係を保ったまま、AはAで、BはBで発展を続けるという思考図式も可能なように思えるからです。そこを弁証法は、対立するAとBの矛盾的要素を保持しながらも同時に調停できる高次の止揚された段階(α)に、きっと到達できるに違いないとして、止揚を目指して思考を重ねます。この思考の一種の飛躍的発展への動因こそは、上述している神への信仰に基礎づけられているのではないかというのが、私が今回の読書で考えたことです(当たり前のことでしたらごめんなさい)。少なくともヘーゲルの哲学や弁証法を理解するには、彼のキリスト教信仰(プロテスタント系)を理解しておくべきと言えるのではないでしょうか。
哲学は理想を夢想するのではなく、冷静な洞察をもならさねばなりませんが、その洞察とは、本当の善ないし普遍的な神の理性は、自己を実現する力をももっている、という洞察です。この善、この理性を、もっとも具体的に示すのが神です。世界を支配するのは神であり、神の支配の内容、ないし、神の計画の実行が世界史なのです。哲学はそれをとらえようとする。神の計画を実行したものだけが現実であり、それに反するものはいつわりの存在にすぎないからです。神の理念はたんなる理想とはちがうので、その純粋な光のなかに身をおけば、世界が狂った、ばかげたものだとはとうてい思えなくなる。哲学は神の理念の内容たる現実を認識し、軽蔑にさらされた現実を正当化するものです。理性とは、神の作品に耳かたむけることですから。(上巻69ページ)
このような信仰的理性こそが、私たちの理想と日々の現実の両者を結びつけるとヘーゲルは考えているように思います。理想主義者になってしまって、現実を裁断し嘲弄するだけの人間にもならず、現実主義者になってしまって、理想を嘲笑し俗世界の価値と論理だけに巻き込まれてしまう人間にもならないためには、キリスト教だけに限らないにせよ、超越的な神概念や人格的な創造主概念を前提とする思考法に慣れておいた方がいいのかもしれません。同書の最後はヘーゲルの次のような言葉で結ばれています。
哲学は世界史にうつしだされた理念のかがやきしか相手にしないもので、現実世界のうんざりするようなむきだしの情熱的行動については、考察の外におくほかはない。哲学の関心は、実現されてゆく理念の発展過程を、それも、自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発展過程を、認識することにあるのです。
歴史に登場する民族がつぎつぎと交替するなかで、世界史がそうした発展過程をただり、そこで精神が現実に生成されていくこと----それこそが正真正銘の弁神論であり、歴史のなかに神の存在することを証明する事実です。理性的な洞察力だけが、聖霊と世界史の現実とを和解させうるし、日々の歴史的事実が神なしにはおこりえないとおいうこと、のみならず、歴史的事実がその本質からして神みずからの作品であることを認識するのです。(下巻374ページ)
キリスト教的信仰は、ヘーゲルの弁証法を通じても、現実の中で理想を失わないような思考の枠組みを私たちに与えてくれているように思います。私は一人の(心貧しき)クリスチャンとして、礼拝や聖書通読をする度に、そのような思考法の訓練を重ねているともいえるのかもしれません。たまたま私が今朝聖書通読で読んだ、新約聖書のEpistle to the Philippiansフィリピの信徒への手紙の次の一節などは、非信仰的な立場からすれば、偽善的な説教のように思えますが、信仰の立場からすれば、現実の困難を調停する高次の思考へと私たちを促す言葉であるように思えます。
4:4 May you always be joyful in your union with the Lord. I say it again: rejoice!
アーメン。
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