「恋愛って何なんでしょう」と尋ねるある女性アナウンサーに、養老孟司氏は笑顔で「あぁ、あれは病気ですよ」と答えた。偶然見たインタビューの中のことである。「えっ、病気なんですか?」と狼狽するアナウンサーに、養老氏は「だって、メシが喉に入らなくなるんでしょ。夜も眠れなくなるんでしょ。それなら病気ですよ」と満面の笑みで答えた。
たしかに恋愛は病気かもしれない。少なくとも恋愛がなければ、人生はもっと体裁よく進む。煩悶することもなく狂喜乱舞することもなく、計画通りに人生を過ごせる。
しかし病気が、身体のバランスを取り戻すための身体の自己調整であるかもしれないという解釈にたつなら、恋愛という病気も心いや魂が自らのバランスを取り戻す機能をもっているのかもしれない。
病気は人間の不全を回復させ、さらには人間とは死すべき存在にすぎないことを人に教える。病気によって人は人らしく生きることができるのかもしれない。
ならば恋愛という病気も、人を人らしく生かし、人に死という定めを―別離という形で―教えるものなのかもしれない。恋愛という病気によって人は人らしくなれるのかもしれない。たとえそれが、通常の病気と同じく、表面的には苦しいことばかりにせよ。
病気がなければ人は計画通りに過ごせる。しかし病を知らない人間は死すらも知ることができないのかもしれない。
この本は、『中学生のことばの授業』太郎次郎社をご恵贈してくださった近藤真先生から、引き続きご恵贈していただいた本です。ありがとうございました。しかし、四月にいただきながら、礼状の一本も書かないまま、今日にまで至ってしまいました。近藤先生、本当にごめんなさい。
本などは頂いたら、読む前にすぐに礼状をしたためておくことが処世の流儀(いや、最低限の礼儀)なのかもしれません。しかしどうも私はそのようなことが苦手で「まずは読もう」と考えます(←要は子ども (汗))。それでいて読める時間がなかなか見いだせず、結局は礼状も感想も出せないままという非礼をたくさんしております(←友人を減らし、出世もできないタイプ (自嘲の笑))。皆様、どうも申し訳ございません。
でもこの本の場合、読む時間がなかったというより、読む契機を見い出せなかったというべきでしょうか。私は特にこの四月から仕事に追われ、ある日気がついてみたら、ストレスのせいか、右の眉毛の三分の一ぐらいが失われていたり(今でもほぼそのまま)、別の日に起きてみたら猛烈な風邪の症状に加えて、前から痛めていた膝が悪化し、新聞を取りに行くことすら諦め一日中寝ていたりしました。仕事だけに集中しなければやっていけないような日々でした。
夏休みも、学会発表・講習会講師・セミナー主催・ワークショップ参加・集中講義開催・論文執筆と、とにかく追われていましたが、ある論文の第一稿をなんとか書き上げ、次の論文を書き始める前にちょっと集中力が途切れた時に、思い切って長い間気にかかっていたこの本を読むことにしました。
読んだら面白かった。一気に通読しました。もちろん最初のうちは、仕事モードの自分からなかなか抜け出せず、この本が招待している世界になかなか入れませんでしたが、読み進めるうちに、計画通りに進めなければならない仕事の世界とは別の人間の世界に入り込むことができました。
「恋歌」といってもいろいろです。
それは、
手が好きでやがてすべてが好きになる
時実新子
時実新子
のような、さりげなく、それでいて理屈を超えた心の動きだったりします。
あるいは、もはや現代の常套句のようになった感もありますが、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智
俵万智
のようなことばづかいでもあります。(私はこの『サラダ記念日』を最初に読んだ時の新鮮な驚きを今でもよく覚えています。それは吉本ばななの『キッチン』を最初に読んだ時の感覚と私の中では並んでいます)。
言語表現が与える新鮮な驚きと言えば、次のようなものが今は「新しい」のかもしれません。
君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香(か)のごとくふれ
北原白秋
北原白秋
国語教師である著者の近藤先生は、この歌を次のように教えると書いています。
思春期の入り口に立つ中学生にとって、こんな恋のまっただなかを詠んだ歌は驚き以外のなにものでもありません。この歌は、生徒に精いっぱいの背伸びを求めます。かれらは、息を殺して私の朗読に聞きいります。
五感で読む。 ―― 私はこのことだけを押えます。不勉強な私は、五感を総動員して詠まれ、読む歌を、ほかに知りません。いまはもっぱら観念で詠まれた歌に出逢うことが多くなっているように思います。
目で読む。何が見える?耳で読む。何が聞こえる?鼻で読む。何が匂う?口で読む。どんな味がする?肌で読む。温度は? ―― こんな問いかけをしながら読んでいくと、やがて、読み手の五感も覚醒してゆきます。(119ページ)
私もこんな授業を中高生の頃に受けたかった。同時に、ますます資本主義的生活様式への適応訓練のようになってきているように思える現代の学校教育では、このような授業が「受験に直結しない」「学力テストと関係がない」「ビジネスに必要なコンピテンシーとの関連が見いだせない」「そもそも評価・点数化ができない」・・・と排斥されているのではないかと危惧します。排斥の理屈はいくらでも続きます。ですが、私はこのような理屈を得意気に語る人を教育者として信頼していません。
ことばは、人をつくり、ひいては社会をつくります。ことばに対する鋭敏な感覚こそは、ことばの力を獲得するための基盤となります。感性を大切にする教育こそが、まわりまわって国力を豊かにするのに、今はどんどん感性を貧困にさせる訓練、あるいは感性を閉ざさないとやってゆけないような訓練ばかりが授業でもてはやされているようにも思えます。
私はまたもや過度に悲観しているのかもしれません。しかし先日ある友人がメールで「昔の時代に英語教育を受けておいてよかった。今のような英語教育なら、私は英語を好きになっていなかったかもしれない。点数は取れるようになったかもしれないけれど」と書いてきた時、私は画面の前で深く頷いていました。
仮に英語教育がそうだとしても(そして私はそんな時代の流れに徹底的に抗するにせよ)、国語教育だけは、論理性だけでなく感性も大切にする授業をやっていただきたいと切に思います。また思い出話で恐縮ですが、私は高校生の時に「石炭をば早や積み果てつ」で始まる、鴎外の『舞姫』をむさぼるように読んだ時のことをいまだによく覚えています。文語調だから漢文を読むようで、すみずみまで文意を理解したとすらいえないけれど、とにかくこのことばの響きに取り込まれました。こればかりは、私はたとえ井上靖の訳でも読みたくはない。かつて日本に『舞姫』のような日本語があったこと、そして(仮にかろうじてにせよ)私もその日本語を読めるということを大切にしたいからです。
しかし近藤先生の授業は、このような古い日本語の表現だけに限りません。近藤先生が紹介する作品に「谷川俊太郎の恋文」(実際には無題)があります。
あくびがでるわ
いやけがさすわ
しにたいくらい
てんでたいくつ
まぬけなあなた
すべってころべ
いやけがさすわ
しにたいくらい
てんでたいくつ
まぬけなあなた
すべってころべ
ただ音にしただけでも面白い詩ですが、これは実は折句(おりく) (acrostic)であり、各行の最初の文字だけを拾って読むと、別のメッセージが出てきます。
ことば遊びといってもいいでしょうが(ちなみに私は言語教育における「ことば遊び」を高く評価しています。英語教育では、阿原成光先生の『お祭り英語楽習入門―いじめは授業でなくす』を私は非常に面白く読みました)、近藤先生の実践でも生徒さんにこの谷川俊太郎の折句に倣って作ってもらった作品(165-166ページ)がすばらしい。
話をまたもや大きくすると、社会を変革するような大きな動きは、しばしばこのような詩的表現を触媒としてもたらされます。下の記事にある中東の詩人たちのたどる運命はあまりにも過酷ですが、同時にそれは詩的表現が人の心に生み出す力の大きさの証明ともなっています(亡くなられた詩人の方々の魂が安らかにありますように)。
The poetry of revolution
by Mazen Maarouf
http://www.aljazeera.com/indepth/opinion/2012/08/201283014193414611.html
by Mazen Maarouf
http://www.aljazeera.com/indepth/opinion/2012/08/201283014193414611.html
たとえ社会変革につながらないとしても、詩的表現は人の心を確実に変えます。それはなんら特筆することもない一人の市井の人の出来事だとしても、それを読む人々の心を変えます。
さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝(なれ)を柩(ひつぎ)に
土屋文明
土屋文明
このように詠える人生もあるということ、それは、私たちに穏やかな笑顔で長生きされている方々への自然な敬意を引き起こすでしょう。「後期高齢者」の医療制度について検討することも必要でしょうが、一方で、私たちは上のようなことばづかいも知るべきでしょう。
しかしこのように浄化したような長年の関係はともかく、若い日々の恋愛など、やはり勝手な思い込みなのかもしれません。
きみはきみばかりを愛しぼくはぼくばかりのおもいに逢う星の夜
村木道彦
村木道彦
が、恋愛の実態なのかもしれません。
ラ・ロシュフコーはもっと辛辣です。
愛の喜びは愛することにある。そして人は、相手に抱かせる情熱によってよりも、自分の抱く情熱によって幸福になるのである。
恋人どうしがいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである。
だから、恋愛とは所詮、夢まぼろしなのかもしれません。
かのことは夢まぼろしか秋の蝶
鈴木真砂女
鈴木真砂女
「かのこと」は、「夢まぼろし」(例えば宮崎駿がある佳品で描いたかもしれないように)。しかし「秋の蝶」を見ても、それと共に「夢まぼろし」が浮かび上がってくるとしたら、それだけこの命・人生は惜しむべきもの、慈しむべきものとなります。惜しみ慈しむ命・人生でこそ、人は幸福に生き、そして幸福に死に向き合うことができるのかもしれません。そしてわが命・人生を惜しみ慈しむことができる人こそ、他人の命・人生も惜しみ慈しむことができるのでしょう。
恋愛はやはり病気なのかもしれません。人間に不可欠の。
近藤先生、これが私という出来の悪い読者 ―課題提出は遅すぎるし、課題そのものも恣意的なばかり― の感想です。でも私は私なりに、人間のあり方について学び直すことができました。いい授業をありがとうございました。
5 件のコメント:
ある匿名希望の方から以下のメールをいただきましたので、ここに掲載します。柳瀬陽介
***
『大人のための~』ブログ記事のコメント欄から入ろうとしましたが、
うまくいかなかったため、メールを差し上げる次第です。
ずぶの素人ですが、たまに俳句と短歌を作っています。
そのいくつかを、英語の5・7・5、5・7・5・7・7で表現しようと試みています。
生徒に英語俳句・短歌を作らせる段階には至っておりませんが、
まあ、なんとなく「ことばへの気付き」みたいなものに繋がって行くのかなと思っています。
以下に俳句と短歌を1つずつ上げます。
・2011年10月1日、ホークス、パリーグ優勝の日に:
「パを制す / 鷹戦士らに / 秋日射す」
“The evening sun / Is shining beautifully / On Hawks Victory”
・冬の定時制高校下校時の風景:
「帰り道 / 寒空に星 / 瞬いて / 心に沁みる / 友の優しさ 」
“On my long way home / Stars are twinkling overhead / At such a cold night /
I deeply appreciate / The kindness of my close friend”
お笑いくださいませ。
はじめまして。近藤真の娘の菜菜子と申します。
父の本をこんなに丁寧に読んでくださり、ブログで紹介してくださって本当にありがとうございます。
この本を出した際に、次は続編を書くぞ!っと言ってはりきっていたので、父が元気になった際にはきっとこの本を上回る面白いものを書いてくれると思います。
これからも父をよろしくお願いします。
PS.こちらのブログの記事を私のfacebook上でシェアさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
菜菜子
近藤菜菜子様、
コメントをありがとうございます。
近藤先生のお嬢様からコメントをいただけるなんてちょっと不思議な感覚です。嬉しいです。
お父様にどうぞよろしくお伝え下さい。
(ちょっと気になったのですが、「父が元気になった際には」とありますが、お父様は調子を悪くされているのでしょうか?)
Facebookでもシェアしていただければ感謝です。
それでは
2013/10/14
柳瀬陽介
再度失礼いたします。
実は父は去年の11月に交通事故にあってしまい、
打ち所が悪かったらしく
今なお病院で寝たきりの生活を送っています。
回復には長い時間を要すると思いますが
奇跡を信じて家族みんなで支えています。
きっと元気になってくれると思うので
これからもよろしくお願いいたします。
菜菜子
近藤菜菜子様、
そうですか。それは大変でしたね。
しかし、ご家族の愛情に包まれているお父様はきっと回復なさると思います。
待つ日々は長く、また時に辛く感じられるかもしれませんが、今この時にしか感じられない家族の愛情をどうぞ味わって下さい。
お父様にどうぞよろしくお伝えください。
2013/10/15
柳瀬陽介
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