<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340</id><updated>2012-01-26T07:49:16.288+09:00</updated><category term='言葉'/><category term='教育'/><category term='お知らせ'/><category term='武術'/><category term='検索'/><category term='信仰'/><category term='映画'/><category term='研究'/><category term='Exploratory Practice'/><category term='随想'/><category term='ルーマン'/><category term='数字'/><category term='人災・天災'/><category term='授業'/><category term='解説'/><category term='ICT'/><category term='読書'/><title type='text'>英語教育の哲学的探究2</title><subtitle type='html'>このブログの主目的は、(1)英語教育について根本的に考え直すこと、(2)英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること、(3)英語教育に関する良質のコミュニケーションを促進すること、です。柳瀬陽介が個人の資格で運営しています。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>698</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-5393738943845949730</id><published>2012-01-24T21:34:00.003+09:00</published><updated>2012-01-25T10:11:42.776+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;研究社に提出する学習英文法の原稿に「言語の記号的理解と身体的理解」という表現を使ったので、それについてちょっと詳しく書いておこうと思っていたら、そのためには『論考』についてまとめておかねばならないと考え、先日&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html"&gt;「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」&lt;/a&gt;という記事を書きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本日はやや体調もよく、時間も少し取れそうなので、その記事を受けてようやく「言語の記号的理解と身体的理解」についてまとめようと構想を練り上げていましたら、やはりウィトゲンシュタインの『哲学的探究』をもう一度きちんと読み直さないといけないと思い始め、&lt;a target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/mn/search/?_encoding=UTF8&amp;amp;sort=relevancerank&amp;amp;search-alias=books&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=ur2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;field-author=%E9%BB%92%E5%B4%8E%20%E5%AE%8F"&gt;黒崎宏&lt;/a&gt;&lt;img src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;先生による&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782800851/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4782800851"&gt;『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4782800851" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;（1994年、産業図書）を読みウィトゲンシュタインの議論の流れを追いながら、注目すべき箇所の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/1405159294/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=1405159294"&gt;&lt;i&gt;Philosophical Investigations&lt;/i&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=1405159294" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;で英訳とドイツ語原文をチェックし始めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;黒崎先生の翻訳が親切なこともあり（注）、かなり引きこまれ ―ということは、かなり自分でも考えさせられながら― 読んでいくと、88節までで私が本日勉強できる時間がなくなりました。もともとは「言語の記号的理解と身体的理解」というタイトルで記事をまとめるための『探究』再読ですが、この小さな読解はそれなりに小さくここでまとめておくべきかとも思い始めました（てか、そうしないと来週の&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/09/2011_15.html"&gt;講義&lt;/a&gt;に間に合わない）。もちろん『探究』についてまとめるにせよ、本来なら、この翻訳に従って適宜英訳とドイツ語原文を参照しながら、せめて『探究』の第一部（693節まで）を全部読んでからまとめるべきでしょうが、まったくの自転車操業で勉強する時間がなかなか取れませんし、取れたら取れたで、その時には体力が果てていたりすることが多いので、ここでウィトゲンシュタイン後期代表作である『&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469110183/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469110183"&gt;探究&lt;/a&gt;』の1-88節の部分を、特に『論考』との関連からまとめておくことにします。（←前置き長い。早く要点だけ述べろ！）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、『探究』からの引用に関しては、原文と英訳（上記本の&lt;span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: Arial, sans-serif; font-size: 14px; line-height: 20px; background-color: rgb(255, 255, 255); "&gt;Anscombe, Hacker &amp;amp; Schulteの&lt;/span&gt; もの）も掲載しましたので、日本語訳に関してはやや意訳気味に思い切って訳した拙訳を掲載しています。ただ67節などでは少々ドイツ語理解に自信が持てないところがあります。もし誤りが見つかればどうぞご指摘下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■『論考』の意味論の確認&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインは、『探究』の最初の節に、アウグスティヌスの言語観を引用することで、彼が『論考』で取っていた意味論を確認します（『論考』に関しては&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html"&gt;「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」&lt;/a&gt;の記事をご参照下さい）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「子どもは、周りの大人が「これが○○だ」と呼ぶのを聞いて言語を獲得するのだ」というアウグスティヌスの素朴な（そして誤った）考えを受けて、ウィトゲンシュタインは、自分がこの『探究』で乗り越えようとする『論考』の意味論を次のようにまとめます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;1.&lt;br /&gt;[アウグスティヌスの]これらの言葉には、人間の言語の本質に関する一つの考えが表されているように私には思える。つまり「言語において、単語とは対象の名であり、文とはそのような名の結合である」という考えである。 言語についてのこの考えの中に、あなたは次の観念の根を認めるかもしれない。つまり「それぞれの単語には一つの意味がある。この意味は単語に連結している。この意味とは、その単語が表している対象である」という観念である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.&lt;br /&gt;In diesen Worten erhalten wir, so scheint es mir, ein bestimmetes Bild von dem Wesen der menschlichen Sprache.  Nämlich dieses: Die Wörter der Sprache benennen Genstände -- Sätze sind Verbindungen von solchen Benennungen.  -- In diesem Bild von der Sprache finden wir dir Wurzeln der Idee: Jedes Wort hat eine Bedeutung.  Diese Bedeutung ist dem Wort zugeordnet.  Sie ist der Gegenstand, für welchen das Wort steht.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.&lt;br /&gt;These words, it seems to me, give us a particular picture of the essence of human language.  It is this: the words in language name objects -- sentences are combinations of such names. -- In this picture of language we find the roots of the following idea: Every word has a meaning.  This meaning is correlated with the word.  It is the object for which the word stands.&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この意味論にどう反駁し、これを越える意味論・言語論をどう展開するかが『探究』であると言っても過言ではないかと思います（やはり『論考』と『探究』は合わせて読まれるべき本なのでしょう。どちらも一筋縄ではゆかない本ですが。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■単純な名指しだけで言葉を獲得するためには・・・&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインの批判は、「これが○○だ」といった定義方法（「直示的定義」）で子どもは次々に着実に言葉を獲得することはない、というものです。なぜなら「これが○○だ」の「これ」が何のを指しているのか、そのどの側面を意味しているかは、一義的には決定されないからです。例えば二つのリンゴを指して「これが『2』だ」（＝「コレガ『ニ』ダ」）と言っても、子どもはこの特定のリンゴを「2」（＝『ニ』）と思うかもしれません。あるいはこの大人は今、果物のことを話していると思うかもしれません。あるいは「食べ物」のこと、あるいは「色」のこと、と思うかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;既に（少なくとも）第一言語を獲得している私たちには、このような懐疑はいかにもとってつけたもののように思えるかもしれません。しかしここでウィトゲンシュタインが行おうとしていることは、究極のレベルでの名指し ―『論考』で彼自身が「対象」と「名」の間に成立させようとした名指し― は、それだけでは成立せず、他の言語表現に既に習熟していることを必要としていることを、戯画的に示すことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誤解を避けるために、大人は他のミカンや本などを指しつつ「これも『2』だ」と言って、彼が意味しているのは「果物・食べ物」でも「色」のことでもないことを示そうとしながら、「この『数』が『2』である」と説明するかもしれません。これなら誤解のしようがないようですが、この直示的定義には「数」という語が導入されています。この直示的定義を理解するためには、子どもは子どもなりに「数」とは何かを既に理解しておかねばなりません。そして「数」を理解しておくためには、他の多くの言語概念を知っておかねければならないというのが、ウィトゲンシュタインが『論考』でわずかに示し（3.26およびその補助命題）、この『探究』で全面的に展開しようとする論点です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、このように定義の中に別の（定義を必要とする）語を導入するというやり方で、なんとか理解ができることにしたとして（つまり、子どもは言語獲得の複合的循環性という矛盾を、なんとか周りの大人に支えられながら言語使用することで解決する、として）、それではどの語を定義に導入するか、「数」でいいのか、それとも他の語なのか、という問題が浮上するように思えるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしそのいわば「究極の説明語」とは何か、ということを脱文脈的に、一般論・抽象論として考えてしまっては出口を失ってしまいます。他の何も必要としない語（『論考』でいうところの、単純な「対象」、そしてその「名」）はないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何をもって説明とするかは、その文脈およびその人次第です。説明がうまくいくか、いかずに誤解を受けるかは、予めはわかりません（もちろん、人は過去の多くの類例経験からある程度の推測をすることはできますが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;単純に言い切ってしまえば、どんなに素晴らしい説明をしたと教師が思っても、生徒が実際にその説明された事を実践してみなければ、その生徒がきちんんとその事を理解し獲得したかどうかはわからないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや、それどころか、その生徒が教師の素晴らしい説明を丸暗記していたとしてもその生徒がきちんと理解し獲得しているかどうかはわかりません。なぜならその生徒は自分自身が暗記しているその説明の解釈や適用において誤るかもしれないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;具体的な文脈の中で、 他の言語使用者と共に言語使用を重ねることでしか、言語理解の適切さ、ひいては言語獲得はわかりません。人は言語獲得をしてその後に言語使用をするのではなく、言語使用の中で言語獲得をしてゆく（逆に言えば、言語獲得の試みの中で言語使用をしてゆく）のです。学習者の実際の言語使用抜きに、いくら教師の言語説明の良し悪しを語ってもそれは的を外しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインはこう言います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;29.&lt;br /&gt;「2」を直示的に定義する時に「数」という言葉が必要になるかどうかは、その語がないと説明を受ける人が、あなたが思った定義とは違うように誤解するかどうかによって決まる。また、これは定義が与えられた状況次第でもあるし、誰が説明を受けるかどうか次第でもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;説明を受ける人がどのように誤解するかは、その人が説明された語をどのように使用してゆくかに自ずと示される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.&lt;br /&gt;Ob das Wort "Zahl" in der hinweisenden Definition der Zwei nötig ist, das hängt davon ab, ob er sie ohne dieses Wort anders auffaßt, als ich es wünsche.  Und das wird wohl von dem Umsänden abhängen, unter welchen sie gegeben wird, und von dem Menschen, dem ich sie gebe.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Und wie er die Erklärung 'auffaßt', zeigt sich darin, wie er von dem erklärten Wort Gebrauch macht.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.&lt;br /&gt;Whether the word "number" is necessary in an ostensive definition of "two" depends on whether without this word the other person takes the definition otherwise than I wish.  And that will depend on the circumstances under which it is given, and on the person I give it to.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;And how he 'takes' the explanation shows itself in how he uses the word explained.&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語獲得や言語教育は、具体的文脈抜きの超越論的な一般論として語られるべきでなく、具体的な文脈の中の具体的な人間の問題として語られるべきというのが、ウィトゲンシュタイン的考えになろうかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■個人の言語獲得も、言語共同体での歴史的な問題&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かくして第一言語を獲得しようとする子どもの周りの大人、および第二言語を学習しようとしている生徒の教師は、その子ども・生徒にわかりやすいような例でもって言葉の説明を行います。しかし誤解を避けるには、複数の例があった方がいいでしょう。大人・教師は、子ども・生徒の反応を見ながら次々に例を提示するかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やがて子ども・生徒は「わかった！」と叫ぶかもしれません。そして実際、その子ども・生徒は、それ以降の使用でことごとく適切な言語理解をするかもしれません（もちろん現実には間違いもおかすでしょうが、ここでは議論を簡単にするために、その子ども・生徒はその後適切な言語使用をするようになったとさせてください）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この時、私たちはその子ども・生徒が何か深遠なものを獲得したと考えたくもなります。その子ども・生徒が、未来の無数の言語使用においても常に通用するような真理か何かを会得したというわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、それは考え過ぎでしょう。後でも再び述べるつもりですが、言語の意味も使用もある面で拡張されたり（端的な例はメタファー）、ある面で衰退したりと、時間的に変遷しうるからです。また、前にも述べましたように、子ども・生徒は、自分の理解の解釈・適用において誤ることがありうるからです。その自らの理解に関する自らの誤りは、言語共同体の他の複数のメンバーの指摘を待つしかありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからこの「わかった！」というのは、子ども・生徒が何か超時間的な真理を個人的に獲得したことを示しているのではなく、単にその子ども・生徒が、これからその言語共同体でうまくやってゆける自信を持ったことを示しているだけに過ぎません。その自信が適切なものなのかそれとも単なる過信なのかは、言語共同体の中で時間をかけながら一回一回と言語使用を重ねてゆくしかありません。言語獲得とは、言語共同体での歴史的な問題なのです。言語獲得は、個人的で瞬時に成立するものではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、誰にでも一回与えればそれで済む完璧な説明などというものはありません。もちろん完璧な説明がないからといって、どんな説明も同じようなものだとか、説明などは一切いらないとはなりません。場面や人によってよりよい説明というのはあるでしょう。しかしここで確認しておきたいのは、大人・教師が、子ども・生徒に適したと考える例をいくつか出して、子ども・生徒に実際に言語を使わせてみて、その様子を観察するということは決して理に適わないことではないのです。むしろ、完璧な説明を求めて右往左往すること、あるいは完璧な説明を得たと思い込んで、それを子ども・生徒に詰め込もうとすることの方が無理筋と言えましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;71.&lt;br /&gt;人はいくつか例を与え、そしてそれらの例がある意味で理解されることを望む。 -- しかしこう言ったからといって、それらの例を聞いた人が、私が何かの理由で表現できない共通要素を見て取るに違いないなどと私は言いたいのではない。そうではなく、例を聞いた人は、これらの例をあるやり方で&lt;b&gt;使用する&lt;/b&gt;ようになるだろう、と言っているのだ。この例示というものは、きちんとした説明ができないから、説明を間接的なやり方でやったとかいうものではない。なぜならば、どんな一般的な説明というものも、誤解されうるからである。私たちはまさに&lt;b&gt;このようにして&lt;/b&gt;（言語ゲームという）ゲームを行うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;71.&lt;br /&gt;Man gibt Beispiele und will, daß sie in einem gewissen Sinne verstanden werden.  -- Aber mit diesem Ausdruck meine ich nicht: er solle nun in diesen Beispielen das Gemainsame sehen, welches ich -- aus irgend einem Grunde -- nicht aussprechen konnte.  Sondern: er solle diese Beispiele nun in bestimmter Weise &lt;i&gt;verwenden&lt;/i&gt;.  Das Exemplifizieren ist hier nicht ein &lt;i&gt;indirektes&lt;/i&gt; Mittel der Erklärung, -- in Ermanglung eines Bessern.  Denn, mißverstanden kann auch jede allgemeine Erklärung werden.  &lt;i&gt;So&lt;/i&gt; spielen wir eben das Spiel.  (Ich meine das Sprachspiel mit dem Worte "Spiel".)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;One gives examples and intends them to be taken in a particular way.  -- I do not mean by this expression, however, that he is supposed to see in those examples that common feature which I -- for some reason -- was unable to formulate, but that he is now to employ those examples in a particular way.  Here giving examples is not an &lt;i&gt;indirect&lt;/i&gt; way of explaining -- in default of a better one.  For any general explanation may be misunderstood too.  &lt;i&gt;This&lt;/i&gt;, after all, is how we play the game.  (I mean the language-game with the word "game".)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、上の引用では「言語ゲーム」という用語が登場してしまいました。次はこのウィトゲンシュタインの用語を簡単に解説します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■『論考』の単一的な言語観から、『探究』の多様な言語観へ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前期の『論考』におけるウィトゲンシュタインは、世界を記述する論理的な言語をもっぱら考察し、その完璧の（あるいは究極の）説明や単位を求めていました。後期の『探究』は、ウィトゲンシュタインがその枠組から自らを解放し、言語のあり方、説明や単位のあり方の多様性を見るようになった作品とも言えるかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインは、『論考』時代の自分のような人物を『探究』に時折登場させ、その人と対話します。65節では、その登場人物に、言語の本質を明らかにしようとしないウィトゲンシュタインは「安易な道を歩んでいる」のだと批判させます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下はウィトゲンシュタインの返答です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;65.&lt;br /&gt;実際その通りである。 -- 私達が言語と呼ぶものすべてに共通するものを提示する代わりに、私は、この言語と呼ばれる現象には、ある一つの共通要素があり、それにより私たちは等しく「言語」という言葉を使っているのではない、と言っているのだから。言語と呼ばれる現象は、互いに様々な方法で&lt;b&gt;使用されている&lt;/b&gt;だけである。この使用 ― いや様々な使用というべきか ― ゆえに私たちはこれらの現象をすべて「言語」と呼んでいるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;65.&lt;br /&gt;Und das ist wahr. -- Statt etwas anzugeben, was allem, was wir Sprache nennen, gemeinsam ist, sage ich, es ist diesen Erscheinungen gar nicht Eines gemeinsam, weswegen wir für alle das gleich Wort verwenden, -- sondern sie sind mit einander in vielen verschiedenen Weisen &lt;i&gt;verwandt&lt;/i&gt;.  Und dieser Verwandtschaft, oder dieser Verwandtschaften wegen nennen wir sie alle "Sprachen".&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;65.&lt;br /&gt;And this is true.  -- Instead of pointing out something common to all that we call language, I'm saying that these phenomena have no one thing in common in virtue of which we use the same word for all -- but there are many different kinds of &lt;i&gt;affinity&lt;/i&gt; between them.  And on account of this affinity, or these affinities, we call them all "languages".&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;時間的な積み重なりと、言語共同体による承認を要する、歴史的で共同体的な言語使用において言語獲得を考えようとするウィトゲンシュタインの言語観は、決して超時間的・無時間的なものでも個人的なものでもありません。多くの近代言語学は「共時的」(synchronic)という前提で時間的推移を考えなかったり、時には言語獲得を瞬時に行われるものとするという仮定を導入したりもしました。さらには言語を「個人心理学」の問題ともしました。しかし、ウィトゲンシュタイン的に考えるなら、言語も言語獲得も言語教育も、言語使用に即した歴史的で共同体的なものとして考えるべきとなります。「真理」は、神のイメージに即するなら、神という個体が所有する超時間的・無時間的なもののように思えるかもしれませんが、人間の言語に関する事実は個人的なものでも超時間的・無時間的なものでもありません（参考記事：&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html"&gt;「アレントによる根源的な「個人心理学」批判」&lt;/a&gt;、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html"&gt;「「政治」とは何であり、何でないのか」&lt;/a&gt;）。たとえこれまでの人間の歴史を鳥瞰してその中に常に成立している「真理」が発見されたとしても、その「真理」が未来永劫続くかどうかはわからないというのが、進化論的考え方でもあるかと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話が大きくなりました。ウィトゲンシュタインに戻ります。次は「親族的類似性」という用語です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■ある語は、必ずしも一つの共通要素ではなく、直接・間接の関連でつながる、と考えるべき&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば「言語」という語が、様々に使用されながらも、その多様性にもかかわらず同じように「言語」と呼ばれる現象は、単純な集合論的な発想を取れば矛盾です。すなわち「言語」の集合に属する、言語の使用例(U1, U2, U3, ...Un)はすべて言語の集合に共通の要素をもっていなければならないと発想するからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしウィトゲンシュタインは、そのU1, U2, U3, ... Unは、いわば一つの親族（広い意味での家族）のメンバーみたいなものだと考えます。「○○家」と呼ばれる親族メンバーがいくつかの分家などを経験しながらも、まだ「○○家」としてのまとまりを失わずに、「○○家」という言葉が使われている時、その○○家の構成メンバーの全員がすべて同じ特徴をもっているわけでもないでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;記号的に表現するなら、U1, U2, U3, ... Unにすべて同じ特徴Xが共有されているわけでは必ずしもなく、U1, U2, U3, ... Unの7割のメンバーが例えばAという特徴をもち、他のメンバーの組み合せで合計6割の○○家メンバーがBという特徴をもち、あるメンバー番号周辺にはCという特徴が固まっているかと思えば、Dという特徴はメンバー全体にまんべんなく散らばっているといったように、様々な特徴が重なりあい、離れあっているのが○○家の実態ではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインは、もっと単純なメタファー（「糸」）を使い、「親族的類似性」を次のように説明します（"Familienähnlichkeiten" （"family resemblances"））は通常「家族的類似性」と訳されていますが、ここで意味されているのはいわゆる大家族的な意味での家族だと思いますので、私はここでは「親族」と訳しています）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;67.&lt;br /&gt;この類似性を表すのに、私は「親族的類似性」以上の言葉を思いつくことができない。というのも、多様な類似性は、一つの親族の異なるメンバーの間で重なりあい、離れあいながら成り立っているからである。例えば、体格、顔つき、眼の色、歩き方、気質などである。さらに私はこう言いたい。「ゲーム」も一つの親族を構成しているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じように、例えば数の種類も、一つの親族を構成している。私たちはなぜあるものを「数」と呼ぶのだろう。それは「数」と呼ばれるものには、私達がこれまで数と呼んでいたもののいくつかと、ある直接の関連があったからである。このことによって、それには私達が数と呼んでいたもの他の数と間接的な関連があると言うこともできる。私たちが数の概念を拡張するのは、私たちが繊維と繊維をより合わせて糸を紡ぐやり方にも似ている。糸が強いのは、何か一本の繊維が糸の端から端まで貫いているからでなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;67.&lt;br /&gt;Ich kan diese Ähnlichkeiten nicht besser characterisieren, als durch das Wort "Familienähnlichkeiten"; denn so übergreifen und kreuzen sich dier verschiedenn Älichkeiten, die zwischen den Gliedern einer Familie bestehen: Wuchs, Gesichtszüge, Augenfarbe, Gang, Temperament, etc. etc.  -- Und ich werde sagen: die 'Spiele' bilden eine Familie.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Und ebenso bilden z. B. die Zahenarten eine Familie.  Warum nennen wir etwas "Zal"?  Nun etwa, weil es eine - direkte - Verwandtschaft mit manchem hat, was man bisher Zahl genannt hat; und dadurch, kann man sagen, erhält es eine indirekte Verwandtschaft zu anderem, was wir auch &lt;i&gt;so&lt;/i&gt; nennen.  Und wir dehnen unseren Begriff der Zahl aus, wie wir beim Spinnen eines Fadens Faser an Faser drehen.  Und die Stärke des Fadens liegt nicht darin, daß irgend eine Faser duruch seine ganze Länge läft, sondern darin, daß viele Fasern einander übergreifen.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;67.&lt;br /&gt;I can think of no better expression to characterize these similarities than "family resemblances"; for the various resemblances between members of a family -- build, features, color of eyes, gait, temperament, and so on and so forth -- overlap and criss-cross in the same way. -- And I shall say: 'games' form a family.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;And likewise the kinds of number, for example, form a familiy.  Why do we call something a "number"?  Well, perhaps because it has a - direct -affinity with several things that have hitherto been called "number"; and this can be said to give it an indirect affinity with other things that we also call "numbers".  And we extend our concept of number, as in spinning a thread we twist fibre on fibre.  And the strength of the thread resides not in the fact that some one fibre runs through its whole length, but in the overlapping of many fibres.&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■様々な言語ゲームの変遷的集積としての言語&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上のような考えをもつ後期ウィトゲンシュタインは、言語を、多様な言語使用の集積と考えます。さまざまな面で、直接的・間接的に相互に関連している言語使用の集積です。さらには、時代によって流行り廃りなどの変遷を経て、閉じた集合を形成していない、未来の可能性に開かれた言語使用の集積です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;加えて、ウィトゲンシュタインは、言語使用を「言語ゲーム」と名づけることにより、言語使用とは、単に言語を形式的に操作することではなく、言語を使うことによって私たちが私たちの暮らしを豊かにするものだということを印象づけようとしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下の23節には、ウィトゲンシュタインがあげた言語ゲームの例が本当は続くのですが、この引用ではそれらの例は省略しています。ウィトゲンシュタインに頼らずに、私たちの暮らしの中での言語使用の多様性を思い起こすことが、言語教育の充実のためにも重要かと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;23.&lt;br /&gt;しかし文にはいくつ種類があるというのだろうか。平叙文、疑問文、命令文の三種類だろうか。いや&lt;b&gt;数え切れない&lt;/b&gt;ほど種類があるというべきだろう。私達が「記号」「単語」「文」と名づけるものすべてを考えるなら、そこには数えきれないほどのさまざまな種類の「記号」「単語」「文」の使われ方があるのだ。しかし、この種類の多さは、一度にすべてが与えられて定まったものではない。そうではなくて、新たな類の言語、新たな言語ゲームとでもいうべきものが現れ、他方で他の言語ゲームが古くなり忘れ去られるのだ。（この変遷は、数学の変遷に似ていないこともない）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「言語ゲーム」という表現を使うのは、言語を話すということは、私たちの営み、暮らしの一部であるということを言いたいがためである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語ゲームの種類の多さを、以下の例、およびその他の例によってよく考えてほしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.&lt;br /&gt;Wieviele Arten der Sätze gibt es aber?  Etwa Behauptung, Frage und Behehl?  Es gibt &lt;i&gt;unzählige&lt;/i&gt; solcher Arten: unzählige verschiedene Arten der Verwendung alles dessen, was wir "Zeichen", "Worte" "Sätze" nennen.  Und diese Mannigfaltigkeit ist nichts Festes, ein für allemal Gegebenes; sondern neue Typen der Sprache, neue Sprachspiele, wie sagen können, entstehen und andre veralten und werden vergessden. (Ein &lt;i&gt;ungefähres Bild&lt;/i&gt; davon können uns die Wandlungen der Mathematik geben.)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Das Wort "Sprach&lt;i&gt;spiel&lt;/i&gt;" soll hier hervorheben, daß das &lt;i&gt;Sprechen&lt;/i&gt;Sprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebensform.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Führe dir die Mannigfaltigkeit der Sprachespiele and diesen Beispielen, und andern, vor Augen:&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.&lt;br /&gt;But how many kinds of sentence are there?  Say assertion, question and command? -- There are &lt;i&gt;countless&lt;/i&gt; kinds; contless different kinds of use of all the things we call "signs", "words", "sentences".  And this diversity is not something fixed, given once for all; but new types of language, new language-games, as we may say, come into existence, and others become obsolete and get forgotten.  (We can get a &lt;i&gt;rough picture&lt;/i&gt; of this from the changes in mathemetics.)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;The word "language-&lt;i&gt;game&lt;/i&gt;" is used here to emphasize the fact that the &lt;i&gt;speaking&lt;/i&gt; of language is part of an activity, or of a form of life.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Consider the variety of language-games in the following examples, and in others:&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他の言語使用者と共に言語ゲームを覚え、さらに新しい言語ゲームを覚えて一つ一つ重ねながら、同時に、重なり合わないところを拡張する部分としながら、自らの言語を広げてゆく。どの時点でも自らの言語がそれなりに完結していながら、決して閉じられておらず、自分の言語が少しずつ広くなり変化もしてゆく。それと同時に自分にとっての言語共同体も少しずつ広くなり変化もしてゆく。そしてこれらの流れの中で質的な変化も生じてゆく -- うまく言えませんが、こんな歴史的で共同体的な言語観を、ウィトゲンシュタインに倣いながら、もう少し自分の中で熟成させたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/1405159294/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=1405159294"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=1405159294&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=1405159294" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; border-image: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;（注）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;黒崎先生は、例えば『探究』の中でも最も引用される43節を「或る語の意味とは、言語ゲームに於けるその語の使用である」と翻訳しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この箇所の原文は、"Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache."ですしAnscombe, Hacker &amp;amp; Schulteの英訳でも"the meaning of a word is its use in the language."ですから、黒崎先生が「言語ゲーム」と翻訳されたところは直訳的にいうなら「言語」に過ぎません（&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469110183/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469110183"&gt;藤本隆志&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4469110183" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;訳でも「言語」となっています）。しかし、黒崎先生がおっしゃるように、ウィトゲンシュタインの議論からすればここはあくまでも「言語ゲーム」での使用について語っているのであり、ウィトゲンシュタインは例えば第7, 65, 116節などでも「言語ゲーム」と言うべきところを単に「言語」としか言っていないので（黒崎(1994)、34ページ）、ここも「言語ゲーム」と翻訳すべきかと思いました。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;黒崎先生は、この&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782800851/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4782800851"&gt;『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4782800851" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;について次のように自ら説明しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;本書は、そのような『探求』を、私が理解したと思うところに従って、（独断や偏見であるかもしれないという事を恐れずに、）言葉を補いながら徹底的に読解をし、解きほぐそうとしたものである。それ故、本書は、解説と言うには説明が少なすぎるが、翻訳と言うには挿入が多すぎるし、原文から離れすぎている。したがって本書は、普通の意味では、翻訳ではない。（3ページ）。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「普通の意味での翻訳ではない」と言うものも、気になる箇所は原文や英訳を参照すればいいわけですから、この黒崎先生の「読解」は、『探究』への一つのアプローチとして優れたものだと思います（現在、品切れ状態のようなのが残念です）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;細かいことをついでに申し上げておきますと、私はこの"Philosophische Untersuchungen" （"philosophical investigation")を『哲学的探究』と通常訳しています。『探求』と訳さないのは、ウィトゲンシュタインはこの本の中で、物事を哲学的に「究」明しようとはしていても、何か（答えのようなものを）を「求」めてはいないだろうと考えるからです。さらに個人的にはウィトゲンシュタインを読み始めた頃に、柄谷行人の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061590154/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4061590154"&gt;『探究 I』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4061590154" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;と&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061591207/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4061591207"&gt;『探究 II』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4061591207" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;を何度も読んで影響を受けたので「探究」という語の方に親しみを感じているということがあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061590154/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4061590154"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4061590154&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4061590154" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; border-image: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061591207/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4061591207"&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061591207/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4061591207"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4061591207&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4061591207" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; border-image: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-5393738943845949730?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/5393738943845949730/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=5393738943845949730&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5393738943845949730'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5393738943845949730'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html' title='ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-207836648063872526</id><published>2012-01-21T19:13:00.009+09:00</published><updated>2012-01-24T08:30:50.792+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>まとまった文書の作成法</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;以下の説明は、レポートや研究発表などのある程度まとまった文書を書く方法を、学部一年生に対して説明するためにまとめたものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いきなりワープロソフトを立ち上げて、まとまった文書を書こうとしてもまず失敗します。私もこの稼業についてある程度の年月を過ごしていますが、ある程度まとまった文章を書こうと思えば、必ず以下のような手順で、少しずつ自分の思考を段階的に視覚化してから書き始めます。結局はこのような手順を踏んだほうが早く、良い文章を書けるからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;甘い先生でしたら、いきなりワープロに書きつけたような文章でも単位を出してくれるかもしれません。しかしそのような文書作成では、あなたの分析力は高まりませんし、思考力も深まりません。単位は得ることはできても、あなたの知的成長がないといしたら、私はその「勉強」は時間の無駄だと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;単位のためでなく、自分のために、以下のような手順を踏んで、丁寧に考え、丁寧に文書を作成することを教師としてはお勧めする次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;span&gt;&lt;b&gt;1 キーワード：&lt;/b&gt; キーワードを整理する&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1.1 アンダーライン&lt;/b&gt;： これまでに読んだ資料や取ったノートのキーワードにアンダーラインを引く&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1.2 キーワードを書き出す：&lt;/b&gt; アンダーラインを引いたキーワードの中でも特に今回の文章にとって重要なキーワードを、何か他の媒体に書き出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1.3 キーワードの分類を考える：&lt;/b&gt; 次の準備のために、それらのキーワードはどのようなグループに分けられるかを考えておく。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;&lt;b&gt;2構造的関係の二次元的表現：&lt;/b&gt; &lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97"&gt;マインドマップ&lt;/a&gt;などの要領で、キーワードの構造的関係を、二次元平面で表現する&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.1 最重要キーワード：&lt;/b&gt; 今回、最重要だと思うキーワードを図の中央に書く&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.2 第二次キーワード：&lt;/b&gt; 最重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第二次重要キーワードとして選び、それらを最重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.3 第三次キーワード：&lt;/b&gt; それぞれの第二次重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第三次重要キーワードとして選び、それらを第二次重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.4 キーワードの追加： &lt;/b&gt;以上の過程で、新たに必要なキーワードが見つかったら、たとえそのキーワードがこれまでに読んだ資料や取ったノートになくとも、そのキーワードを付け足してゆく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.5 必要に応じての再編成：&lt;/b&gt; 以上の過程で、最初に想定していたキーワードの親子関係（最重要-第二次重要-第三次重要）の間の結びつきよりも強い結び付きが、別の親子関係に属するはずのキーワードとの間にあまりにも多く見つかったら、それはそのマインドマップに改変の余地があることを示しているので、新しい媒体（紙やファイル）で2.2からさらに始める（ただし古い媒体も保存しておくこと。作業をするうちに古い媒体での表現の方がやはりよかったと思い直すことはたまにあるから）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2.6 キーワードの順番づけ：&lt;/b&gt; 次の準備のために、この二次元平面で表現したキーワードの構造関係を、話して説明するという時間的順番で説明するとしたら、どういった順番になるかを考えておく。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;&lt;b&gt;3 構造的関係の時間的表現：&lt;/b&gt; 桁番号付きの命題で、キーワードの構造的関係を、説明する時間的順番で表現する。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3.1 文書全体のタイトルの決定：&lt;/b&gt; 最重要キーワードについて、結局何を言いたいのかを命題で表現する。つまり単に最重要キーワード「X」の語だけを書くのではなく、「XはYである」や「XはYをZする」などの文の形で表現する。これがあなたの文章のタイトルの原形となる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3.2 一桁命題の作成：&lt;/b&gt; そのタイトル命題を、説明するいくつかの柱を、一桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの一桁命題を順番に語れば、あなたがタイトル命題で言いたかったことがよくわかるように、一桁命題を作り並べる（必要に応じて作り替え並び替える）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3.3 二桁命題の作成：&lt;/b&gt; それぞれの一桁命題をもう少し詳しくするためのいくつかの柱を、二桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの二桁命題を順番に語れば、あなたが一桁命題で言いたかったことがよくわかるように、二桁命題を作り並べる（必要に応じて作り替え並び替える）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3.4 必要に応じての桁数の追加：&lt;/b&gt; 必要に応じて三桁命題も同じように作る。だが、無理に作る必要はない。また四桁命題までつくると、文章の構造が複雑になりすぎるため、四桁命題は作らないことを原則とする（作ったとしても、他人に読ませる文章には必ずしも表示しない）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3.5 口頭で語る：&lt;/b&gt; 書き上げた命題集を、一桁レベルの命題だけを使ってうまく口頭で説明できるか確かめる。次に二桁レベルまで語ってうまく口頭で説明できるか確かめる。三桁レベルまであれば、もちろん次に三桁レベルまで語って確かめてみる。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;&lt;b&gt;4 文書作成：&lt;/b&gt; 文章を書き始め、文書を完成させる。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.1 命題文を段落文にする：&lt;/b&gt; できあがった桁番号付き命題を、文書の骨格（構造図）として、それぞれの命題を見出しにして、その見出しを説明する文章を段落で書く。段落は複数になってもかまわない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.2 段落内・段落間での整合性確認：&lt;/b&gt; 一度書き上げたら、書いた文章が、それぞれの命題内容を忠実に反映しているか、またその命題の他の命題との構造的関係を乱すものになっていないかをチェックし、必要に応じて書き直す（2と3の作業がいい加減だと、この段階で文書が破綻していることがわかるので、2と3の作業 （特に3.5) は丁寧にやっておくこと）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.3 細かな作業：&lt;/b&gt; 書き上げたら校正をして、脚注や参考文献などを加える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.4 さらに細かな作業：&lt;/b&gt; （コンピュータで書く場合）さらにフォントの種類や大きさなどを調整する（逆に言うなら、これまでの執筆では細かなことにあまり拘らずとにかく内容に集中して書く）。この意味で、4.2までの執筆はテクストエディターで行い、4.3から初めてワープロソフトを使う（テクストエディターの文章をコピー・アンド・ペーストする）ようにすることを勧める。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="right"&gt;&lt;br /&gt;以上&lt;/div&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;div align="right"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、まとまった文書を作成する場合のテクストエディターとしては、私は&lt;a href="http://www.wzsoft.jp/wz7/index.html"&gt;WZ EDITOR&lt;/a&gt;をお勧めします。アウトライン機能が非常に便利で上記の「3.1 - 4.2」を簡単にできるからです。（ちなみに私はWZ EDITOR 5の版のままですが、これでまったく問題は感じていません）。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;また、最初の段階からワープロソフトを使うことを私が勧めないのは、現在、標準的ワープロソフトとして使われているMS Wordが、あまりにもお節介で不安定な使いにくいソフトだからです。罫線機能は時に分けのわからない動作をしますし、コメント機能や脚注機能などはよくフリーズさえします（私は基本的にこれらの機能を使わないのですが、他人からの文書を編集しなければならない時に苦労します）。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;文書を作る時は、あまりMS Wordの機能に依存した文書を作らず、テクストエディターだけでも表現できるような基本的構造の簡潔さ、ひいては論理の明確さで、わかりやすい文書を作ることを目指すべきだと思います。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;■関連記事&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;div&gt;・思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_496.html"&gt;http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_496.html&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;・コンピュータと人間知性の共進化について&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_7852.html"&gt;http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_7852.html&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;･コンピュータ上で｢思考｣をするために&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html"&gt;http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-207836648063872526?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/207836648063872526/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=207836648063872526&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/207836648063872526'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/207836648063872526'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post_21.html' title='まとまった文書の作成法'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-4399900181270288976</id><published>2012-01-21T18:50:00.003+09:00</published><updated>2012-01-21T18:55:04.130+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>学術論文における一人称(I/we)の使用</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;今、卒論と修論のチェックをしているのですが、こういった学術論文における一人称(I/we)の使い方がやはり気になります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近の傾向としては、「『学術論文では一人称(I/we)を使わない』というのは神話だ！」として、積極的に一人称の使用を勧めているみたいですけど、やはりあまりに一人称がこのジャンルで多用されていると、ちょっと奇異。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今年初めて&lt;a href="http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/09/j-williams-g-colomb-2010-style-basics.html"&gt;ライティングの教科書として使った&lt;/a&gt;J. Williams &amp;amp; G. Colomb (2010)の &lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/0205830765/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=0205830765"&gt;&lt;i&gt;Style: The Basics of Clarity and Grace&lt;/i&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=0205830765" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;では、学術論文における一人称(I/we)の使用について次のようにまとめています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;They [=Academic writers] do use the first person with verbs that refer to the writer's own writing and thinking: &lt;i&gt;cite, show, inquire&lt;/i&gt;.  These verbs are often active and so in the first person: &lt;i&gt;We will show ...&lt;/i&gt;  They are examples of what is called &lt;i&gt;metadiscourse&lt;/i&gt;.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Metadiscourse is language that refers not to the substance of your ideas, but to yourself, your reader, or your writing.&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;J. Williams &amp;amp; G. Colomb (2010, p. 31)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Metadiscourseについては&lt;a href="http://grammar.about.com/od/mo/g/metadiscourseterm.htm"&gt;ここ&lt;/a&gt;にも解説があるけど、私なりに言い換えれば、論文のトピックについての「語り」 (=discourse) に&lt;b&gt;「ついての」 &lt;/b&gt;(=meta) 著者の見解・態度・判断・方向づけなどを示す「語り」が「高次の語り・一段階高い所からの語り」 （=metadiscourse) であるとなりましょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Metadiscourseの典型例でしたら、調査結果を報告した後に、積極的に著者の独自の解釈・結論を示したい時の"We claim"や"We conclude"などになりましょうか。こういった場合に一人称は積極的に使われるわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに対して、著者独自の考えなどではなく、研究を行う者なら誰でもやるような調査手続きなどに関しては、いちいち一人称を使わず、受動態で表現することが多いとWilliams &amp;amp; Colombは言います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;On the other hand, scholarly writers generally &lt;i&gt;do not&lt;/i&gt; use the first person with verbs that refer to specific actions they performed as part of their research, actions that anyone can perform: &lt;i&gt;measure, record, examine, observe, use&lt;/i&gt;.  Those verbs are usually in the passive voice: &lt;i&gt;The subjects were observed...&lt;/i&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;J. Williams &amp;amp; G. Colomb (2010, pp. 31-32)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まあ、日本語で考えてみても、日本語はだいたい一人称を始めとした人称表現はあまり使わなくても済む言語だけれど、それでも学術的な論文で「この分析結果の中で、私が特に注目したいのは・・・」などと「私」という表現を使うのは別にかまわないでしょう（もちろん「この分析結果の中で特に注目に値するのは・・・」といった表現の方が多いでしょうけど）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし論文の中でいちいち「次に、私は○○を測定した。その後、私はその測定結果を前節の△△の分析結果と比較した。つまり私は○○と△△を実証的に検討したのである」などと書けば、その日本語は相当に「ウザイ」ものとして聞こえるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語は日本語と比べると、はるかに人称表現を使う言語ですが、それでも、個人的な話ではなく客観的な内容について語る学術論文では、著者の独自性を示すべきところでこそ一人称を使って"Agent-Action"(あるいは"Character-Action")で表現すべきであり、他の客観的な内容については受動態などの"Topic-Comment"のパターンで表現しておく方がいい、とまとめられましょうか。（別の言い方をしますと、通常は"Topic-Comment"のパターンで淡々と研究内容について述べているからこそ、いざという時に使う"Agent-Action"パターンが活きる、となります）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんこういった使い分けは、厳密な規則(rule)ではなく、だいたいの原則(principle)ですから、上の引用を金科玉条のように振りかざすのは愚かなことです。結局は、多く学術論文を英語で読み、だいたいどのように一人称が使われているかを感覚としてつかんでおく必要があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、多くを読んで言語感覚を身につけておかねばならないというのは、人称に関する表現だけの話でなく、また学術論文というジャンルについてだけの話でもないのですが・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/0205830765/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=0205830765"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=0205830765&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=0205830765" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; border-image: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-4399900181270288976?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/4399900181270288976/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=4399900181270288976&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4399900181270288976'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4399900181270288976'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/iwe.html' title='学術論文における一人称(I/we)の使用'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-6346656467093727971</id><published>2012-01-17T18:01:00.003+09:00</published><updated>2012-01-17T20:13:12.587+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>平田オリザ先生のワークショップに参加して</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;本日（2012/01/17（火曜）、10:30-12：00）に広島大学大学院&lt;a href="http://home.hiroshima-u.ac.jp/nihongo/"&gt;日本語教育学講座&lt;/a&gt;が開催した、&lt;a href="http://www.seinendan.org/jpn/oriza/profile/index.html"&gt;劇作家・演出家&lt;/a&gt;の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B6"&gt;平田オリザ&lt;/a&gt;先生（&lt;a href="http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/"&gt;大阪大学コミュニケーションデザイン・センター&lt;/a&gt;）のワークショップに参加することができました。他講座の私にも参加を許してくれた日本語教育学講座の皆様と、講師の平田先生に厚く御礼申し上げます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下は、そのワークショップで私が聞いた平田先生の言葉を、私がワークショップで体験したこと、およびこれまで考え感じてきたことをもとにまとめたものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■演劇と言語教育の深い関係&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語教育関係者の集まりで、演劇の話題を出すと、「なぜそんな関係のない（あるいは薄い）話題を取り上げるのですか」といった冷たい反応を受けることがいまだに多いです。実際、数年前に私のゼミ生（演劇経験者）が&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC"&gt;スタニスラフスキー&lt;/a&gt;の演劇論を取り上げた時、周りからは「英語教育との関係は」と聞かれるだけでなく「学習指導要領のどこにそんなことが関連しているというのですか」などと聞かれて議論の中味の方についてはあまり話を聞いてくれないので、そのゼミ生も私も閉口した覚えがあります。（学習指導要領は、その時々の国の教育方針を共有する文書として尊重されるべきですが、その枠組や用語でしか物事を考えないことは言動の教条性・頑なさにもつながりかねないので注意すべきだと私は考えています）。 ―― ちなみに日本語教育界は国際学会でも平田先生を招待したりするなど、積極的に日本語教育の理解を豊かにしようとしているそうです。また平田先生も日本語教育だけでなく国語教育でもご活躍されているとのことです。英語教育界も、もう少し、頭を柔らかくしましょう！――&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、演劇に関して、多くの言語教育関係者は（あるいは一般市民は）、「何か特別なこと」と思っているふしがあります。「わざとらしい」「そんな演技をするな」という非難は、ひょっとすると演劇に関するあまりよくない含意を暗示しているのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、平田先生がおっしゃった演劇・演技論を、私なりに言い換えて表現しますと、演劇とは、&lt;b&gt;「自分とは異なる役の中にほんの僅かでもいいから自分の心身のあり方との共通点を見出し、そこからその役の心身を自分の心身で体現しようとする中で、自分の心身の新たな可能性を見つけること」&lt;/b&gt;となるかと思います。つまり言葉（戯曲）を通じての自己発見・自己開拓であり、これは文学を読むことの身体性をさらに発展させたもととして解釈できます。そう解釈すると、演劇・演技は決して特別なことではありません。なぜなら私たちは身体を媒体とせずには言語使用ができず、言語使用の可能性は（戯曲や小説などの）文学によっておそらくは最も豊かに広がり深まり展開するからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;演技を、通念が考えるように「何か、一般に『それっぽい』とされている言動を、意識的に再現する」のではなく、平田先生は自分の人格と戯曲の役柄の共有部分から少しずつ自分の領域を開拓してゆくことと捉え、その展開を&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;「SympathyからEmpathyへ」&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と表現されました。平田先生によれば、このうまい翻訳はなかなかないそうですが（平田先生はある翻訳表現を口にされたのですが、私はそれを失念してしまいました）、上記の意味でのこの表現を、私のいつもの悪乗りで自分なりの造語で翻訳するなら、&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;「覚感から体感へ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ともなりましょうか。「なるほど、こんなところは私もあるかもしれない」と&lt;b&gt;覚&lt;/b&gt;知する共通点を、自分の&lt;b&gt;体&lt;/b&gt;でも十分に感じることができるようにするからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに悪乗りして脱線しますと、この演劇という人工的に新たな自分を創りだそうとする試みは、「人間にとっての自然」とすら言えるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「人間にとっての自然」とは武術家の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E7%B4%80"&gt;甲野善紀&lt;/a&gt;先生がよく使われる言葉で、私が最近再読した&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480092099/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4480092099"&gt;『剣の精神誌―無住心剣術の系譜と思想』 (ちくま学芸文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4480092099" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の最後でもこの論点が取り上げられておりました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;私たちはしばしば老荘思想的な「&lt;a href="http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8318/roushi_12.html"&gt;無為自然&lt;/a&gt;」を口にし、それをもって問題の解決にすべしと言いますが、私達にとって「無為自然」は果たして達成可能なこと（あるいは容易なこと）なのかと甲野先生は問いかけます。なぜなら私達人間は意識をもち言語をもち、さらにはその意識と言語をさまざまなテクノロジーで増大・増幅させるという一種の「業」をもっているからです。人間がこの「業」から離れることができないのなら、人間はもはや無垢の自然を求めることはできないわけです。それならば、業をもったままの「人間にとっての自然」あるいは「有為自然」を探究・開拓すべきなのではないかというのが（私の理解する限りでの）甲野先生のお考えです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「人間にとっての自然」や「有為自然」という表現は、形容矛盾 (oxymoron) のように聞こえるかもしれませんが、本能でほとんどの行動が決定される他の動物と違って、人間は本能以外の文化で多くの行動を決める「自由」をもっていますから、これらの表現は人間にとってまさに本質的な課題を述べていると思えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話を演劇に戻しますと、演劇とは日常生活にはない戯曲という人工物をもってきて、そこに書かれてある他人の言葉を理解し身体化しようとする中で、新しい自分という自然 ―新たに獲得したが自在に使いこなせる心身― を得るという、「有為による自然」をつくりだす試み、「人間にとっての自然」を得る文化と言えるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■脚本を身体化するということ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平田先生のワークショップの中では、短い脚本を実際に演じてもらう箇所もありました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;ここで改めて演劇が言語教育・英語教育と無関係でないことを強調しますと、いわゆる「会話文」が多い中学校の英語教科書など、脚本ばかりの教科書と言えるかもしれません。ただ英語教科書の会話文は、（外国語という制限もあって）脚本というほどには言葉が練り上げられておらず、（挿絵は時々あるものの）ト書きのようにメタ言語的情報を提供する手段も十分ではありませんから、英語教科書を一種の「脚本集」と呼ぶにはためらいがあるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから多くの英語教師は、残念ながら教科書を「標準的な発音」で機械的に音読するだけ（あるいは「発音」はCD録音かALTに委託するだけ）になっていますが、例えば&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html"&gt;佐藤綾子（さとう・りょうこ）&lt;/a&gt;先生などの、自然な感性を英語授業でも活かすことができる先生は、「正しく」「標準的」だけれども人格的な意味が伝わってこない音読を超えて、自然な（わざとらしくない）朗読を目指しています。英語教育の改善のためには、どの英語教師もこのような朗読ができるようにすべきでしょうから、英語教育にとって脚本をどう身体化するかという演劇の課題は決して無縁なものではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平田先生は脚本の話し言葉を取り上げて、「話し言葉には書き言葉以上に個性が表れる」とおっしゃいます。書き言葉というのは、もともと人工的に作られて人工的に維持改良されている標準的な言語規範ですが、自然な話し言葉というのは個性にみちたものです。その個性を声で表現するためには、脚本の登場人物がどんな人間なのかというイメージや登場人物がおかれているコンテクストをありありと思い描かなければなりません。さらにはそのコンテクストの中にいる登場人物の内に入り込むように想像力を働かせなければならないでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ワークショップで使った脚本は、偶然同じ列車に乗り合わせた三人（二人組と一人）の短い脚本であり、この中でも「旅行ですか？」という何の変哲もない一行をどう表現するかを焦点として解説がありました。これに似た試みは英語教育でも「この"Oh!"をどう読むか」という実践などに見られます。だとしたら英語教育関係者は、こういった試みの大先達である演劇関係者の言うことにもっと謙虚に素直に耳を傾けましょう。  ―― 本や論文のタイトルに「英語教育」という言葉がついていないと読みもしないという偏見はいいかげんに捨てましょうね。「忙しくて他の分野のものまで読めない」のなら、「英語教育」とは名がついてもくだらない本や論文を見極めてそれらを読まないことによって時間を作り出して、積極的に他の分野に学びましょうね。そもそも「英語教育研究」なんて盤石の体制があるわけでなく、私達の試行錯誤で進化させてゆくものだから、あまり教条的にならないようにしましょうね ――。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■英語授業でも使える活動例&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ワークショップの中ではいくつかの活動を経験しましたが、その中でも互いの趣味を知りあう活動は面白かったです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは「あなたの趣味は何ですか」「サッカーが好きです」「そうですか、さようなら」といった身も蓋もないものではありません。（こんな活動はしばしば英語授業では見られますが・・・）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参加者は一枚ずつカードを引きますが、そこには1から50までの番号が書かれています。その番号で、参加者は番号を決めなければなりません。1が最もおとなしい趣味で、50が最も活発な趣味です。もちろんこの趣味は自分の本当の趣味である必要はありません。むしろ自分の数字の程度に合わせて趣味を考えつき、それを自分の趣味として活動に参加するべきでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参加者は次々に一人ずつ相手を見つけ、互いの趣味について語り始めます（三人で話しあうことぐらいまでは許されますが、あまり大人数で話すことは禁止です）。互いに話す時には、数字以外は何を言ってもかまいません。たとえば自分の趣味をサッカーと決めたら、自分は「サッカーをプレーするのが好き」でも「サッカーについてYouTubeで動画を見るのが好き」でも何でも自由に語ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大切なのはその人の「つもりになって」語ることです。自分の数字が小さいならおとなしく、大きいなら活発にと、自分の数字に応じて趣味を決め、その人らしく語ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;語りながら参加者は相手の数字を推定します。活動はゲーム形式になっており、自分と近い数字の人間を見つけたと思ったら（互いに数字を言い合うことなく）そこで座ります。一度座ったらもう立ち上がって他の人と話すことは許されません。座った二人の数字の差が一番小さいペアが優勝です。差が一番大きいと最下位ということになります。自分と同じようなおとなしさ・活発さを、他人の話の内容と話し方から推定しなければならないのです。あまり早く決断して座ってしまうと二人の数字の差が大きすぎるかもしれません。かといってあまり決断に時間を取っていると、立っている人間自体が少なくなりますから、これまた数字の差の大きな人間とペアにならざるをえなくなるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この活動は、自分が話す内容と話し方を吟味し、同時に相手の話す内容と話し方に注目しなければなりませんから非常に面白いものでした。工夫次第では英語授業でも使えるのではないかと思い、ここで紹介させていただきました。（活動は他にもありましたが、あまり平田先生のアイデアをこんなブログで紹介するのもマナー違反かと思いますので、この紹介だけに留めておきます）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみにこの活動で私はなんと「1」を引き当てました。ですから私は「線香の火を見つめるのが好きです」とボソボソと言い続けました（笑）。―― これって、結構自分の潜在的可能性かもしれない（爆）――。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■コミュニケーションの関係性と場に注目&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;活動に続くお話では、コミュニケーションの関係性と場を重視する90年代以降のコミュニケーション教育についてのお話がありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えばあなたが母親だとします。小学校1年生の子どもが息せき切って帰ってきて「ねぇねぇ、お母さん、今日ね、ボク宿題しなかったの。でもね、○○先生は怒んなかったよ！」と笑顔で伝えてきた場合、あなたはどう応答するでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「駄目じゃない、宿題やらないと」とあなたが言うなら、子どもはきょとんとするかもしれない、と平田先生は言います。もちろん、子どもがきょとんとすると、あなたはそれを理解できないかもしれません。それは言語的には子どもは弱者であり、あなたは強者だからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語的強者は、もっぱら文字通りの意味だけで自分が言いたいことを表現する術をものにしています（書き言葉による表現がその典型例です）。しかし言語的弱者は、そのような言語表現力はもっておらず、コンテクストや非言語的情報（この場合なら「息せき切って近づいてきての笑顔」など）に大きく依存しなければ自分を表現できません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;近代社会というのは、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/blog-post_06.html"&gt;言説（＝言語使用の重層）によって権力が生成・維持される&lt;/a&gt;社会だというのは、&lt;a href="http://www.google.co.jp/search?sourceid=chrome&amp;amp;ie=UTF-8&amp;amp;q=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88+site%3Ahttp%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com%2F2008%2F11%2F2006.html#sclient=psy-ab&amp;amp;hl=en&amp;amp;safe=off&amp;amp;source=hp&amp;amp;q=%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC+site:http%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com&amp;amp;pbx=1&amp;amp;oq=%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC+site:http%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com&amp;amp;aq=f&amp;amp;aqi=&amp;amp;aql=&amp;amp;gs_sm=e&amp;amp;gs_upl=24140l26856l0l27427l11l11l0l0l0l4l220l1900l0.8.3l11l0&amp;amp;bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_cp.,cf.osb&amp;amp;fp=9d074cc3778b26bb&amp;amp;biw=1497&amp;amp;bih=965"&gt;フーコー&lt;/a&gt;や&lt;a href="http://www.google.co.jp/search?sourceid=chrome&amp;amp;ie=UTF-8&amp;amp;q=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88+site%3Ahttp%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com%2F2008%2F11%2F2006.html#sclient=psy-ab&amp;amp;hl=en&amp;amp;safe=off&amp;amp;source=hp&amp;amp;q=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88+site:http%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com&amp;amp;pbx=1&amp;amp;oq=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88+site:http%3A%2F%2Fyanaseyosuke.blogspot.com&amp;amp;aq=f&amp;amp;aqi=&amp;amp;aql=&amp;amp;gs_sm=e&amp;amp;gs_upl=3685l6746l0l7138l18l18l0l0l0l7l208l2880l0.17.1l18l0&amp;amp;bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_cp.,cf.osb&amp;amp;fp=9d074cc3778b26bb&amp;amp;biw=1497&amp;amp;bih=965"&gt;アレント&lt;/a&gt;などが言うとおりかと思いますが、言説権力での弱者とは、言語で自律的な表現ができず、場の力を借りざるを得ないがゆえに言説を十分に操れずに弱い立場に置かれ続ける人々のことかと思います。例えば、学習・健康・若さなどで、弱者とならざるを得ない子ども・患者・要介護者は、自分の言葉で自分の立場を十分に表現できません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これら言語的弱者を人間としてきちんと理解するためには、言語的強者は、弱者の発言の背後（あるいは足下）にある場・コンテクストを理解することが必要です。以前私は、言語になりきれていない弱者の声を拾い上げることの重要性を、内田樹先生の議論を通じてデイヴィドソンの論と関連性理論を比較しながら&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_9982.html"&gt;「言語使用の倫理?」&lt;/a&gt;という小文を書いたことがありますが、平田先生のおっしゃったこともこのような問題意識に重なるのかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし言語的強者が、言語的弱者の文字通りの意味しか捉えようとしなかったら、その不理解から、弱者はますますコミュニケーション能力の不全を示すでしょう。そうしてコミュニケーションの機会を失えば、弱者はますますコミュニケーションというまたとない言語の学びの機会を失ってゆきます。言語的強者は、弱者の言語コミュニケーション力を育むべきであり、それを損なうべきではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コミュニケーション能力論で言うなら、コミュニケーション能力は純粋な個人内能力ではないことを再度強調しなければなりません。しかし、詳しくは&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%8A%9B%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%90%86%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F%E2%80%95%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8C%87%E9%87%9D-%E6%9F%B3%E7%80%AC-%E9%99%BD%E4%BB%8B/dp/4874409121/ref=sr_1_2?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1326789221&amp;amp;sr=1-2"&gt;『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』&lt;/a&gt;でまとめましたが、言語学・応用言語学のコミュニケーション能力論のほとんどはもっぱら個人の枠組みでしかコミュニケーション能力を捉えていませんので、注意が必要です。（個人主義的コミュニケーションから相互作用的コミュニケーション、社会的コミュニケーションと考察の領域を広げるのは&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html"&gt;私の研究課題の一つ&lt;/a&gt;ですが、現時点での一般読者向けのわかりやすい記述としましては、大津由紀雄編(2009)&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766416562/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4766416562"&gt;『危機に立つ日本の英語教育』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4766416562" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;所収の小論をご参照いただければ幸いです）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コミュニケーション能力の発現は、そのコミュニケーションの場と関係性に大きく影響されることは無視できません。もしあなたが言語強者の間での言語使用にしか従事していないなら、その重要性には気づかないかもしれませんが、例えば&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html"&gt;「べてるの家」&lt;/a&gt;の記録などを読みますと、コミュニケーションの場と関係性を育てることがどれだけ大切なことかがよくわかります。言語的強者、特に言語的弱者を育てる社会的責務を負う言語教師は、コミュニケーションの「場」、およびその場に共存する人間の「関係性」を大切にしなければと思わされます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平田先生が所属する&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;大阪大学コミュニケーションデザイン・センター&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/"&gt;http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;は、人間が日常生活の中では深く深く知っているが、これまでの学術研究では等閑視されてきた「新しい」観点からコミュニケーションを研究しているそうです。キーワードの一つとして、単純な一方向の因果関係だけに注目しない「複雑系」の考えを込めた意味での「コミュニケーションデザイン」を掲げているそうです。このセンターの活動にも注目したいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/456977105X/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=456977105X"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=456977105X&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=456977105X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; border-image: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記 （2012/01/17）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;上の文章を書いて一息ついたら、仮に強者と同じだけの言語力をもっていても、他の（非言語的な）意味で弱い立場にあったら、その人は直接に文字通りの意味でメッセージを伝えない傾向にあることに（改めて）気づきました。つまり言語力の有無を問わず、弱者は直接的なメッセージを避ける傾向にあるということです。なぜならば直接的なメッセージならば、それを否定された場合のダメージが大きいからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;考えてみれば、語用論でもこのようなことは標準的な説として教えていました。以下は、&lt;i&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/0194372073/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=0194372073"&gt;Pragmatics&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=0194372073" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;/i&gt;の66ページの表を改変したものですが、弱者は上の表現を好みます。下の表現になればなるほど弱者は言いにくいものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;1 Say nothing&lt;br /&gt;2 Say something&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;2.1 Off record&lt;br /&gt;2.2 On record&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;2.2.1 Face saving act&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;2.2.1.1 Negative politeness&lt;br /&gt;2.2.1.2 Positive politeness&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;2.2.2 Bald on record&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1は、何も言わずに「察してくれる」ことを期待しつつ、思わせぶりな態度を（さりげなく）行うことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2になりますと、言語を使いますが、2.1でしたら、あたかも独り言を言ったように（つまりは相手に直接話したとは思われないようなやり方で）語ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.2では直接相手に話しかけているという話者の意図が、相手に明確に伝わるようなやり方で発現しますが、2.2.1では相手のメンツを潰さないような言い方をします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.2.1.1でしたら相手の自律性や自由を損なわないように控えめに発言します。2.2.1.2でしたら、相手と自分の間の連帯感に訴えかけて発言します（それだけに相手に「お前なんか仲間ではないよ」などと態度や言語で示されたらダメージを負います）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.2.2がもっとも直接的で、あからさまにメッセージだけを伝えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;具体例は省略しますが、むしろ何かの例に即して、自分でそれぞれの項目の例文を考えてみると面白いかと思います。&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-6346656467093727971?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/6346656467093727971/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=6346656467093727971&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6346656467093727971'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6346656467093727971'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post_17.html' title='平田オリザ先生のワークショップに参加して'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-8431420688841773997</id><published>2012-01-16T13:32:00.005+09:00</published><updated>2012-01-16T21:37:28.695+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='読書'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/09/910.html"&gt;慶應学習英文法シンポジウム&lt;/a&gt;の準備の頃からずっと、&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E7%9F%A2-%E8%8C%82%E6%A8%B9/e/B004L3HNDE/ref=ntt_athr_dp_pel_pop_1"&gt;野矢茂樹&lt;/a&gt;先生によるこの&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480089810/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4480089810"&gt;『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4480089810" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の議論が気になって、以来、三回ほど通読し、何度もアンダーラインを引いた箇所を読み返しました。同シンポジウムに関する研究社出版への原稿は先日第一稿を書き上げ、また推敲し書き直すために、今「寝かせて」いるところですが、その原稿でも結局この本から直接的に引用することこそありませんが、この本の議論からはある程度の影響を受けました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;授業の&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/09/2011_15.html"&gt;「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版）」&lt;/a&gt;でも近いうちにウィトゲンシュタインを扱うので、やはりこの本をまとめられないかと試みましたが、やはり私はこの本（というよりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』）の全体像を要約することはとてもできません。 ― 『論理哲学論考』に関しては、Ogdenの英訳版でしたら&lt;a href="http://www.gutenberg.org/ebooks/5740"&gt;Project GutenbergのPDF版&lt;/a&gt;、ドイツ語原文とOgden英訳とPears/McGuiness英訳の便利な対訳版でしたら&lt;a href="http://people.umass.edu/klement/tlp/tlp.pdf"&gt;このPDF版&lt;/a&gt;、ドイツ語原文とOgdenの英訳のHypertextなら&lt;a href="http://www.kfs.org/~jonathan/witt/tlph.html"&gt;このページ&lt;/a&gt;がオンラインで入手できます ―。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、いったんこの本の全体的な要約を諦めたものの、授業準備のために後期ウィトゲンシュタインの&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/1405159294/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=1405159294"&gt;&lt;i&gt;Philosophical Investigations&lt;/i&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=1405159294" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;）（日本語翻訳は&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469110183/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469110183"&gt;『哲学探究』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4469110183" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;）の最初の部分を読み返していたら、何だか『論理哲学論考』の少なくともいくつかの論点が急にはっきりわかるように思えたので、その論点だけでもここに書き残しておこうと思いました。（やはりウィトゲンシュタイン自身が『哲学的探究』は『論理哲学論考』と合わせて一冊として出版されるべきだと考えていたことからも示されるように、これらのウィトゲンシュタインの初期と後期の代表作は、重ね合わせるように読まれるべきなのでしょう）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というわけで、以下は、野矢先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の一部の論点を私の理解（あるいは誤解）なりに整理したものです。「○ページ」と表記されたページ数はこの本のページ数です。なお野矢先生は&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003368916/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4003368916"&gt;『論理哲学論考』の翻訳&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4003368916" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;も岩波文庫から出版されています。こちらから引用する場合は「（岩波）」と表記します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「1.1」など表記された数字は『論理哲学論考』の節番号を表します。節番号は一桁のものが最も重要な節です。桁数の多い節は桁数の少ない節の補助説明です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ドイツ語はウィトゲンシュタインによるもの（上記サイトより引用）で、英語は、末尾に(O)と書かれたものはOgdenの英訳表現で、(P/M）と書かれたものはPears/McGuinessの英訳表現です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下のまとめでは、私が野矢先生（およびウィトゲンシュタイン）が行った厳密な用語法を、乱暴にまとめてしまったところも多々あります。また途中で、野矢先生が言ったことから脱線して、私個人の愚論を展開しているところもあります。ですから、ご興味のある方は必ず、上記のきちんとした本を読んで下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」としての「論理形式」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「対象」(Gegenstand; object (O)(P/M))（2.01)を、とりえあず「世界の究極の要素」ぐらいに考えた上で、ウィトゲンシュタインがその「対象」について述べていることに注目してみましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。（49ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.0131 Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht sene externen -- aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.0131 In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities. (0)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.0131 If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its intrnal properties. (P/M)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この内的/外的な性質について野矢先生は次のように解説します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば、物体は時間空間的位置をもつ。物体がある&lt;b&gt;特定の&lt;/b&gt;時間空間的位置を占めていることは偶然的なことであり、外的であるが、そもそも&lt;b&gt;なんらかの&lt;/b&gt;時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。（51ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、ウィトゲンシュタインは内的/外的な「性質」について述べますが、野矢先生はこの「性質」は、「形式」あるいは「論理形式」と呼んだ方が誤解が少ないだろうとします。（52-53ページ）。その上で、野矢先生は対象の内的性質、論理形式について次のように述べます。外的性質を知ることの記述に引き続いての文です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;それに対して、対象の内的性質、論理形式とは、そうした探求の範囲を示すものである。そのトマトは、位置について、色について、形について、硬さについて、味について、いかなる性質をもっているかを探求することができる。いわば、対象の論理形式とは、その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリーにほかならない。その質問の答えを知っている必要はない。しかし、どういう質問をすることができるのかは理解していなければならない。たとえば、それがどこにあるのかは知らなくても、「それはどこにあるのか」と尋ねることができる、そのことは分かっていなければならない。その対象の論理形式を捉えていないのであれば、そもそも何を調べてよいか分からない。そして対象を捉えるとは、「さて、これから&lt;b&gt;こいつ&lt;/b&gt;について、どんな性質をもっているかを調べてやるぞ」と探求の出発点に立つことを意味している。それゆえ、対象を捉えるためには、その対象の論理形式を把握していなければならない。（55ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;トマトの論理形式の例として、上には位置・色・形・硬さ・味が上げられていますが、それらがトマトのもつ論理形式のすべてなのかについては疑問が残ることでしょう。しかし（どこで読んだか忘れましたが）ウィトゲンシュタインはこの「対象」の議論で、何ら具体的な物を考えていたのではなく、形而上学的な議論を行なっていたはずなので、ここではそれを問題とはしないことにしましょう（ウィトゲンシュタインは「形而上学的」という言葉を嫌っていますが、それもここでは問題としないことにします）。その上で述べるなら、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;としての「論理形式」とは十分に理解できる概念かと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「対象」、「事態」、「事実」、「世界」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;究極の「対象」、すなわち他の対象と組み合わされていず、それだけで成立している純粋で単一なる「対象」とはまさに形而上学的概念であり、それを具体的に例示することはできませんが、私達が普通に「事態」と呼ぶものは、いくつかの「対象」が組み合わさったものだ、という考え方は、まあ日常的にも理解できるものでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィトゲンシュタインの考え（世界観）をまず単純化して表現するなら次のようになります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;世界 ＝ すべての事実の総体 (1)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一つの事実 ＝ いくつかの事態が成立していること  (2)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一つの事態 ＝ いくつかの対象が組み合わさっていること (2.01)&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;世界&lt;/b&gt; &lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;＝複数の  [&lt;b&gt;事実&lt;/b&gt;] の総体 &lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;＝ 複数の [たくさんの《&lt;b&gt;事態&lt;/b&gt;》] の総体 &lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;＝複数の  [ たくさんの 《多くの&lt;b&gt;対象&lt;/b&gt;の組み合わせ》 ] の総体&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;とも表記できるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり「世界」はすべての「事実」から構成されているが、一つ一つの「事実」とは、多くの「対象」の組み合わせからなる「事態」がさらにいくつか集まって成り立っていることから成立している、となります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だからどうなんだ」と言われそうですが、「対象」を理解するためには必要ですし、『論理哲学論考』では、いきなりこの用語法が出てきて面食らうことが多いので、ここにまとめておく次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。（「成立していることがら」 （der Fall, the case)という用語が入ってきますが、議論の骨子は上で単純化した通りです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1  世界は成立していることがらの総体である。 （岩波 13ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2  成立していることがら、つまり事実とは、諸事態の成立である。 （岩波 13ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.01 事態とは諸対象（もの）の結合である。 （岩波 13ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1  Die Welt ist alles, was der Fall ist.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2  Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.01 Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen. (Sachen, Dingen.)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2 The world is everything that is the case. (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2  What is the case, the fact, is the existence of atomic facts. (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.01  An atomic fact is a combination of objects (entities, things). (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1  The world is all that is the case (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2  What is the case -- a fact -- is the existence of states of affairs.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.01 A state of affairs (a state of things) is a combination of objects (things)(P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■論理的な使用に限っての「言語」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて次は『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインが「言語」についてどう議論を展開したかについて考えます。最初に断っておかなければならないのは、ここでの「言語」はもっぱら論理的に使用されるものに過ぎないということです。言うまでもなく、言語使用には、論理的でもなく真偽を決定できる命題でもない言語使用があります（例えば挨拶や命令文）。しかし『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは、論理的な使用に限っての「言語」についてのみ議論を進めます。私たちの思考の限界を見極めようとして論理的に使用される言語についてのみもっぱら考えます。論理に限らない多彩な人間の営みは、 後期の『哲学的探究』で登場します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうウィトゲンシュタインの（論理的な）「言語」とは、すべての「命題」の総体です。それぞれの「命題」は現実の「像」である限りにおいて真か偽でありえます。「命題」のうち有意味な命題が私たちの「思考」と呼ばれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私なりに単純化するとこうなります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;「命題」 ＝ 現実の「像」&lt;br /&gt;（ただし、真の「像」もあれば偽の「像」もある）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「思考」 ＝ 有意味な命題&lt;br /&gt;（ただし、真偽を確定しようとして、後で偽と判明する命題を語ることも有意味ではある）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「言語」 ＝ 命題の総体&lt;br /&gt;（つまり、真の命題も偽の命題も、有意味な命題もナンセンスな命題も含めた、&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;あらゆる可能な命題の総体）&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;4  思考とは有意味な命題である。 （岩波39ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.001 命題の総体が言語である。（岩波39ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.003 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。・・・（後略） （岩波39ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.01  命題は現実の像である。&lt;br /&gt;命題は現実に対する模型であり、そのようにしてわれわれは現実を想像する。 （岩波40ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.06  命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる。 （岩波47ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4  Der Gendanke ist der sinnvolle Satz.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.001  Die Gesamtheit der Sätze ist die Sprache.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.003  Die meisten Sätze und Fragen, welche über philosophische Dinge geschrieben worden sind, sind nicht falsch, sondern unsinning. ...&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.01  Der Satz ist ein Bild der Wirklichheit.&lt;br /&gt;Der Satz ist ein Modell der Wirklichkeit, so wie wir sie uns denken.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.06  Nur dadurch kann der Satz wahr oder falsch sein, indem er ein Bild der Wirklichkeit ist.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4  The thought is the significant proposition. (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.001  The totality of propositions is the language.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.003  Most propositions and questions, that have been written about philosophial matters, are not false, but senseless.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.01 The proposition is a picture of reality.&lt;br /&gt;The proposition is a model of the reality as we think it is. (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.06  Propositions can be true or false only by being pictures of the reality. (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4  A thought is a proposition with a sense.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.001  The totality of propositions is language.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.003  Most of the propositons and questions to be found in philosophical works are not false but nonsensical.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.01  A proposition is a picture of reality.&lt;br /&gt;A proposition is a model of reality as we imaginie it.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.06  A proposition can be true or false only in virtue of being a picture of reality.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて「言語」が『論理哲学論考』においては、論理的な使用に限った言語といった特殊な意味で使われているのと同じように、「名」は『論理哲学論考』において「対象」の代わりをするもの、という特殊な意味で使われています&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;3.22  名は命題において対象の代わりをする。  （岩波27ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.22 Der Name vertritt im Satz den Gegenstand.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.22 In the proposition the name represents the object.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.22 In a proposition a name is the representative of an object.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この定義から、「対象の論理形式」は、「名の論理形式」と等しいことになります（63ページ）。「命題」の中の「名」は、対象の論理形式が許す範囲で命題の中で使われます。ということは「有意味な命題」（＝「思考」）において「名」が示す「名の論理形式」こそが「対象の論理形式」ということになります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし究極あるいは単一で純粋な「対象」とは形而上学的概念であり具体的な事物ではなかったように、純粋な「名」も形而上学的概念であり、『論理哲学論考』での「名」を、私たちの日常言語の名詞と考えるべきではないでしょう。（「名」は、命題が「完全に分析された」要素となった「単純記号」のことであるとウィトゲンシュタインは定義しています （3.201および3.202)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから「私たちが名詞をどのように・どこまで使えるか、というのが世界の究極の構成要素の分析となっているのだ」などというのは短絡です。「私が目の前に見ている『これ』に対して私は『X』という名詞を使う」という関係が、そのまま「対象」と「名」の関係であるわけではありません。「対象」は、私達が認識する事態や事実の中に複雑に組み込まれています。そして「対象」の像である「名」は、私達が日常的に使用する文や文章の中に複雑に組み込まれています（ウィトゲンシュタインは「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能」とさえ言います（4.002)。また『哲学的探究』にも単純な対象を同定することの困難が語られています）。だから日常言語の名詞の使用の詳細な分析が、そのまま世界の究極の分析となるなどとはなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■言語獲得と言語使用は、思考の獲得であり使用である&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし純粋な「名」が複雑に組み合わされた「命題」の総体 ―あらゆる可能な命題のすべて― が「言語」である（4.001）とは言えるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「総体」といった緩やかな意味で、言語を習得するということ、つまりは言語を使用できるようになるということは、同時に真偽や有意味性を学ぶであるとは言えるでしょう。つまり、言語を習得するということは、可能な命題をすべて扱いうるようになるということであり、その中でどの命題が真でどの命題が偽であり、どの命題が有意味な思考でどの命題がナンセンスであるかを見極めながら使用することと言えるかもしれません。（もちろん一部の言語学者でしたら、完璧に統語的だが意味不明な言明ばかりする人も「知性に偏りがあるものの『言語』（あるいは『文法』）は獲得している」というでしょうが、ここでは常識的な意味での言語習得・言語使用について議論します）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;命題の真偽判定は、現実世界に関わることですから、観察や計測などで決定される経験的なものです。しかし、何が有意味であり何がナンセンスであるかを判定するのは、まさに思考を学ぶということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから非常に単純化した言い方をすれば、言語を習得するとは、（現実世界での真偽決定という経験的な言語使用に加えて）、&lt;b&gt;思考を学ぶ&lt;/b&gt;ということになります。逆に言うなら、思考を学ぶには、言語を習得しなければならない、となります。そして思考の学び＝言語習得は、言語使用においてなされます。言語をきちんと使用することができるようになることは、同時にきちんと思考できるようになることと言えるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■文学や哲学は世界のあり方の可能性を探ること&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;真偽決定できる経験的言語使用以外の、有意味・ナンセンスの境界線まで届こうとする言語使用を学ぼうとすることは、事態の中に複合的に組み込まれた対象の「論理形式」（「内的性質」）の複合的な組み合わせについて考えることを学ぶということです。これは可能な世界のあり方について考えることです。世界はどうあり得て、どうあり得ないのかということを、「外的性質」の経験的実証はさておき、「内的性質」「論理形式」において考えようとすることです（前にも説明しましたように、その「内的性質」「論理形式」は単純な対象の「内的性質」「論理形式」ではなく、多くの対象の「内的性質」「論理形式」の複雑な組み合わせなのですが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さてこれまでは言語使用の論理的な側面だけを考察した前期ウィトゲンシュタインと彼の翻訳者に従って"Satz"を「命題」(proposition)と訳してきましたが、ご承知のように"Sats"とは「文」(sentence)とも訳せる語です。今、私はウィトゲンシュタインが述べたことを、緩やかに言い換えていますので、その方針を続け、今後は「文」という表現も必要に応じて使うことにします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;経験的実証の「外的性質」ではなく、対象・事態・事実・世界の「内的性質」である「論理形式」をもっぱらの基準にして言語を使用することの典型例の一つは、小説です。例えば村上春樹の&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/20101q84-book-3.html"&gt;『1Q84』 &lt;/a&gt;などの小説は、月が二つあるなどの点で私達の世界の「外的性質」には大きく違反するような世界や出来事を描きながらも、私達の世界理解の「内的性質」・「論理形式」には違反しない物語を書くことにより、世界中の読者の共感を得ています。このような小説を読んでも、科学的知識はおろか世俗的知識もほとんど得られず、大げさに言うなら私たちはひたすらこの世界の「内的性質」、私達の「論理形式」の可能性について小説の言語を通じて学んでいます。この学びは経験的な知識は増やしませんが、私達の世界のあり方の可能性を広げ深めさらには質的にも転換してくれています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小説家だけでなく、哲学者も「ありうる世界」「あるべき世界」について語ります。世俗知に長けた人は、しばしば小説家や哲学者を「世間知らず」として馬鹿にしますが、仮にそうだとしても、小説家や哲学者は世俗知に長けた人よりはるかに「世界のあり方」について知っているのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どこで読んだか忘れたのですが、「世間は、政治家やビジネスマンが未来を創ると思っているが、未来を創るのは文学者である。文学者は新たな言語を紡ぎだすことで、新たな世界のあり方を創っている」といった発言を最近読んだように思います。必ずしも物事の「外的性質」には即していないかもしれないが、物事の「内的性質」「論理形式」を見極め、その可能性の限界を広げるや哲学者は、言語の可能性を探ることで、私達の思考、そして私達の世界の可能性を豊かにしていると言えるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■言語習得の複合的・循環的全体性&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;数多くの「対象」が複雑に組み込まれた事態や事実は、「対象」の「論理形式」も複雑に組み込まれた形で含んでいます。その事態や事実をの真偽を確かめるために文を使い（＝例、自然科学における言語使用）、さらにはその事態や事実の可能性を限界まで考えようとしてナンセンスとなるギリギリまで文を使うこと（＝例、文学や哲学などの人文学での言語使用）は、数多くの「対象」、つまりは事態や事実の論理形式を、分解できない複合的な全体性の中で学ぶことになります。特に、後者の言語使用での文の有意味性やナンセンス性の判断 ―つまりは思考―は、世界の表現としての言語の分解できない複合的な全体性に基づいています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここに思考を学ぶこと＝言語使用を学ぶことの難しさがあります。思考と言語は、分解して学べないのです。複合的な全体性の中にいわばいきなり飛び込まねばなりません。飛び込むと、分解不可能だと思った部分が実はさらに分解可能だったり、その他の部分と複雑に絡み合ったり、さらにはその他の部分の理解が実は当の部分の理解に基づいていることに気づいたりします。完全な分析など不可能な、複合的で循環的な言語使用の全体性をものともせずに、言語を使い、「なるほど」と言われたり「そうかな」と問われたり「それは違うだろう」と反駁されたりと言語共同体の中で言語使用し続けるしかありません。そのように複合的で循環的な言語使用の全体性に飛び込まないと、私たちは思考と言語を学べないのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母国語（第一言語）を獲得するとは、まさにそのようなことです。野矢先生は次のように言います。（私からすれば、野矢先生は「名」と日常言語の「語」、および「命題」と日常言語の「文」をそれぞれ同一視したような言い方をなさっているように思えますが、それは今は問題にしないことにします）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;実際、われわれが母国語を習得してきたプロセスは、いきなり仲間にさせられるというものであったろう。ひとつひとつ語の論理形式が説明され、それを順番にきちんと把握しながら習得してきたわけではない。それはまさに言語全体の循環の中に参加していくプロセスだった。よく訳の分からない状態で言語使用のただ中に放りこまれる。そしてつながりあった論理形式の網の目を調整し、拡大しながら、いまに至っている。その結果、まがりなりにも、「猫」の論理形式ぐらいは胸をはって知っていると&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして子どもが言葉を学んでいく過程は、同時に、世界から対象を切り分けていく過程でもある。赤ん坊は最初から物たちの世界に生きているわけではない。周りで使用される未分節の命題が名に切り分けられ、その論理形式が網の目全体としてしだいに明確になってくるにつれ、対象もその姿を明確にし始める。これが、われわれが対象に到達する方法に他ならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。だが、そのことはすなわち、ミケが他の場所に動いていったり、ミケがもっとスリムだったり、いまは寝ているミケが起きて走りまわっていたり、さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後にもっていなければ成り立たないことである。すなわち、眼前の事実から対象を切り出すには、その対象がどのような可能な事態の内に現れうるかを了解していなければならない。他方、可能性は言語によってのみ開かれる。ミケという対象の可能性は、「ミケ」というながどのような命題によって現れうるかという可能性、すなわち「ミケ」という名の論理形式としてのみ、捉えられるのである。しかも、ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである（73-74ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■『論理哲学論考』の中の言語使用的意味論&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よく私たちは、後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』を、前期の『論理哲学論考』の完全な否定として捉えがちです。『哲学的探究』の有名な意味論が「語の意味とは、言語内でのその語の使用である」(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. - The meaning of a word is its use in the language.)(43節）である以上、そのような意味論の使用説は前期の『論理哲学論考』にはでてこないのではないかと思ってしまいますが（私もそう思っていました）、野矢先生が解説するように、言語習得の複合的・循環的全体性が『論理哲学論考』で論じられている以上、使用説的意味論は ―あるいはその根源的な形は― 『論理哲学論考』にもあります。具体的には3.26とその補助命題です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;3.26  定義を用いて名をさらに分解することはできない。名は原子記号である。（岩波28ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.261  定義によって導入された記号はすべて、その定義に用いられている記号を&lt;b&gt;通して &lt;/b&gt;[複合的なものを] 表現する。定義はそうして [複合的なものに至る] 道を教える。&lt;br /&gt;原子記号、および原子記号によって定義された記号、この二種の記号が同じ仕方でものを表すことはありえない。名を定義によって他の記号へと分割することは&lt;b&gt;でき&lt;/b&gt;ない。（他の記号に依存することなくそれだけで意味をもつ記号を、定義によって他の記号へと分割することはできない。） （岩波28ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.262  記号において表現されえないことを、記号の使用が示す。その記号が呑み込んでいるものを、記号の使用が表に現す。（岩波29ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.263  原子記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原子記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味にすでになじんでいるひとだけが、解明を理解しうる。（岩波29ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.26  Der Name ist durch keine Definition weiter zu zergliedern: er ist ein Urzeichen.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.261  Jedes dininierte Zeichen bezeichnet ü b e r jene Zeichen, duruch welche es definier wurde; und die Definitionen weisen den Weg.&lt;br /&gt;Zwei Zeichen, ein Urzeichen, und ein duruch Urzeichen definiertes, können nicht auf dieselbe Art und Weise bezeichnen.  Namen k a n n man nicht duruch Definitionen auseinanderlegen. (Kein Zeichen, welches allein, selbständig eine Bedeutung hat.)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.262  Was in den Zeichen nicht zum Ausdruck kommt, das zeigt ihre Anwendung.  Was die Zeichen verschlucken, das spricht ihre Anwendung aus.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.263  Die Bedeutung von Urzeichen können durch Erläuterungen erklärt werden.  Erläuterungen sind Sätze, welche die Urzeichen enthalten.  Sie können also nur verstanden werden, wenn die Bedeutunggen dieser Zeichen beteits bekannt sind.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.26  The name cannot be analysed further by any definition.  It is a priminitve sign.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.261  Every defined sign signifies &lt;i&gt;via&lt;/i&gt; those signs by which it is defined, and the defionitions show the way.&lt;br /&gt;Two signs, one a primitive signs, and one defined by primitive signs, cannot signify in the same way.  Name &lt;i&gt;cannot&lt;/i&gt; be taken to pieces by definition (nor any sign which alone and independently has a meaning).  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.262  What does not get expressed in the sign is shown by its application.  What the signs conceal, their application declares.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.263  The meanings of primitive signs can be explained by elucidations.  Elucidations are propositions which contain the primitive signs.  They can, therefore, only be understood when these signs are already known.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.26  A name cannot be dissected any further by means of a definition: it is a primitive sign.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.261  Every sign that has a definition signifies&lt;i&gt; via&lt;/i&gt; the signs that serve to define it; and the definitions point the way.&lt;br /&gt;Two sigins cannot signify in the same manner if one is primitive and the other is defined by means of primitive signs.  Names &lt;i&gt;cannot&lt;/i&gt; be anatomized by means of definitions.  (Nor can any sign that has a meaning independently and on its own.)   (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.262  What signs fail to express, their application shows.  What signs slur over, their application says clearly.   (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.263  The meanings of primitive signs can be explained by means of elucidations.  Elucidations are propositions that contain the primitive signs.  So they can only be understood if the meanings of those signs are already known.   (P/M)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すこし緩くさらに拡張して言い換えますと、こうなるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし仮にとても単純な対象があり、その対象にある名があり、言語を習得していない子どもがまず最初にその名を習得しようとするとしてみよう。子どもは、周りの大人からその名の定義を与えられることによってその名の意味を理解することはない。なぜなら定義は他の名の組み合わせによって構成されているからであり、子どもはそれら他の名の意味を知らないからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、子どもが、その名を含んだ発話が周りの大人によって有意味に使用される環境で、その大人にあたかもその子どもはその発話を既に理解できる存在であるかように取り扱われ生活を共にすることによって（Zone of proximal development?)、その子にとっては、だんだんとその語の意味がどんなものであるか解明されるようになる。この場合の「解明」とは、自分が既にできていること（ということは、理解しているし知っているはずのこと）のあり方がだんだんと明らかになってゆくこと（そしてその使用がますますうまくなること）であり、自分がまったく知らないことが定義によって新たに・突然に把握されるといった「説明」とは異なる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;複雑な意味の語は言語使用に長けていないと理解できない、というのは想像しやすいことであるが、単純極まりない意味の語すらも言語使用の中に入り込まないと理解できないということは考え難いことかもしれない。しかし「『X』って『あれ』さ」というこれ以上単純にできないぐらいの直示的定義(ostensive definition)ですら、聞く者は「あれ」が何であるのかを容易に理解できないのは、後期の『哲学的探究』が示す通りである・・・。（このあたりの議論は、後日、稿を改めて行います）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「解明」について、野矢先生は次のように述べています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;それ [＝解明] は何も知らない人に何ごとかを教えようとする「説明」ではありえない。すでに名を用い、命題を使用できている人だけが、自分のやっていることを明確にすべくそれを反省し、整理して、自分の言語使用を解明することができる。それは積極的に循環の中に入り込むことにほかならない。（272ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれにせよ、『論理哲学論考』が言語習得の複合的・循環的全体性を語り、語の習得のためには、（あたかも既にその語を理解しているように）その語を言語共同体の中で使用しなければならない、といった考えを示しているように思えることは、強調しておくべきでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■語りえないことを語り続ける&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして言語使用に私たちの考察を向けてゆくと、メタファーのことが気になってきます。メタファー（特に「隠喩」）は、語の論理形式に違反するような言語使用でありながら、ナンセンスに聞こえないからです。野矢先生は次のように述べます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;この方向で考察すべき話題はまだ数多く残されている。たとえば、いま私にぼんやりと見えているひとつの主題は「比喩」である。「山が笑う」のように言ったとき、この比喩表現を知らない人にとってはこれはただのナンセンスでしかない。「山」も「笑う」も知っている。しかし、その組み合わせを許すような論理形式はまだ知らない。そこでたとえばある人と浅い春の日を歩いているとき、その人が「山笑うって感じだなあ」などと口走ったとしよう。そのときそこに、何か未知の意味があると思うだろう。そしてそれが無効に見えている山の、まだ白っぽい緑のうぶな情景を表すのだと知るとき、「笑う」としか形容しようがない山の表情が論理空間の中に新たに組み込まれることになる。この比喩は歳時記にも載っている定型表現であり、いわゆる「死んだ比喩」であるが、ひとはときにまったく新しい比喩を使う。それは数学の問題がそうであるように、「私に意味を与えてみよ」という挑戦として、聞き手の前に現れる。そうして新たな比喩は、論理空間の外にいる意味の他者の声となるのである。（319-320ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように私たちの既知の論理形式に違反するような言語使用は、前期ウィトゲンシュタインにとっては（確証はありませんが）「語り得ぬもの」だったのかもしれません。だからウィトゲンシュタインなら、私たちは「沈黙せねばならない」と宣言するかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;7  語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 (岩波149ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7  Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.  (O)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7  What we cannot speak about we must pass over in silence.  (P/M)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、私たちの論理形式を、ひいては論理空間を揺るがすような比喩は私たちの言語生活の中で確固とした役割を果たしています。「言語の創造性」といえば、私たちは言語における統語論のrecursionのことを第一に考えますが、意味論のmetaphorも言語的な人間の創造性の源であるともいえるでしょう（このあたりと「教師の成長」の関係を、ひつじ書房の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476542X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476542X"&gt;『成長する英語教師をめざして　--　新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476542X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;で書きました。お読みいただけたら幸いです）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは新しい表現を、例えば比喩で作り出し、その有意味な使用において、私たちの言語使用、ひいては思考の可能性を豊かにします。野矢先生も、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」を「語りきれぬもの」とした上で、次の言葉を本書の結びの言葉にしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;語りきれぬものは、語り続けねばならない。(323ページ）&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この虎の威を借りて、狐の私としては、このような駄文を書き連ねることの言い訳としたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おそまつ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480089810/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4480089810"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4480089810&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4480089810" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003368916/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4003368916"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4003368916&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4003368916" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/1405159294/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=1405159294"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=1405159294&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=1405159294" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469110183/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469110183"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4469110183&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4469110183" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-8431420688841773997?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/8431420688841773997/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=8431420688841773997&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8431420688841773997'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8431420688841773997'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html' title='野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-8743325764599949102</id><published>2012-01-14T19:30:00.002+09:00</published><updated>2012-01-18T16:51:44.947+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武術'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>介護、武術、そして教育</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「英語教育」という看板を掲げながら、武術ヲタのような話ばかりをするこのブログに愛想をつかしかけている方もいらっしゃるでしょうが、そんな方にトドメをさすために本日は介護の話をします（笑）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というより、本日読んだ医学書院の「&lt;a href="http://igs-kankan.com/"&gt;かんかん！　看護師のためのwebマガジン」&lt;/a&gt;の記事があまりに素晴らしかったので以下に紹介する次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教室や学校における身体のあり方の重要性をすでに痛感されている方は、そのまま原文を読んだほうがいいかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;「介護されるプロ」、古武術介護を体験する&lt;br /&gt;&lt;a href="http://igs-kankan.com/article/2012/01/000540/"&gt;http://igs-kankan.com/article/2012/01/000540/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下は、ほんの少しだけ身体について考え始めた私が私なりにまとめたものです。私は、近代競技スポーツの一種となってしまった「スポーツ武道」ではない、昔からの武術を教えていただく中で身体の重要性をようやく自分の身体で実感できるようになりました（このわずかの実感さえなかった以前の私ってどんな心身だったんだろう。まあガチガチの我意マシーンだったのだろうなぁ。離婚もするしうつ病も患うわけだw）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は武術を学ぶ中で、身体が緊張するとは何か、「力む」とは何か、「力みを捨てる」とは何かなどということを考え続けています。これらの理解により、力みのない身体（ひいては心身）とならないと、武術の技などできないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのような問題意識を持つ私には、生まれつきの脳性まひという障害で「起床から身支度、排泄、入浴に至るまで、生活全般において他者の物理的な手助けを必要として」おり、かつ「極度に緊張しやすい」熊谷晋一郎氏の、自分自身の「緊張」の現象を記述した文章は、非常に勉強になりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「緊張」の三側面&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;熊谷氏は「緊張」という現象を、「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」、「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」の三側面から説明します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「自明だった動きパターンの崩壊」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一の側面は、緊張で過剰に自意識が発動してしまい、無意識（非意識）の動きが阻害されてしまうものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;緊張しているときの体の動きは、それまで半ば無意識に、自動的にこなせていた歩行や姿勢維持といった基本的な運動パターンがわからなくなり、次にどちらの足を動かすべきか、などの一挙手一投足の選択決定に、意識が張り巡らされた状態になっている。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武術でしたら、技にダメ出しをされたことなどがきっかけとなって、うろたえ緊張し、自分の動きを過剰に意識してしまい、これまでできていたことまでもが急にできなくなることなどがあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;身体技能としての英語使用でしたら、私は初めてアメリカに行ったことを思い出します。実は私が初めて渡米したのは9.11以後でした。アメリカでの入国審査が厳しくなったという話をさんざん聞いていた私は、アメリカでパスポートを提示した時にかなり緊張していました（私にはかなり心配性のところがあります）。その緊張状態で入国審査官に「あなたが参加する学会のapplied linguisticsとは何のことか」と問われた時に、私はてっきり疑いをかけられたのかと思いガチガチに緊張してしまいました（書きながら、今思い出しました。私はドイツで列車に載っている時に、不法移民と疑われ私服警官5人にいきなり取り囲まれてひどく驚き緊張したことがあります。アメリカ入国の時にも無意識レベルでそのことを想起していたのかもしれません）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう緊張しているとまあ自分でも驚くぐらい英語が喋れなくなりました。私は先日受験したTOEFL-ITP試験では677点（リスニング68、ストラクチャー68、リーディング67）を取るぐらいの英語力はもっていますが（この記事末尾の「&lt;span style="font-weight:bold;"&gt;追記&lt;/span&gt;」を参照）、もうまともに文構成すらできず、しどろもどろになってしまいました。後で考えると私は列の最後尾で、その日は暇だったのか、審査官は世間話をしようとしただけなのでしょうが、まあ、緊張するとこんなにもパフォーマンスが低下するものかと自分でも驚きました。ですから緊張すると「自明だった動きのパターンが崩壊」するということはよくわかります。皆さんも似たようなご経験はおもちでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「動きの自由度の減少」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一の側面に続いて、熊谷氏は第二の側面である「動きの自由度の減少」を説明します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;それと同時に、体全体がしなやかさを失って、硬い棒のようになる。例えばリラックスしているときならば、全身にたくさんある関節や筋肉をそれぞれバラバラに動かすことができるが、緊張すると、一つの部分を動かそうとすると他の部分も連動し、一体化して動いてしまうのである。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武術でしたら「びびって」あるいは「あがって」緊張してしまって、身体がガチガチになった状態でしょうか。下手をすると可動点が少なく可動範囲も小さなロボットみたいな動きしかできなくなってしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;熊谷氏もこの「動きの自由度の減少」が非常に大きな問題となることを述べています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;体が緊張すると何が問題か。それは、緊張の二側面のうちの一つ、「動きの自由度の減少」にかかわっている。一つの身体が、重力や、外界にある様々な道具や起伏のある地形などとしなやかに関係を取り結びつつ、自らの動きを生成し続けるためには、身体の内部に柔らかな自由度がなくてはならない。もし体が岩のようにがちっとした一塊ならば、動きのレパートリーは「転がる」か「砕け散る」かぐらいしかなくなってしまうのだ。そして私の身体は、岩ほどではないにしても、その硬さによって外界としなやかな関係を取り結ぶことが難しいのである。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武術で緊張してしまったら、例えば相手の攻撃を受けようとしても、自分が一塊の剛体みたいになって、一定程度までは踏ん張っても、その臨界点を超えたら、急にバターンと倒されてしまいます。しかし「力みを取る」ことができていたら相手の攻撃に柔軟に合わせながら自分のバランスを失わず、相手の動きと自分の動きを調和させ、さらにはいつのまにか相手のバランスを失わせて崩すことすらできます（私はまだほとんどできませんが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語使用で考えますと、緊張してしまったら顔がこわばり、言葉も滞りがちになり、準備していた言葉や常套句をかろうじて発語するだけになってしまいます（こうした緊張に備えて、多くの人は大舞台でのスピーチなどには、読み上げれば済むだけの完全原稿を手元に用意します）。緊張していなかったら、当意即妙に言葉が出てくる人も、緊張してしまったら言葉につまることは私達もよく経験することだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;緊張しやすい熊谷氏は、このように「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」をしばしば経験します。それでいて、「まったく無防備な自己の身体を、他者に預け続ける」ことが必要なわけですから、熊谷氏には「それなりの怯えと覚悟が必要」となります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その中で生じるのが、緊張の第三の側面である「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」です。第一、第二の側面と違って、この第三の側面は肯定的な働きを持ち得ます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから私は、この「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」という第三の側面は、常に緊張状態の中で他人の介助に頼らなければならない熊谷氏が発達させた側面だと考えます。第一・第二の側面である「自明だった動きパターンの崩壊」と「動きの自由度の減少」は、通常の人間が覚える「緊張」を&lt;b&gt;構成する要件&lt;/b&gt;として考えられますが、第三の側面の「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」は、熊谷氏が自らの緊張状態時に発揮することを学んだ側面であると私は理解します。この側面は、熊谷氏の緊張に伴うことはあっても、通常の人間の緊張には伴わないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いわば「介護されるプロ」として、熊谷氏は、緊張しながらも、以下のように感性を研ぎ澄ませます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;たとえば、はじめて出会う介護者に身体を触れられる時などは、全身の感覚が研ぎ澄まされ、タッチの柔らかさやリズム、しなり、フィット感などから、その介護者についての情報をなるべくたくさん得ようとしている。緊張は、先ほど述べた二つの側面に加えて、入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされるという、3つ目の側面を持っているといえるのかもしれない。恐る恐る触れてはすぐに引っ込める、弱腰の介護者がいるとおもえば、物を扱うようにやる、侵入的な介護者もいる。終始かったるそうな人もいるし、善意だが不器用な人もいる。たとえが適切かわからないが、そのとき私の身体は、ちょうどセクシュアリティーに匹敵するような繊細さで、情報を収集しているのである。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに熊谷氏は、「≪能動的に触れられる≫工夫」をします。介助者に、突然一方的に触られてしまうのではなく、介助者の意図を察知しその意図を自分でも共有しつつ触らせ・触られるようにするわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;誰でも、不意に触れられた時というのは、「その感覚がなにものであるか、それに対して次に何をすべきか」という意味付けが間に合わず、びっくりするものだ。逆に能動的に触れるときは、意識をこれから触れる対象に照準し、視覚聴覚など五感を総合しながら触れるため、意味付けが容易で驚くことは少ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;介助が生活必需品である私は、他者に触れられる機会が多い。先ほど述べたように受動的に触れられるというのは怖い事だから、工夫が必要になる。そこで私が重要視しているのは、触れられる前の意図の共有である。つまり、意図を共有することで受動性をなくし、≪能動的に触れられる≫工夫が必要なのだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この≪能動的に触れられる≫工夫が特に必要になるのは、例えば駅で見知らぬ人に介助を頼まなければならない時です。熊谷氏は周りの人を見て、その視線の合い方で、進んで介助してくれそうな人を見つけ出します。見つけ出すといってもそれは一方的なものでなく、介助してくれそうな人は、視線の共有によって熊谷氏にその意図を伝えています。いわば、二人が同時にお互いを見出すわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;熊谷氏はそのような人に介助を願います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;こちらが「いける」と思える人は、介助に対する能動性を発している。体の構えは、いつでも動けるように前傾姿勢でスタンバイしている。そういう身体の一挙手一投足をじっと見て取り込み、その人になったつもりで頭の中で再構成し追体験すると、相手の意図が読めてくる。まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚だ。熊谷が能動性を失わずに触れられることを可能にできるのは、この「憑依」ともいえる状態が実現されたときである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;相手の「能動的な意図」が私に憑依すると、私の身体もモゾモゾと構えを変え始める。介助してほしい身体部位に意識が集中していくのが分かり、介助されやすいような姿勢に体が組み換わっていく実感がある。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■武術に本質的な感性・感知・感応、そして「水月移写」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このあたりの熊谷氏の記述は、まるで武術の記述かとも思わされました。合気道系の接触技（あるいは中国武術での「聴勁」）では、触り触られる中で相手の意図を（それどころか時には、相手がまだ自分でも自覚できていない意図までも）感知しそれに感応して動きます。あるいは非接触系の武術でも、達人は相手の心身の動きを、即そのまま自分の心身に写しこみます（いわゆる&lt;a href="http://www.hino-budo.com/aikido.html"&gt;「水月移写」&lt;/a&gt;です）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;通常、「カウンター」攻撃といえば、(1)「相手の攻撃動作そのものへのカウンター」、を指します。相手の攻撃行動が開始された後に相手よりも速い自分の攻撃行動を開始して相手に打撃を与えます。これには相手の動きよりも自分の動きが「速い」必要があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし「カウンター」にはあと二種類あります。二つ目のカウンターは、(2)「相手の攻撃動作の起こり」に対するカウンターです。相手の攻撃動作が本格的に開始される前の微細な動きを感知しそれに対して反射的にカウンターを与えるわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三つ目のカウンターは、(3)「相手の攻撃しようという意志」に対するカウンターです。(2)の微細な動き以前・以下でしか現れない、相手の意志の動きを自分の心身に移写しそれに感応してカウンターをするわけです。（「相手の意志を自分の心身に移写」などというと非科学的に聞こえるかもしれませんが、ベンジャミン・リベットが&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/400002163X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=400002163X"&gt;『マインド・タイム 脳と意識の時間』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=400002163X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;で言うように、人間は、自らが身体を動かそうという意志を自覚するよりも約0.5秒前に既に神経活動を開始しています。ですから卓越した達人が、その神経活動のほんのわずかの体現を、常人にはとても察知できない微細なレベルで感知しそれに反応することは、科学的にも十分考えられることです。というより実際問題としても、この三番目のレベルのカウンターを実際に行なっている武術の達人は現在もいます）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一つ目のカウンターが「速さ」（＝動作そのものの速度）に依拠しているのに対して、二つ目と三つ目のカウンターは「早さ」（＝動作の開始タイミング）によるものです。二つ目のカウンターは、相手の攻撃行動が本格的に指導する前の「早い」時点でカウンターを始めています。三つ目のカウンターにいたっては、相手が自分の攻撃意図を自覚するかしないかの非常に「早い」時点でカウンターをします。ですから相手としてはもう何が何やらわからないうちにやられてしまう格好になります。（以上の「カウンター」に関する記述は、日野晃先生の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894228238/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894228238"&gt;『武術革命―真の達人に迫る超人間学』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894228238" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の209ページの記述を参照・参考にしたものです）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三つ目のレベルのカウンター攻撃は、上記の「水月移写」レベルの心身をもっている人（注）のみができるものでしょうが、まあ、そこまでは言わずとも身体が非接触状態でも、人間は相手の意図を感知することができます（これは、相手の心を推量する・理論的に予測するなどという「賭け」ではなく、相手の心身と自分の心身を同調させる外れることのない感応です）。非接触時でもこうなのですから、相互の身体が接触している時には、相手の心はより読みやすいでしょう（武術ヲタでない方、お待たせしました。熊谷氏の話に戻ります）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■相互協調する複数の心身&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;熊谷氏を駅でたまたま介助をすることになった人は、多くの場合、介助になれていないでしょうから、熊谷氏は接触している身体を通じて、相手に非言語的に自分の意図を伝え、リードします。しかし常にそうであるわけではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;基本的には私が司令塔ではあるが、いつも私がリードする訳ではなく、時には介助者がリードする局面もある。そんな時でも互いに憑依した状態ならば、自分で自分に触れる時と同じように触れる意図、触れ方、触れられる感覚が予期できているから、怖いということはない。しかし、憑依から外れて意図が読めなくなると、急に皮膚の予期しない場所に、予期しない刺激が、予期しないタイミングで訪れるため、びっくりしてしまう。そして再び意図の結びなおし作業が必要になってくる。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように感性に優れた二人の場合は、接触面を通じてお互いがお互いの意図を読み取り、修正し、相互協調的に意図を合わせてゆきます。次は、古武術を基に介護技術を開発している&lt;a href="http://shinichiro-okada.com/"&gt;岡田慎一郎&lt;/a&gt;氏に介助された時の熊谷氏の記述です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;2秒か3秒程度、私の体を這いずり回った手は、やがて答えをはじき出したかのように、ひとつのまとまった運動を形成し始めた。それは、意志が確定した瞬間のように私には感受され、私自身も「よし、もちあげられよう」という意志が同時に固まった。その瞬間、めったにないような軽やかさで、体がふわりと宙に浮いた。自明な動きパターンの崩壊だけでは具体的な動きを形成できない、しかし、動きの自由度の減少だけでは相手の体としなやかな関係を取り結べない。あくまでその両方に引き裂かれる緊張の中で、そのつど、相手となじんだしなやかな動きが即興的にうみおとされていくのである。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、そもそもが異なる心身である二人が、いつも完璧に同調しているわけではありません。しかし同調が崩れた時も、二人の心身は協調的に同調を取り戻そうとします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;私は岡田氏が「持ち上げよう」と意志を固めた瞬間に、同じように「持ち上げられよう」という意志を固める。しかし、実際の持ち上がり方がにぶいものだった場合、その情報は岡田氏の脳だけではなく、自分の脳にも届けられる。介護者の重みや疲れを被介護者も同じように感じられる時というのは、二人の意志が共鳴しているだけではなく、二人の身体が効率よくエネルギーや情報を伝えあう協応構造を形成しているのだろう。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった介護の現場から、人間の身体には相互を感知し合う優れた能力があることがわかります。この能力の存在は武術の現場からもわかることは上で述べた通りです。武術家の&lt;a href="http://shinichiro-okada.com/"&gt;甲野善紀&lt;/a&gt;先生が最初に介護のことを語り始めた時に、私も武術と介護のつながりを理解することができませんでしたが、身体を最大限に働かせようとするなかで、介護と武術は繋がってゆきます（強弁をしますと、究極の武術とは、邪気と敵意を持った相手を介護し、相手のその邪気と敵意を祓ってやることとすら言えるかもしれません）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■相対する心身の現象としての授業&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;強弁ついでに、授業という教育活動について考えてみましょう。授業を単なる情報伝達の場と考えて、授業を機械に代行させることができるものとみなすこともできますが、現場教師にとっては、授業とは、必ずしも学ぶ気になっていない学習者（時にはあからさまな敵意さえもっている教室の囚われ人）に学びを誘発する行為とみなした方が納得がいくのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしその「誘発」が容易ではないので、多くの教師は力づくで学ばせる途を選びます。その力には、教師の大きな体格、突然の物音・音声、高圧的な態度、権力による脅し、不安にさせることによる支配などさまざまな力がありますが、どれも学習者の心身の状況にかまわず、一方的に押し付ける点で共通しています。そして私たちはそのような手段でとりあえず学習者をコントロールできる教師を時に「教育のプロ」と呼んでしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんそのような「教育のプロ」などというのは、真の達人ではありません。いや「達人」という言葉を出すまでもなく、そのような力ずくの教師は、同じようなSM的感性をもった一部の成功した学習者を除いて、学習者に慕われることがないでしょう。さらに重要なことは、学習者はその先生のもとを離れたら、おそらくはその学びをやめてしまうでしょう。たとえその先生の前ではよい点を取っていたとしても。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;介護の世界にも、そのような悪い意味での自称「プロ」がいるようです。熊谷氏はそのような人に対して批判的です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;経験上、「腕に覚えのある介護のプロ」と自認をしている人に対して、私は良い印象を持っていない。自称「介護のプロ」の中には、《オレ流》を押し付けてくる人が多いという偏見をもっているためである。それは、過剰な自信によって介護者自身に緊張が不足しており、被介護者の身体から発せられる情報を拾わずに、あらかじめ決められたやり方を遂行する介護状況だから、情報の流れが「介護者→被介護者」と、一方向的になる傾向がある。そのような介護者の手は、道具ではあっても、探知機にはなっていないと思っている。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;究極の教育とは、別々であった二人の人間が、学ぼうとする心身として互いに同調（あるいは共鳴）すること、と言えるかもしれません。最初は教師にだけあった学ぶ心身が、学習者にも伝播します。伝播といっても一方的なものではなく、教師は学習者の心身に合わせて自分の心身を同調（あるいは共鳴）させます。だから学習者は自分は理解されたとも思いますし、先生を理解したとも思います。そうやって学習者の心身が学びについて整えられたら、おそらくはその学習者はその先生のもとを離れても、学び続けるでしょうし、学びの喜びを他人にも伝えるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このセクションの私の教育論は、青臭い理想論・観念論のように聞こえるかもしれません。いや実際、教師としても、武術を稽古している者としても駄目な私が語っている以上、これは理想論・観念論にすぎません。しかし、教育とはどうあるべきかという理想・観念があまりにも失われているように思える昨今、このように、他分野の現象記述を参考にしつつ、教育という分野で人間の心身が本来なしうることを模索しようとすることも決して無意味ではないと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まあ、難しいことを言わずとも、私達の身体はこわばっていませんか。あるいは学習者の身体は。教師と学習者の心身が伸びやかな教室を私たちは望みたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4260010042/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4260010042"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4260010042&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4260010042" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4260008897/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4260008897"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4260008897&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4260008897" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注）&lt;br /&gt;「水月移写」は「うつるとも　月も思わず　うつすとも　水も思わぬ　猿澤の池」（あるいは「広沢の池」）という道歌から来ていますが、日野晃先生は、&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894223813/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894223813"&gt;『武学入門 武術は身体を脳化する』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894223813" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;で、この「水月移写」を達人の核として次のように解説しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;その核とは、色々な武術資料等に残る「水月移写」という言葉であり、（もちろん精神を支えとした身体状態である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この言葉の実体は、意識や無意識領域、そして肉体の隅々までも安定させていれば、自分の身体に全てを写し出すことが出来る、ということになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一般的には「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」、つまり、こちらの意識や無意識領域を含んだ全てが水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じ取ってしまう、ということであり、心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される、という訳になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「水月移写」という身体状態は、人間を「生物」というレベルにまでコントロールする。そうすることで、生物としての「反射」を可能にするのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、これは一般的に言われる、運動としての「反射神経」というレベルではない。運動としての反射は、いわゆる動態視力的なものを指し、「具体的肉体運動の起こり」に対しての資格情報からの運動だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;達人の「反射」は、そういった動態視力を介在した反射なのではなく、相手の&lt;i&gt;意識の揺らぎ&lt;/i&gt;に対しての「反射」だ。つまり、運動が起こる以前の&lt;i&gt;意志や意識に対しての反射&lt;/i&gt;である。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、この「生物反射」と「武術的運動」が組み合わされているのが、名人の体術の核ということになるのだ。（48-49ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような無意識的反射としての「水月移写」を、日野先生は医療場面にも見出します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;例えば、いくら治療の技術が卓越していようが、その治療家（医者も含む）が気遣いのない人間であれば、また、思い込みをはじめとする観念的なことが先走っている人、そして、対立・対抗的な人（総称で言えば、幼稚で傲慢、人との関わりを全く分かっていない人）だとすると、大方の病気の方は無意識的に「緊張」という反射を起こしてしまう。そうすると、いくら治療の技術が卓越していようが、病気の方はまずはじめに「緊張」し、そのことによって無意識的なところで拒否反応が出てしまうので、結果として良い治療の結果が得られない。さらに悪いことには、人との関係を全く分かっていない医者は、病気の方に対して「不快感」を与えることになり、治療以上に逆の作用を与えてしまうことにもなるのだ。もちろん、こういった無意識的なことなので、患者側も敏感に察知できる方とそうではない方とに分かれるが、察知できないからといって、悪い高価がないのではない。ただ&lt;b&gt;察知できないだけ&lt;/b&gt;なのだ。（160ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような話を聞くと「はあっ？そんなのエビデンス出してから言ってくださいよね」と馬鹿にする人もいますが、私は上の幼稚で傲慢な医者などとは正反対の人を実際に知っていますので、このようなことはあることだと思えます。私が知っているその方は、多くの人に思慕され、その人が来ただけで場が和むような人です。―　と、こう書きながらその方のことを思い出していると、その方とは正反対のような人のことも思い出してしまいました。そのような人が来たり、声が聞こえてくると、確かに私などの身体は微かながらも確実に緊張します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、私のことはさておき、このような身体論をする時に大切なのは、やはり&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;「身体の実感に自分の頭が素直に従えるだけの柔軟性があるのか？」（221ページ）&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ということでしょう。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記 （2012/01/18）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある学生さんが教えてくれたのですが、TOEFL-ITPでの677点というのは満点なのだそうです。私のスコアはリスニングとストラクチャがそれぞれ68点でリーディングが67点だったので、私はリーディングを一問間違えたかと思っていたのですが、これらのスコアは全部満点でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.box.com/s/0vmd4t8dif2supff48z9"&gt;TOEFL-ITPのスコア表（2012年1月18日にダウンロード）&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;TOEFL-ITPの公式ホームページ&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.ets.org/toefl_itp/content/"&gt;http://www.ets.org/toefl_itp/content/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「嘘つけ！」と疑う人のために、念のためのスコアのコピー（笑）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.box.com/s/8a338p83k3rpj3rtf3li"&gt;TOEFL-ITP（2011年12月17日実施）柳瀬のスコア&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-8743325764599949102?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/8743325764599949102/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=8743325764599949102&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8743325764599949102'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8743325764599949102'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post_14.html' title='介護、武術、そして教育'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-5219884871540401398</id><published>2012-01-13T12:42:00.006+09:00</published><updated>2012-01-13T14:01:45.779+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='読書'/><title type='text'>白井恭弘 (2012) 『英語教師のための第二言語習得論入門』大修館書店</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004311500/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4004311500"&gt;『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4004311500" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の時と同様、この本の草稿を読ませていただくことができた御縁で、この&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469245704/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469245704"&gt;『英語教師のための第二言語習得論入門』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4469245704" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;もいち早く入手することができました（よく言われることですが、ゲラ刷り原稿ときちんと製本された書籍というのは、まったく違って見えるものです。総合作品としての書籍はやはりいいものです）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;冷静に第二言語習得論を考えるということは、「明日から使える授業のテクニック」などを求めて東奔西走し右顧左眄することよりも、はるかに実践的で現実的だと思います。この『英語教師のための第二言語習得論入門』は、タイトルが示すように、前作の『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)よりもはるかに親切に第二言語習得論が教室現場にどのような意味合いをもつかを解説してくれています。こちらを先に読んでから岩波新書を読むと、第二言語習得論という科学の実践的意味合いがより理解できるでしょう（科学と実践は、直接的・直線的には結びつきませんが、科学の理解は実践の洞察力を深め、実践の経験は科学に展開を促す批判的な問いを与えます）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;値段も安いこともあり、この二冊は英語教師必携・必読の、専門的教養書といえるかと思います。まあせめて、このくらいは買って読みましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4469245704/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4469245704"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4469245704&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4469245704" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004311500/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4004311500"&gt;&lt;img border="0" src="http://ws.assoc-amazon.jp/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;amp;Format=_SL160_&amp;amp;ASIN=4004311500&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=AsinImage&amp;amp;WS=1&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ServiceVersion=20070822" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4004311500" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-5219884871540401398?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/5219884871540401398/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=5219884871540401398&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5219884871540401398'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5219884871540401398'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2012.html' title='白井恭弘 (2012) 『英語教師のための第二言語習得論入門』大修館書店'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-4436797186694867558</id><published>2012-01-05T21:03:00.001+09:00</published><updated>2012-01-05T21:13:58.504+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武術'/><title type='text'>日野晃先生による「文科省が『武道』を導入」という記事</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;1月3日の私の記事&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post.html"&gt;「身体で考え、示す」&lt;/a&gt;でも書きましたように、ふと&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%99%83"&gt;日野晃&lt;/a&gt;先生の著作が目にとまり、それらを再読できたことは本当に幸運なことでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうやって日野先生のことを少し改めて調べてみるとブログも書かれておりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;日野晃のさむらいなこころ&lt;br /&gt;&lt;a href="http://blog.ap.teacup.com/hinobudo/"&gt;http://blog.ap.teacup.com/hinobudo/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あわててRSS購読を始めましたところ、すぐに知ることができたのが1月4日の「文科省が武道を導入」の記事でした。このブログ記事の続きは以下のページに全文掲載されていますので、ここではその全文掲載ページのURLを掲載します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;文科省が「武道」を導入&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読んで、様々なことを感じさせられましたので、勝手ながらここに日野先生の文章を引用（適宜、読みやすさのための改行を挿入）しながら、私の蛇足の文を加えます（ご興味ある方はぜひ上のページの全文をお読みになって、原文の流れに即してご自身で様々なことを感じ取ってください）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日野先生は、文科省が武道を学校教育に導入するというニュースに対して、日頃から「日本の軍国主義（への逆戻り）」を過敏に糾弾する国々が何もコメントを出していないことから、国際的にも「武道」というものが、「完全に習いごとやスポーツの一つであり、何ら本質が無い」と見られていると考えます（そういえば国内でも武道の導入を「本来怖ろしいものを学校教育に入れること」として捉えている声はほどんどないように思えます）。日野先生は「武道も舐められたものだ」とおっしゃいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日野先生が慨嘆されていることは、武道とスポーツの違いがまったく理解されていないことです。まあ、たいていの日本人にとっての「柔道」とはオリンピック競技のことであり、海外の人にとっては"Judo"でしかないというのが実際のところでしょう。「えっ、Judoも武道でしょう？」というわけです。しかし、日野先生は武道とスポーツの違いを見失ってはいけないとします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;むろん、スポーツ競技が悪いだのレベルが低いだのという話ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;スポーツと武道は全く違うという話だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武道と呼ぶからには、少なくとも GHQ が禁止したものでなければいけない。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こう書くと、日野先生は、武道導入によって軍国主義を復活させるべきと言いたいのかと思われるかもしれませんが、それは誤解です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;しかし、ここで勘違いてもらっては困る。&lt;br /&gt;武道＝軍国主義ではないし、武道＝意味の無い精神主義でもない事を。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武道の本質には二重性がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その一つは、自分以外の価値のあるものを、 自分の生命を投げ出して守ること 。&lt;br /&gt;例えば、家族であり、地域であり、国のことだ（外国でいえば軍人のことだ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その一つは、 生命ということを直視（死生観）すること である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この二点が暗黙の内に備わっている精神が、日本には脈々と流れており、それが日本を取り巻く当時の環境や間違った指導者の為に歪められた結果、軍国主義と呼ばれる結果になっただけなのだ。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;競技スポーツは大半の場合、競技者個人の栄光や満足のために行ないます（そしてその個人を有する組織・団体・国がその栄光をできるだけ利用しようとし、競技者に様々な便宜をはかることも周知の通りです）。しかし武道は、個人（＝言い切ってしまうなら、私利私欲）のためでなく、自分以外の何か・誰か大切なものを守るために稽古します。自分自身をも守ることも当然ながら目指しますが、武人は究極のところで、犬死でなく、自らの生を完成させるための自らの死に方・死に場所を求めます ― そのあたりをエンターテイメント作品でわかりやすく描いているのは&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/12/last-samurai.html"&gt;「ラスト・サムライ」&lt;/a&gt;です。現実世界では例えば、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/2010_21.html"&gt;東京消防庁ハイパーレスキュー隊&lt;/a&gt;がそういった「サムライ」がまだ生きていることを示したかと思います ―。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この、生命を投げ出すことをも回避しないという武道の第一の本質は、第二の本質である死生観にそのままつながります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武道では、人を殺傷しかねない技を稽古します。現代の稽古では仮想上のことにすぎないかもしれませんが、稽古での身体を通じて生死と向きあうわけです。武道の稽古では死生観が練磨されます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;つまり、こちらの一瞬の隙、一瞬の決断の鈍り、曖昧な動き、無駄な動き等が、こちらの生命の危機に直接繋がるということであり、こちらの攻撃そのものは、相手の生命と関っているからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;したがって、死生観とでもいうべきものと共に、成長していかなければならないのが、武道の稽古なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;死生観 とは、死を通した生の見方をいう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人が死んだらどうなるか？どこへ行くのか？死後や死者をどう捉えるか？その大前提の下に、生きることとは何か？死ぬこととは何か？等に対しての見方、考え方のことである。&lt;br /&gt;むろん、正解などどこにもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことと正面から向かい合い考える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その考える過程に意味があるだけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その意味で、答えだけを求めたい、あるいは知りたい現代人には、まるで不向きなことだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;下手をしたら相手に大怪我をさせてしまいかねない武道の稽古では ― つまりルールで安全を十二分に確保した競技スポーツではない本来の武道の稽古では ― 自分本位で身体を動かすことが許されません。そのような自分勝手な動きでは攻撃することも防御することもできないからです。武道の稽古では我意・我見・我執を取り去った動きを修めなければなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;また武道を、体操や単なる運動と無意識的に捉えていれば、 脳から身体そのものに発する神経系統の信号は、従来のまま、つまり、幼児や子供の頃から自然成長的に培ってきた、単純な運動系の信号でしかないからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、自我と自意識の表れとして、根本的に自分本位で物事を進める、という思考回路が定着している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこを変換させる、進化させる、ここに武道を稽古する意味、稽古が武道になっていく意味があるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこが面白いところだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、端的に言えば現代において&lt;b&gt;武道を学ぶとは、自分を超えて行くところにある&lt;/b&gt;、という一語に尽きるのだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「自分本位で物事を進める思考回路を変換させ」、「自分を超えて行く」ことが単なる観念論でなく、実際の技に直結していることを日野先生は解説されます。ですがこのあたりは理解しにくいところかとも思いましたので、以下、日野先生の文章を私なりに書き直してみます（同時に私は、私の誤解が混入してしまうことを怖れます。繰り返しますが、ご興味を持たれた方はぜひ&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;原文&lt;/a&gt;をご参照ください）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「自分を超えて行く」とは、心においては「自分勝手を排除する」ということであり、運動においては「自分勝手に動かない」ことです。「自分勝手に動かない」ことは、よく言われる「相手の力を利用する」や「相手に逆らわない」でもありますが、これは言うは易く行うは難しいことです。特に相手が武道をきちんと稽古しているなら、その相手は違和感を察知する能力が極めて高く、自分が「相手に逆らわない」ように動いているつもりでも、相手にはその違和感がすぐに察知されてしまうからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武道での察知能力は、相手の投げる、突く、斬る等の「いま・瞬間」、意識の起こりを察知することです。武道の守り（盾）においてはこの察知能力を高めます。しかし、戦わなければならない相手には守るだけでなく攻撃しなければなりません（矛）。ですが、その攻撃（矛）が相手に察知されれば攻撃はできません（逆に反撃すらされてしまいます）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここに武道の稽古の「矛盾」があると言えます。つまり互いに限りなく攻撃能力（矛）を高めながらも、同時に限りなく察知能力（盾）を高めなければならないということです。相手の高い察知能力（盾）を超えようとする中で、武道を稽古する者は自分の攻撃（矛）の背後にある「意識の起こり」（＝自我や自意識、ひいては自分勝手）を消すことに努めなければなりません。そのように稽古をつめば攻撃能力（矛）は高くなります。また、それは自らの察知能力（盾）をさらに高くすることにつながるでしょう。かくして武道の「矛盾」は限りなく武人を練磨するわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日野先生は、この身体操作における自我・自意識・自分勝手の問題に向き合うことも、武道にとって本質的なことであり、この問題を回避したままの運動を武道の稽古と呼んではならないとお考えのようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;つまり、ここを乗り越えていけるかどうかは別として、乗り越えて行こうとする事を武道の稽古と呼ぶのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、そのことは昔日の達人と呼ばれた人達だけが、逆に言葉を返せば、ここに気付いた人、乗り越えた人が達人と呼ばれ後世に名を残す結果となったのである。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに日野先生は、もし「武道」を学校教育に導入するのなら、この自意識の問題を外してはならないとします（この問題を扱わないのなら、「武道」導入は、単なるスポーツ種目の追加であり、学校教育に本質的な変化はもたらされないと考えるべきでしょう）。ですが現実の「武道」導入の背後には様々な政治的事情があるにせよ、多くの国民が思っていることは、日本社会はこのままでよいのか、何らかの本質的な変化が必要なのではないか、ということでしょう。それならば新たなスポーツ種目ではなく武道を学校教育に導入すべきでしょう（しかし、指導者が圧倒的にいないという深刻な問題もあるのですが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;もしも、学校教育として武道を導入するなら、これらの要素を外しては話にならないのだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;また、これらの要素を外してはいけない理由に、武道としてではなく社会生活を送る人としても外してはいけない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幼い自意識の大人を排出すれば、つまり、自分勝手を正しいと思う人を排出すれば、社会は無茶苦茶になるから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、メディアを賑わす事件を見れば分かる筈だ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;すでに排出されているということだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、武道の話をしましたが、このブログの本来の読者（のはず）である、学校英語教育関係者の方々は、縁遠い話と思われたかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、そうではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは日野先生が滋賀県のある小学校で6年生のあるクラスで行ったワークショップのエピソードからもうかがうことができます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;小学生達は少し緊張した面持ちで、教室に集合していた。&lt;br /&gt;初日は、まず武道についての話を、休憩を取らず二限に渡って話をした。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;この長時間に及ぶ難しい話を子供達は、微動だにせずに聞いた。&lt;br /&gt;それをこの場にいた、校長を含め各クラスの担任や副担任は驚いたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;休憩時間の時、その事が話になった。&lt;br /&gt;担任達は一限であっても、子供たちを集中させるのは難しいのに、どうして皆は私の話を聞いたのか、と不思議がってその理由を私に聞いてきた。&lt;br /&gt;それが本来の武道の最重要要素である「相手に声を届ける」の実際であり、「正面向かい合い」だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私自身が子供達と正面から対峙し話をした。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;もちろん、それだけではない。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;子供達の表情、身体の表情を観察し、退屈しているのか集中されているのか、を見極めながら話をしていたのだ。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;それが正面向かい合いの一面でもある。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;つまり、一方通行的正視ではなく（一方通行的正視は『睨む』という）、相互に関係性が築き上げられる仕掛けを持つ正視ということである。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/school-budo.htm"&gt;http://www.hino-budo.com/school-budo.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この、相手に「正面から向かい合い」「声を届ける」ことは以下のセミナーで行われているようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;武禅&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/buzen3.html"&gt;http://www.hino-budo.com/buzen3.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;第85回武禅（平成23年10月8～10日）レポート&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hino-budo.com/buzen5.html"&gt;http://www.hino-budo.com/buzen5.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たまたま卒業生からもらったメールでの新年メッセージにも、次のような述懐がありました。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;９か月の教員生活を経験して、英語教員として新たに気づいた課題も多くあります。授業規律をつけることの難しさ（生徒指導面）、生徒一人一人と信頼関係を築くことの難しさ、そして授業には日々”変化”が必要であるということなどです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして字面におこしてみると、学生時代にも上記のことの重大さを知っていたような気が致しますが、実際に生徒たちの日々の変容を目の当たりにしてみると、まるで違ったことのように感じられます。今まで考えていた対処法をすれば、すっと解決する、そんな簡単なことではないと実感します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学生時代に対処法だと思っていたことがこんなにも実践するのが難しいことなのかと、日々考え、悩んでおります。生徒たちは、言葉尻ひとつ、ことば選びひとつで、全く違う感情を抱きます。そう考えると、二の足を踏んでしまったり、対応が後手になったりと多くの失敗を重ねました。これらを次年度には生かしていきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学生時代に字面で学んだ知識が無駄だとは思いませんが、その知識も、教師の生身で具現化し、生身の生徒との関係の中で活かされなければ、役にたちません。教師は「現場」の「実践家」である以上、具体的な関係性の中で感性を十分に働かせなければなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教師が生徒に「声を届ける」ことの大切さは、かつては&lt;a target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/mn/search/?_encoding=UTF8&amp;amp;x=0&amp;amp;tag=allmor-22&amp;amp;linkCode=ur2&amp;amp;y=0&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;field-keywords=%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%95%8F%E6%99%B4&amp;amp;url=search-alias%3Daps"&gt;竹内敏晴&lt;/a&gt;&lt;img src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;氏などが力説していましたが、まずは生徒と正面から向き合い、生徒に声を届けることを、すぐにはできないにせよ、試みなければ、どんな指導法を学んでも、どんなに声を荒らげても、無駄なのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まあ、そのように自分自身と他人（ひいては自他の生死）と向かい合うことを回避し続けることが可能になるように、企業が次々と商品を発売してゆき、人々が次々にそれに目を奪われようとすることが、現代の高度資本主義社会・消費社会と言えばそれまでなのですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、この文章をまとめながら感じたことは、この書いている自分自身の自分勝手さです。こうして文章を書くことで振り返ってみると、私は武道の稽古はおろか、日常の仕事も生活も自分勝手にしか行なっていません。私も少しはきちんと自らの我意・我見・我執に向き合わなければと思います。少なくとも自分は恥ずかしい存在なのだという自覚は忘れないようにしたいと思います。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-4436797186694867558?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/4436797186694867558/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=4436797186694867558&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4436797186694867558'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4436797186694867558'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post_05.html' title='日野晃先生による「文科省が『武道』を導入」という記事'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-1102070443032501007</id><published>2012-01-04T14:01:00.003+09:00</published><updated>2012-01-26T07:48:11.984+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ルーマン'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究'/><title type='text'>言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 （草稿：HTML版）</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;以下は、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/08/blog-post_18.html"&gt;2011年8月21日の第37会全国英語教育学会で口頭発表&lt;/a&gt;した研究の草稿です。授業&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/09/2011_15.html"&gt;「言語コミュニケーション力論と英語授業」&lt;/a&gt;の参考資料としてここに掲載します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;***&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="right"&gt;&lt;br /&gt;広島大学 柳瀬陽介&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1 序論&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1.1 背景と先行研究&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;質的研究は、2000年代から日本の英語教育界でも認知されるようになってきたが、質的研究に関する原理的理解はまだ十分ではない（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/12/html.html"&gt;柳瀬 2011&lt;/a&gt;）。リフレクションやナラティブも実践としては進められているが（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/12/2009.html"&gt;吉田 2009&lt;/a&gt;）、さらなる発展のためには原理的理解を必要とする。自己やコミュニケーションといった根源的テーマを理論的に掘り下げ、かつその理論的理解を実証的に検討しておく必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己やコミュニケーションについては、近年の神経科学やルーマンの社会学などがそれぞれの立場から同じような理論的理解に到達しようとしている。神経科学は「自己」について、フロイトらが説明した無意識(unconsciousness)以外に、自覚や想起が不可能な非意識(non-consciousness)の領域があることを明らかにした。その非意識がなしていることは膨大なものであり、私達が「自由意志」(free-will)として想定していた意識の働きは存外に限られかつ遅延されたものであることも解明されてきた（&lt;a href="http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/08/mind-time-by-benjamin-libet-and-some.html"&gt;Libet 2005&lt;/a&gt;, &lt;a href="http://www.amazon.com/Incognito-Secret-Lives-David-Eagleman/dp/0307377334/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;amp;qid=1325651203&amp;amp;sr=8-1"&gt;Eagleman 2011&lt;/a&gt;)。さらに「自己」(self)とは、認知機構(mind = consciousness, unconsciousness, non-consciousnessのすべてを含む概念）が自己言及を行うことにより生じるといった哲学的展開（&lt;a href="http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html"&gt;Damasio 2010&lt;/a&gt;)も生じている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己言及(self-reference, Selbstreferenz)に関する哲学的展開は、20世紀前半の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9"&gt;ラッセルのパラドックス&lt;/a&gt;や&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86"&gt;ゲーテルの不完全性定理&lt;/a&gt;など、さらに20世紀中頃の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%8D%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9"&gt;サイバネティックス&lt;/a&gt;や人間の言語の最大の特徴とされる"&lt;a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Recursion"&gt;recursion&lt;/a&gt;"に代表される大きな潮流だが、その潮流をコミュニケーション論に結実させたのがルーマンの社会学（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/n-2009-1.html"&gt;ルーマン 2009&lt;/a&gt;, Luhmann 1998）である。（なお"self-reference"を、この論文では主に「自己言及」と訳すが、自らに"recursion"（「再帰」）するという意味では「自己回帰」「自己参照」といった訳語、自らを基盤とするという意味では「自己準拠」といった訳語も可能である。以下、「再帰」「自己回帰」「自己参照」や「自己準拠」といった語も"self-reference"の意味合いを明確にするために適宜用いる）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルーマンは自己組織化するシステム（オートポイエーシス・システム：後述）を理論基盤とし、コミュニケーションは、人間の意識を基盤としながらも、意識とは独立して自己組織化するコミュニケーションシステム（「社会システム(soziale System, social system)」）だとした。意識も意識システム（「心理システム(psychische System, psychic system)」）であるが、これもその基盤となる生物システム（「生命体（Organismus, organism)」）には還元できない自己組織化を示す。しかしこのような基礎理論に基づいたリフレクション・ナラティブ研究は、&lt;a href="http://www.ingentaconnect.com/content/tesol/tq/2011/00000045/00000003"&gt;TESOL Q (2011, 45,3)の特集号&lt;/a&gt;(the special-topic issue on Narrative Research)などにも見ることができない(Barkhuizen, 2011)。基礎理論の取り込みは英語教育研究の課題である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;1.2 研究課題と意義&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;上記のような背景から、本論はリフレクションやナラティブを、特に自己とコミュニケーションの観点から理論的かつ実証的に解明することを目的とする。研究課題は、言語教師志望者のリフレクションとナラティブを、ルーマン社会学にならって自己観察と自己記述として捉え、その自己言及的側面を理論的に理解し、かつ実際のデータからその理論的理解の妥当性を検討することである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本研究は、リフレクションやナラティブそのものの理論的側面に着目するという点で理論的意義を有する。さらに、リフレクションやナラティブ実践への理論的支援という実践的意義も持つ。さらに、自己やコミュニケーションという根源的テーマは、現実の言語使用をめぐる営みの基盤であり、これらの解明は、その他の英語教育研究にも深いレベルでの洞察を与えることが期待できる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで本研究の免責事項を付記しておくなら、本論は研究者の主体的関与を考慮しない（あるいは否定する）いわゆる「客観的実証的研究」ではなく、そのような枠組みによって評価・批判されることを是としない。また後述するプロジェクトの教育的卓越性を示そうなどとするものではない。さらに、研究協力者のプライバシーを守るため、研究協力者の個人的分析などを避け、データIDや記述においても、万が一の個人特定を避けるため、所属講座や性別はわざとわかり難いように記述する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;2 理論的背景&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここでは主にルーマンの晩年の大作『社会の社会』（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/n-2009-1.html"&gt;ルーマン 2009&lt;/a&gt;）に依拠しながら、観察・二次的観察、自己・自己言及・オートポイエーシスといった概念を整理する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは観察(Beobachten, observation)である。観察を理解する際に重要なのは、自分が何かを観察するとき、観察をしている自分自身は観察対象から外れていることである。しかし観察されていないからといって、もちろん自己が不在なわけではない。自己は、自らが何かを観察している時、その観察をしているという自覚において成立している。つまり、何かが観察されているからには、それを観察している何か（＝自己、Selbst, self; 主体、Subjekt, subject ― 本論では「自己」と「主体」を同義とする）があるはずだと、自らの認識が自らに回帰することにより自己（あるいは主体）が、観察によって基礎づけられるわけである。ルーマンは次のように端的に述べる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(ルーマン 2009 1166)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (Luhmann 1998 868)&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己とは自らが認識や行為を自覚的に重ねる度に自己回帰的に形成される。新たな認識や行為を行う度に、それらを行なっている自己が自己準拠的に生成する。それは不変・不動の機械が、インプットを内に入れアウトプットを外に出すイメージではない。機械は作動により自らが変容することはない（たとえ摩耗することはあるにせよ）。だが自己は機械と異なり、認識や行為の度ごとにその作動が自己回帰し自己そのものが変容する。変容といってもそれはランダムな変化ではなく、認識や行為に適した形での変容であるので、それは組織化と言ってもいい。さらにその組織化は自己を基盤として新たな自己を作り出すわけであるから、「自己組織化」(self-organization)「自己再生産」(self-reproduction)や「自己創出」とも呼べる。ここにおいて、システム論的に作動的閉鎖性(operational closure ―システムの作動はシステム内に閉じられているという意味―）が強調される時、「オートポイエーシス」(autopoiesis）という用語が好まれる。本論も今後この用語法に倣う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己をことさらに観察（自己観察）しようとするなら、私たちのオートポイエーシス性が更に顕在化する。自己は私達とは分離独立した時空に存在する実体ではないわけであるから、自己観察は私たちの行為や認識を観察することによって行うほかない。自己は、その行為や認識を改めて観察することによりようやくそれなりの形を表す。もしもともとの認識が（何か他のものの）観察ならば、この自己観察は「観察の観察」という意味で「二次的観察」(second-order observation)と呼べる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし重要なことは、二次的観察も観察に過ぎず、それ独自の盲点を持つことである。二次的観察を行なっている際の自己はその観察の基底ではあるもののその観察の対象とはなっていない。三次的観察を行えば二次的観察の際の自己を観察できるだろうが、その三次的観察にも盲点がある。観察の次元を上げても観察が完璧に近づくわけではない（この理由でルーマンらは「三次的観察」といった「二次的観察」以上の高次の標記は使用しない。本論もこれに倣う）。さらに観察は多様であり多元的でもある。私たちはこれ以上の観察を要しないような最終的で客観的な観察を持ち得ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最終的で客観的な観察を持ち得ないということは、このオートポイエーシス的な認識論が近代以降の伝統的認識論と異なることを示している。伝統的認識論は、主体とはまったく独立し、観察されることによってもまったく変容しない客体（の存在と認識）を主張している。もちろん例えば計測機械を用いることにより、私たちは長さや重さといった観察において高い客観性を担保できる。しかし計測機械などがない観察においては、この伝統的認識論の客観性は主張しがたい。人間は観察されているとわかっただけで振る舞いを変える（&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%AE%9F%E9%A8%93"&gt;「ホーソン実験」&lt;/a&gt;）し、観察者も被観察者に観察を自覚されたことを自覚してしまうと観察が変わる。私たちの日常的・人間的な観察において、客体も主体も変容を免れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とはいえ私たちは時に、ある物事が一定の形でしか観察できないと感じる。しかし、それは「客観性」を得たのではなく、ある主体が自己回帰的に観察を繰り返す中で、一種の観察パターン（「固有値」）が成立したと考えるべきであろう（ルーマン 2009 1186) 。また、自己の要素は多種多様で多く存在するわけであるから自己要素の組み合わせの総数をシステムは予め知り尽くしておくことはできない。オートポイエーシスは時に自らが驚くような自己を産出する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;3 データ収集方法&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;概要&lt;/b&gt;：データは、ある教育学系の大学院で英語、国語、もしくは（第二言語としての）日本語を専攻する修士課程1年生を対象に行われた「プロジェクト」の活動を通じて収集された。プロジェクトの説明を聞いた上で筆者の活動グループへの帰属を希望した14名は、匿名化されたデータ公開に改めて同意し、プロジェクトに正式参加した。プロジェクトの第一目的は「私はなぜここにいるのか」というテーマで、自分が言語教師を目指すに至った経緯を想起（自己観察）し、それを書く（自己記述）することである。これは参加者の学究生活充実のために設定された。同時にプロジェクトは第二目的をもち、これが本論での研究となった。第二目的は、第一目的での自己観察・記述を重ねる中で気づいたことをまとめること、つまりは二次的観察・記述であった。記述は参加者だけがアクセスできるWebCTシステムにすべて蓄積された。日本語を母国語としない者も複数いたが、その参加者もすべて日本語で記述した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;期間&lt;/b&gt;：2011年5月から7月にかけての8週間。活動をするのは1週間に一度の90分の授業と、授業外でのWebCTシステムへの書き込みであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(1)第1期の5週間は書記言語活動であり、(1a)授業の大半を使っての自らの学習履歴の想起と記述（自己観察・記述）、(1b)授業最後の10-15分を使ってその日の自己観察・記述を振り返りそのことについて書く（二次的自己観察・記述）、(1c)授業外の時間に他の院生の学習履歴記述を読んで気づいたことを書く（他人の自己観察・記述の二次的観察・記述）こと、が5週間（つまりは5回）繰り返された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2)第2期の3週間は音声言語活動であり、14名がランダムに3グループに分けられ、そのグループで第1期に気づいたことを話し合った。具体的には(2a)授業の大半を使ってのグループ討議、(2b)授業最後の10-15分を使ってその日の討議を振り返り気づきを記述、(2c)授業外の時間に他の院生の書き込みを読んで気づいたことを書くこと、が3週間（つまりは3回）繰り返された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;方針&lt;/b&gt;：以下の方針が最初に説明され折に触れ再確認された。(i)自分が書く話は結論づけなくてよい：いわゆる「いい話」にまとめなくてよい。(ii)完成品は求めない：記述は未完成のままでもよいし、文体上の統一なども求めない。(iii)規範的な判断はしない：教師も含めて誰も書かれた内容に関して道徳的な批判をしない。(iv)いかなる強制もしない：書きたくないことは書かなくてよいし、何か書きたくないことがあるということも書かなくてよい。(v)プライバシーに留意：WebCTシステムの範囲とはいえ書かれたものは他人に読まれるので、関係者のプライバシー侵害には十分気をつける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;理論的導入&lt;/b&gt;：本プロジェクトの第一目的はともかく、第二目的は趣旨を理解しにくいとも思われたので以下の理論的解説を行った。(ア）&lt;a href="http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html"&gt;ルーマンのオートポイエーシス論&lt;/a&gt;（筆者のグループ帰属が決まる前の合同説明会で20分）。（イ）&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/12/html.html"&gt;神経科学の意識論&lt;/a&gt;(第1期初回の15分）、(ウ）&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html"&gt;ユングのタイプ論&lt;/a&gt;(第1期初回の15分）、（エ）&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010_31.html"&gt;村上春樹の自己記述に関するエッセイ&lt;/a&gt;(第1期初回の10分）。（ア）と(イ）は本論で説明した趣旨であり、(ウ）は観察の先入観について、（エ）は自己を抽象的・客体的に取り出すことの困難について説明したものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;データ整理&lt;/b&gt;：以下の過程でデータを整理した。(A)基本データの確保：WebCTシステムに残されたすべての文章（約16万文字）を電子ファイルにコピー。(B)一次抽出：基本データから理論的に興味深いと思われた表現を抽出（約3万7千文字。基本データの23%）ただし導入した理論に反することや、それに関係ないことも排除しない。(C)二次抽出：一次抽出データを読み直し分類化してさらにデータを絞る（約2万4千文字。基本データの15%）。(D)分類化された二次抽出データをさらに何度も読み直し、口頭発表・論文執筆の際に参照するデータを精選する。データには、順番に、ランダム化した個人番号（2桁のアラビア数字）・日本語が第一言語(F)か第二言語(S)かの区別・書かれた日付（4桁のアラビア数字）が記号化して付与されデータIDが付けられた。つまりデータIDは7桁の英数字である。だが、記述の簡素化のため、以下しばしば冒頭の2桁数字だけを参加者を示すために用いる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4 データ解釈&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.1 意識のオートポイエーシス性&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己観察と自己の固有値：当然のことながらこのようなプロジェクトでは自己観察が促進されるが、興味深いのは最近のこと（学部時代）のことは書きにくく、昔のことの方が書きやすいことである(12F0603)。自己観察・記述が単なる記憶の再生なら、最近のことについての方が書きやすいはずであるが、実際はその逆であることは、自己観察・記述（のパターン）は、年月を重ねて徐々に重層的に形成されるものであることを裏付けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのような重層的な自己観察・記述は、自己回帰的でもあり、それゆえ時に「固有値」に収束していることも裏付けられた。例えば06F0520は、自分が普段から自分についてよく考え「私」像を強く一定の形で形成しているので、本プロジェクトのような特別な機会ではその枠組に入らない自己観察・記述を自分が拒んでいるかもしれないとする。だがその枠組からの解放も可能で、同じ06は約一ヶ月後の感想で自分の人生を書けなかった理由を書いている（06F0616）（しかしこの記述をするためには一ヶ月のコミュニケーションが必要であったとも言える）。また別の、あるべき自己像を強くもっていると述懐していた13も、プロジェクト終盤にかけて、たくさんの『自分』を対象化できたのがよかったと述べ、唯一であるべき自己から解放されたとする（13F0630）。またこういったパターンは他人にも観察されることが「他人の目を気にしながらもやはり『記述にその人らしさが出る』」(10K0623）などからもうかがえた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;意識の自己準拠・回帰・参照的創出&lt;/b&gt;：04S0609は明確に「自分の歴史は自分で作っているように強く思う」と言い切る。しかしその「作る」とは同時に「記憶が当てにならないこと」の自覚を伴ったものであり、この04は後に自己観察・記述が「素顔」であるという気持ちと、「薄化粧」だという気持ちの両方が自分の中にあると述べている（04S0616）。このことから「自分で作っている自分の歴史」も、単一的な意思による単純な作成ではないことがわかる。この自己の不確定性は08F0610の「いろんな考えが思い浮かびはしたが、どれが本当のそのときの自分の気持ちなのか、全く分からなかった」という発言、あるいは09F0616の「自分の過去の事実は変わらないが、思い出すそのときの状況で過去から受ける印象や細部の有無が変わっており、その記述も変わる」といった発言でも確認できる。とはいえ自己観察・記述は、まったくの恣意でないことは、11S0502が自分について「どうしてこうなったか学習履歴を振り返って原因を探し出したい」と自己観察・記述を信頼していることからも伺える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;意識と書記言語&lt;/b&gt;：言語発話とは単なる意識の直接反映ではなく、また音声言語と違い、書記言語によって表現されることによってはじめて明らかにされる意識のあり方もあることが今回のデータから明らかになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず挙げられるのは、書記言語を使用することにより、断片的な意識や思考がまとめられ対象化されて、自己意識が明確になることである。10F0513は「思考がそのままパソコンの画面に出たらいいのにとも思うが、書き言葉として、自分の考えを表出することも自分のことを振り返るために重要」とも述べる。さらに直截的には、13F0603は「履歴として羅列をすると、量（頻度）が目で把握できる」ため普段の生活では意識に上がりづらいネガティブなことに気づくことができるとする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした対象化に促されて思考がはっきりするし、思ってもみなかったことが出てくることは、10F0513や05F0609の発言にも伺われた。これらは、書記言語を媒介にして自己から出てきた自己観察・記述が、さらに素材となり次の自己観察・記述を招くというオートポイエーシスが生じていることを示唆している。この事態を、11F0603は「一時的に何を書けばいいのか分からなくても、とりあえず書く、そのうちに何を書きたいかだんだん分かるようになる」と表現し、01F0708は「言語化することで、その時の感情が改めて思い出され、実はそうだったのかという気づきが多く出てきました」と表現する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてオートポイエーシスによって生じた自己記述は、自分で予期しなかったものとなることもある。09F0513は「最初は自分の思うままに書き始め、その時その時の自分の考えを書いているが、読み直して整合性がなかったら修正を加える」と述べる。09はさらに「何度も読み直したり推敲したりしたにもかかわらず（むしろそのせいで）、後から読んでみると自分の感じていたことと異なっていることがあるというのが、なかなか興味深かった」(09F0623)と述懐する。自己観察・記述は最終的な完結を迎えることもなく、「自己」とはどこかぼんやりと把握できるにすぎないものである。08F0708はこう発言する―「思考していた時の自分の思いと、最終的に文章化されたものと見比べたときの、あらゆる変化や、ただ頭の中だけで考えても分からない、自分自身の性質のようなものを発見することができた」。自己観察・記述は、（書記）言語が固有のメディアとして働くことにより生じるものであり、言語は意識の状態をそのまま表現する透明な媒体などではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.2 言語のメディア的特徴&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここでは特に意識、コミュニケーションといったシステムの違いにかかわらず成立していると思われる言語のメディア的特性について述べる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メモ言語とコミュニケーション書記言語：自分自身のためのメモとして書かれる言語と、書面のみで他人に意味を伝えるコミュニケーション用の書記言語は、同じ「書記言語」であっても、実質はかなり異なる。その違いは「どう書けば読み手が理解してもらうか、或は理解しやすいか」(03S0602)、「文章に直すことで更に、『他人に読みやすいものを』との意識が更に高まる」(13F0602)、ひいては「『うまく書こう』とか『表現を整えよう』という心理が働き、思ったことをそのまま書くことはできなかったように思う」(14F0527)といった述懐に見られる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;音声言語と書記言語の違い&lt;/b&gt;：音声言語は書記言語に比べて産出の労力が少なく、かつ話者と聴者が同一の時空を共有し表情などのパラ言語的表現を間近に観察できているため、メタメッセージ ―例えば「このメッセージを冗談として理解せよ」と示す笑顔など― が明確であり、信頼関係が醸成されやすい。そういった特性から「私自身は文字で書けなかったことが正直に話せました」。(04S0630)といった発言なども見られた。また簡単にできる質問といった相互作用により、書記言語では理解しがたかった点も理解できたというのは(07F0623)の述懐である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他方、言語の産出の労力が大きくかつ言語が対象化されそのまま半永久的に残る書記言語においては、書き手は慎重に思考し分析的になる。12F0624は「その場で消えていく話し言葉と、後に残る書き言葉では、その重みが全く違うように思いました」と述べる。書記言語のほうが思考に適していることについては、03S0630は「言語化しないと、意識が明確にならないこともあります。だから、何かを考える際に、考えるだけだったらめちゃくちゃになる可能性があるので、書いたほうがわかりやすいかもしれません」と述べ、04S0609は「書くことと考えることは同時に起こっているような気がする。書いているうちに考えが浮かんできて、それらを整理し、まとめていくことができる」とした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;第二言語性&lt;/b&gt;：日本語を第二言語とする参加者は、端的な困難（04S0603)、ニュアンスが表せない苦労（03S0603および04S0630)、自分が書いたものが小学生が書いたものに見えるかもしれないといった不安（03S0526）、異文化を伝えることの苦労(04S0630)などをやはり感じていた。さらにジャンル習得から来る困難もあった。04は、「論文やレポートなどの学術的な書類の書き方と違って、学習歴は自分の体験や日頃感じたこと、考えていることを書くという創作的な（小説を書くような）書く作業なので、外国語でどこまで自分の心情をありのままに、的確に表現することができるのか、一種の無力感さえ覚えました」(04S0630)と述懐した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ言語教育指導の点で興味深かったのは、このプロジェクトでは言語正用・誤用について一切の介入も行われなかったのにもかかわらず、第二言語参加者は、言語的判断から解放されて書くことの楽しさを表明するだけでなく(11S0527)、正確性を逆に追求するようになったことである。04S0708は「外国語としての日本語で書く作業では、意味がだいたい通じればそれでいいというのではなく、できるだけ正確な日本語で書くように、自分の中で強く思いました。速くて多くのことを書くよりも、内容が少なくなっても正確に書くように注意を向けていました」と述懐した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;4.3 コミュニケーションのオートポイエーシス性&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　オートポイエーシスは、コミュニケーションという集団のレベルでも観察される。とはいえ、本研究の主要データは、あくまでも参加者個人による書記言語報告であり、第2期の音声言語での討議も録音していないことを予め断っておく。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　異なる人々が集まってのコミュニケーションでは、個々人のコミュニケーション・スタイルの違いが当然のことながら問題になる。自己開示に対しては「怖い」「困った」と感じる者から、「気にしていなかった」「そんなことは忘れていた」と述懐する者など様々であった。しかし自己開示に消極的であった参加者も「私だったら、これを人に知って欲しくないので書きたくないだろうと思うことを、受講生の方が書き出されたのを見て、心の底から『勇気あるな～』と思って、感動しました」(04S0616)と感じ、「お互いの書き込みを何度も読むことによって、知らずに信頼関係が築けているようにも思います。書き言葉の重みも感じています」(04S0623)と述懐するなど、プロジェクトのコミュニケーションが、新たなコミュニケーション・スタイルに自己組織化していったことが示唆される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかしコミュニケーションの自己組織化は、個々人それぞれに異なる影響を与える。08F0623の総括によれば、影響は内容面での影響、文体・表現の面での影響の二つに大別できる。内容面については、02F0616は「ほかの人の書いたものを読んで，面白いなあと思った部分も自分の“人生”の中で必死に探しました。人に喜ばせる，面白いと思わせる内容を書きたい」と正直に述懐した。文体・表現面については、表層的には前に述べたメモ言語からコミュニケーション書記言語への転換で述べたようなことが見られるが、深層については13が次のように総括する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;書く際の意識に関わらず、どこかで他者の目を気にした文章になっていたり、書く時点での自分の状況が求めるようなつながりになっていることは、ほとんどの人に共通するところだと改めて感じた。しかし、逆に言えば、こういった感想を書く際も、自分の中にある真の考え等とは別にした、よそいきの感想を書いているのかなとも感じた。（13F0623）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし集団でのコミュニケーションが個人の意識に影響を与えるというのは、「本当の自分」を阻害するといった否定的な意味合いで捉えられるというより ― そもそも本論は「本当の自分」といったものに疑いの目をもっている ―、コミュニケーションとは、他人の見方を先取した表現方法を学ぶということなのかもしれない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「他の人」「見ている人」を意識して書くようになってきていると思いました。何回も「書く」「他の人のを読む」を繰り返していくうちに、自分も含めた「読み手」の特性のようなものを理解して、それを意識した書き方になっているのではないかと思いました。(09F0616）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　コミュニケーション、特に書き話すことは個人では学べないと言えるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;5　結論&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　理論的に確認された自己観察と自己記述の自己言及的側面（オートポイエーシス性）は、今回のデータにより、意識レベルでもコミュニケーションレベルでも見られた。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　個々人の意識は、自己参照・自己準拠的に重ね書きされるものであり、自己回帰が過ぎると時に固有の自己観察・記述パターンに収束する。だが、そのパターンも書記言語によって記述されるならば新たな二次的観察の対象となり意識化され、そこからの解放も可能である。集団でのコミュニケーションも、個々人は集団でのコミュニケーションのあり方に大きく影響を受け、いわば、誰から・どこからということもなく、コミュニケーション自体が自己準拠的・自己組織的に展開する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　意識とコミュニケーションの両方において言語は大きな役割を担う。音声言語と書記言語はそれぞれのやり方で意識とコミュニケーションそれぞれの形成に関与する。書記言語は特にメモ言語なのかコミュニケーション書記言語なのかで大きくあり方が変わる。加えて第二言語で書く際には、言語的困難・ジャンル習得の問題があるものの、互いにできるだけ正確に内容を理解し合いたいという動機があれば、外的な強制や介入はなくとも自然と正確な言語使用に向かっていく例も観察された。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　オートポイエーシスは、言うまでもなく「自己」を基盤としたものである。言語使用を、意識の十分な開拓およびコミュニケーションの十分な展開に基づくものとしようとするなら、言語使用における「自己」は重要である。だがこれは、特段に自分のことばかりを述べることを意味しない。観察・記述のオートポイエーシス性からするならば、狭義の「自分」以外の他のものの観察・記述も、「自己」の表現である。しかしこれまでの外国語教育では、ともすれば正用法・模範例文に即すること（典型的にはそれらを暗記すること）ばかりが強調され、言語表現と「自己」の関わりが軽視されがちであった。学習する外国語使用も、あくまでも一人一人の学習者がそれまでに培ってきた感情・思考、そしてそれらの表現媒体である言語（母語およびそれまで習った第二言語）に根付いたものでなければ、外国語は体得しがたいといえるだろう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　意識とコミュニケーションは言語使用（および言語使用の学習）によって共進化する。ならば言語教育は、（それが単に言語形式の教育を行っている以外の時には）、意識システムとコミュニケーションシステムそれぞれの自己言及、および両者の接続を促さなければならない。つまり言語を言語のみとして教えるのではなく、言語を、自己意識を育て集団のコミュニケーションを構成するメディアとして改めて位置づけなければならない（この当たり前のことを認識しなければならないことが外国語教育の問題点の一つである）。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　この研究に対する考えられる反論について予め応えておく。反論の一つは、この研究では研究者の理論的バイアスがかかっている、というものである。それに対する応答は端的には「その通り。しかし『客観的』な実験研究でもその仮説に従った観察しかできない」となろう。いかなる研究とて理論的バイアスを持つ。測定の方法がいかに「客観的」なものであれ、測定の項目はその研究が採択する理論の傾向によって決まらざるを得ないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　考えられるもう一つの反論は、研究者の権力性が今回のデータを引き出した、というものである。これに対しては、研究における教師と学生の権力関係を否定はしないものの、8週間にわたって14人の大学院生の全発言をコントロールすることは困難と応答する。本論ではページ数の関係で、ごくごく一部しか示していないが、数多くのデータが多種多様な形で理論を裏付けている。これらのデータすべてが教師の権力性によって生み出されたとするのは考えすぎであろう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　今後の課題について述べるなら、意識・言語・コミュニケーションの関連は、言語教育の核でもあるので、より理論的な研究が必要であろう。同時に、歴史研究に比するべき、ある教師もしくは教師共同体に関する、より個性記述的な研究も必要であるし、そのような理論的・実証的研究に裏付けられた、教師リフレクション・ナラティブの支援も英語教育研究の課題の一つである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;参考文献&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Barkhuizen, G. (2011) Narrative knowledging in &lt;i&gt;TESOL. TESOL Quarterly, 45&lt;/i&gt;, 3. doi: 10.5054/tq.2011.261888&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Damasio, A. (2010). &lt;i&gt;Self comes to mind: Constructing the conscious brain&lt;/i&gt;. New&lt;br /&gt;York: Pantheon.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Eagleman, D. (2011). &lt;i&gt;Incognito: The secret lives of the brain&lt;/i&gt;. New York: Pantheon.&lt;div&gt;&lt;br /&gt;Libet, B. (2005). &lt;i&gt;Mind time: The temporal factor in consciousness&lt;/i&gt;. New York: Harvard University Press.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Luhmann, N. (1998). &lt;i&gt;Die Gesellshaft der Gesellschaft&lt;/i&gt;. Berlin: Suhrkamp Verlag.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;柳瀬陽介（2011）.「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』41.77-86.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;吉田達弘他(2009).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』東京：ひつじ書房.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京：法政大学出版局.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;謝辞&lt;/b&gt;: 今回の研究は、参加者の理解と協力なしには成り立たなかった。参加者の誠意と熱意に改めて感謝する。また本研究は科研「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」(課題番号21520577）の一部である。科研の研究支援にも感謝する。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-1102070443032501007?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' 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/&gt;&lt;br /&gt;29日と30日はただ阿呆のごとくDVDやテレビを見ていた。DVDといっても、頭を使うようなきちんとした映画はとても見ることができなかったので、&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF-%E7%84%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%89%88-DVD-%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/B003EVW6KO/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;amp;qid=1325572433&amp;amp;sr=8-1"&gt;『サウスパーク　無修正映画版』&lt;/a&gt;などを見た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この映画は「○ロ」の「○」の中に「エ」「グ」「ゲ」などを入れても眉をしかめない人にしかお勧めできない。特に翻訳（吹き替え）の点からすると非常に面白い。私は最初に英語字幕・英語音声で映画を見て、次に英語字幕・日本語音声（関西弁での吹き替え）で二度目を見たのだが、これは何をどのように何処まで翻訳するのかという点でいろいろ考えさせられた。「エ」「グ」「ゲ」の挿入に心乱されない人は見て、翻訳（吹き替え）について考えてみると面白いかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、このような作品を人に薦めた場合、単なる下ネタの部分にだけ反応して「いやぁ、あれオモシロイッスよね」と近づいて来る人がしばしばいるが、このような作品の「毒」　―このような表現を、自分も含めた誰にでも取らなければとてもやってられないという切実な気持―　を理解できるだけの知的感性をもたない人は、私には近づいてきてほしくない（このように否定的な言葉を出すということは、私は今の時点でもずいぶん疲れてイライラしているようだ）。ロックでもジャズでも（あるいはクラッシックでもいいのだが）、一度、表現を極限にまで徹底させたい衝動を感じたことのない、単なる下品なだけの鈍感な人は、このような作品の表層だけを語ることをやめて欲しい。絶望的な思いをしながらも　―本当は絶望というほどのものでもないのだが―、それでも前を向かなければならない切迫感を感じたことがないのなら、テレビの歌番組でも見ながらツイッターでつぶやきあっていてほしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、文章を書き始めて、自分がまだずいぶん不機嫌なようなので自分でも驚いているが　―私はこれでもずいぶん回復したからこの文章を書き始めたのだが―、ついでながら毒づくと、30日の夜にテレビで見た&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%B8%8A%E3%82%8B%E5%A4%A7%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E7%B7%9A-MOVIE-%E3%83%A4%E3%83%84%E3%82%89%E3%82%92%E8%A7%A3%E6%94%BE%E3%81%9B%E3%82%88-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-DVD/dp/B00361FLEA/ref=sr_1_1?s=dvd&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325573295&amp;amp;sr=1-1"&gt;『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』&lt;/a&gt;はひどかった。コメディにもエンターテイメントにもなっていない。テレビの質が落ちたとは昨今の時候の挨拶のようでもあるが、フジテレビ系列が金をかけてこれだけのものしか作れないのなら、テレビ系の作品劣化は相当酷いのだろう。これなら『アメトーーク』を見続けていた方がよかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに約半年ぶりにテレビを見ると、CMはこれほどに多かったのかと驚いてしまう。自分の人生というものは、自分の時間に他ならないのだが、その時間をこれほどに細切れに支配されてしまうのは、どうにも賢明な生き方とは思えない（こう偉そうに言う私も半年前まではけっこうテレビを見ていたのだが）。「タダほど高いものはない」というが、テレビは怖い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31日になって、せめて年賀状でも書かなければと思ったが、書こうとするとどうも猛烈なイライラ感がまだ襲ってくる。メールの返事も書けない。世間の義理を果たすことは諦めることにした。十数年ぶりに一枚も年賀状を書かないまま新年を迎えることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これほどの疲労感とイライラが久しぶりにくるのは、単なる身体の疲れだけではないのだろうということは、この頃までには疑いようのないものになった。私は3.11以降のことを総括できないでいた。この不全感が私の心身の奥底に巣くっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.11の衝撃には言葉を失った。現代日本の同胞が家を失い家族を失い、寒さに震えながら飢えていた。同じ時期の西日本では、私の近隣のスーパーマーケットにもあふれるほどの食品がならんでいた。この事態が信じられなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原発事故が人災であることが明らかになり始めた頃から、私は文部科学省などの木で鼻をくくったような対応に怒りまくっていた。私はよく文部科学省の学習指導要領の批判などもするが、その批判はある意味「国」という威信が少々では崩れないことを前提としているものだ。だがこのような対応をしていれば、国民は（少なくとも当事者とされた国民は）「国」への信頼を根本から失ってしまうのではないかと心底怖れていた。毎日数多くのツイートを流した。ブログ記事もとにかく書きまくった。今思えば、あきらかに尋常な心境ではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから5月のある金曜日の昼休みに、文部科学省が子供の1年間の許容被ばく線量目安の「20ミリシーベルト」をとりあえず引き下げるという報を聞いた時は力が抜けてしまった。その日は午後に2つ授業があったのだが、正直私は腑抜けのようになって教壇に立っていただけだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで私は力尽きたような格好になってしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブログ記事を見ても6月と7月はほとんど書いていない。8月になって、同月の学会発表と9月の学習英文法シンポジウムの準備にはさすがに追われてそれ関連の記事は書いているが震災や原発のことについては書いていない。実際、8月の盆休みは家にこもって冷凍食品ばかり食べながら学会準備をしていた。久しぶりに脳がクタクタになるぐらいまで発表準備をしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;秋からはいつもと同じように授業や英語教育関係のブログ記事が続く。とはいえ数は例年より少ない。とにかく忙しかった。折々に考えたことをまとめる時間がなかったことが恨めしかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしそれ以上に恨めしかったのは、自分自身だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;震災の爪あとはまだ残っている。原発問題は今なお現在進行中だ。しかし、春先と同じような情熱（あるいは激情）と時間でもってこれらの問題に正面から立ち向かおうとする自分はいなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今振り返ってみると、私は巧妙にこれらの問題から逃れていた。無論時折これらの問題についてのツイートはしていた。だがそれはひょっとしたら自分に対する言い訳だったのかもしれない。まさに現在進行中のこの大問題に対してほとんど何もできないだけでなく、何もできないことの自覚さえ巧妙に隠そうとしている自分がいた。心底ではそんな自分に気づきながら、自分は気づいていない演技を自分自身に対してもしてきたのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は意識の奥底で自分を好きになれないでいた。同時にこのような現実的な問題が進行している最中に、自分が自分を好きになれるとかなれないとかいう自閉的な問題に拘泥している自分が情けなかった。さらにこのように自分が自分を好きになれないし情けなく思っているということを正面から見据えようとしない意識の混濁が私の心身を蝕んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だがここまで気持を整理できるようになったのは、実は今日ぐらいのことだ。話を12月の翻訳シンポの後に戻すと、私はある日、もうやってられないと、5時過ぎに帰宅した（中高年の小さな反抗というのはこのくらいのものである）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;帰宅して手に取ったのは買っていてそのままにしていた村上春樹のインタビュー本&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%80%81%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4103534281/ref=sr_1_1?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325575528&amp;amp;sr=1-1"&gt;『小澤征爾さんと、音楽について話をする』&lt;/a&gt;だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;村上春樹は、以前から少しずつ語っていた文章と音楽の関係についてこの本でも述べていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;音楽的な耳を持っていないと、文章ってうまく書けないんです。だから音楽を聞くことで文章がよくなり、文章をよくしていくことで、音楽がうまく聴けるようになってくるということはあると思うんです。両方向から相互的に。（129ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなのは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうと、リズムですよね。（129-130ページ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言葉の組み合わせ、センテンスの組み合わせ、パラグラフの組み合わせ、硬軟・軽重の組み合わせ、均衡と不均衡の組み合わせ、句読点の組み合わせ、トーンの組み合わせ、句読点の組み合わせ、トーンの組み合わせによってリズムが出てきます。ポリリズムと言っていいかもしれない。音楽と同じです。耳が良くないと、これができないんです。できる人にはできるし、できない人にはできません。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。(130ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが、そんな春樹の話よりも面白かったのは小澤征爾の述懐だった。私は20代に小澤征爾の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E6%AD%A6%E8%80%85%E4%BF%AE%E8%A1%8C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4101228019/ref=sr_1_2?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325576248&amp;amp;sr=1-2"&gt;『ボクの音楽武者修行』&lt;/a&gt;の瑞々しさを本当に愛したし、サイトウ・キネンの&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9-%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/B001RVITNQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;amp;qid=1325576356&amp;amp;sr=8-1"&gt;チャイコフスキー・弦楽セレナードやモーツァルト・ディヴェルティメントK.136 &lt;/a&gt;は大好きだった。またたまたま友人宅のDVDで見た&lt;a href="http://www.amazon.com/Stravinsky-Oedipus-Rex-Philip-Langridge/dp/B00092ZAOK"&gt;ストラビンスキーのエディプス王&lt;/a&gt;には本当に衝撃を受けた（だが小澤のブルックナー第八番だけはいただけなかった。ブルックナーをあんなに感情的に指揮してしまってはいけない、と私はテレビを途中で切った）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本で明らかになったことの一つは、小澤が本当に語学下手であったことだ。よくもまあ、こんな語学力で長年外国で仕事ができたものだとあきれるほどだ。しかし小澤には、師匠の斎藤秀雄氏から学んだ指揮法という身体言語があった。彼は身体を使って音楽の仕事をした。さらにバーンスタインやカラヤンなどのリハーサルを徹底的に観察し、楽譜も徹底的に読みこなした。小澤は言語では考えず語らず、音楽で考え語った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな小澤は、村上の質問を受けて次のように応答する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;（しばらく黙考する）あのね、あなたとこういうことを話していて、それでだんだんわかってきたんだけど、僕ってあまりそういう風にものを考えることがないんだね。僕はね、音楽を勉強するときには、楽譜に相当深く集中します。だからそのぶん、というか、ほかのことってあまり考えないんだ。音楽そのもののことしか考えない。自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか・・・（229ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この小澤の発言は、よくわかるような気がした。とりわけ小澤がマーラーについて語るとき、マーラーをそれほどあまり聞かない私にでも、音楽でマーラーがそして小澤がやろうとしていることがよりわかるような気がした。確かに彼らは音楽で考え、音楽で語っている。言語でなく、音楽で考え語るということは確かにあることだ（たとえこれが比喩表現に過ぎないにせよ　―だが「気分は上々」が比喩表現であることを通常私たちは問題視しない―。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html"&gt;ユングによれば&lt;/a&gt;、心の機能を「思考-感情」という合理的な対立軸、「直観-感覚」という非合理的な対立軸の交差で説明することができる。とりあえず思考を上（12時）に置くと、時計回りに右（3時）が感覚、下（6時）が感情、左（9時）が直観となる。人間の心は、上下・左右のどちらかを優越機能、もう一つを劣等機能として持つ。（例えば私はおそらく直観、次に思考を優越機能としてもち、感情そして感覚を劣等機能としてもっているのだろう。だから私は直観的な思考には強いが、感情と感覚は未分化で粗野でしばしばコントロールを失っている。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私の自己分析はさておき、言語と音楽の話に戻るなら、&lt;b&gt;言語は思考と直観を得意とする表現媒体、音楽は感情と感覚を得意とする表現媒体&lt;/b&gt;とは言えないだろうか。もちろん言語が感情と感覚を表現できないとか、音楽が思考と直観を表現できないというわけではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし例えば哲学的な思考と直観を表現するには音楽よりも言語の方がはるかに好都合だろうし、にわかに名状しがたい感情や感覚を表現するなら言語よりも（例えばドビュッシーのような）音楽の方が適しているだろう。もちろん例えばバッハやブルックナーの音楽は私達の思考や直観を刺激する。宮沢賢治の言語は私達の感情や感覚に直に訴えてくる。だから言語も音楽も私達の心の主機能　―思考・感情・直観・感覚―　のどれをも表現できる。しかしその特性において言語と音楽は大きく異なる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は大学院生の頃から理屈っぽいことばかりを言語で考え語ってきたが、他方、中毒のように音楽を聞いてきた（今この文章を書きながらも聞いている）。これは私の心の無意識の補償作用だったのかもしれない。だが最近は音楽を聞くことすらおろそかになっていた（あるいは聞いても心を響かせないままにしていた）。だから私の心もカピカピに乾ききってしまったのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな村上春樹と小澤征爾の本を読んでいたことを思い出したのは、31日のことである。だから年末最後のこの日は音楽ばかり聞くことにした。自分の言語で考えたくなかったからだ。疲れきった身体と、心底で自分を憎んでいる心から生成される私の言語で考えてもろくなことにならないと思ったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夜はEテレ　―多くの人と同じく私はこの略称にまだ馴染めないでいる―　をつけていた。定番のベートーベン第九が演奏された。私はオーケストラの音のすべてを聞こうと努めた。音楽で考えるためだ。ベートーベンや彼の作品の演奏家がそうしているように、言語ではなく、音で考えようとした。だから音楽を聞きながら余計なことを考えることなく、ひたすら音を追おうとした。主旋律ばかりに耳を傾けてしまいがちな意識を操作し、その他の音をできるだけ聞きとろうとしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが第四楽章で私はまた怒りを覚えてしまった（やっかいな中高年だ）。音楽による思考が中断された。いわゆる「歓喜の歌」の訳詞が画面に流れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;抱き合おう、諸人（もろびと）よ！&lt;br /&gt;この口づけを全世界に！&lt;br /&gt;兄弟よ、この星空の上に&lt;br /&gt;父なる神が住んでおられるに違いない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;諸人よ、ひざまついたか&lt;br /&gt;世界よ、創造主を予感するか&lt;br /&gt;星空の彼方に神を求めよ&lt;br /&gt;星々の上に、神は必ず住みたもう&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「嘘をつけ！」と私は画面に対して毒づいていた。歌っている、演奏している、あるいは聞いている人のどれだけが神を信じているというのだ。もちろんクリスチャンもいるかもしれない。しかし少なくとも私のような人間にとっては、クリスチャンであっても神を信仰するということはそれほど容易なことではない（それどころか&lt;a href="http://www.amazon.com/Mother-Teresa-Come-Be-Light/dp/0307589234/ref=sr_1_3?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325578906&amp;amp;sr=1-3"&gt;Mother Teresa&lt;/a&gt;にとってすら信仰を保ち続けることは困難であった）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たしかに私にとっても、3.11直後に第九を聞くことは大きな体験であった。大きな励ましであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;i&gt;だが「フクシマ」以降　―現代日本の「繁栄」の偽善・狡猾さ・無責任さ、そして残酷さが明らかになった後―　「兄弟よ」と第九を歌い・聞き・讃えることは、おそろしく鈍感なことであり、不誠実であるとさえ言えることではないのだろうか。&lt;/i&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Eテレの続く音楽番組はその後、佐渡裕がベルリン・フィルを振るショスタコーヴィチ交響曲第5番を放映した。巨体をゆらせて汗を飛び散らせる佐渡を嘲笑うことは容易だ。しかし今の私達にとっては、狡猾に保身と自己表現を重ね合わせたショスタコーヴィッチを聞くことの方がはるかに誠実なこととはいえないだろうか（たとえ第5番を「熱演」することが「鈍感」のそしりを免れないことだとしても）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はCD棚にショスタコーヴィッチの作品を探したが、交響曲全集も弦楽四重奏全集も大学に置いていた。私はEテレの音楽番組を見続けたが、もう心は半分ショスタコーヴィッチのことを考えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;考えていたというのは、音楽ではなく言語、私の言語で考えていたことであり、それは鬱々とした思考とならざるを得なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はブログでその年の総括をすることをしばしば行なっていたし、2011年はことさらに総括しなければと思っていた。しかし何度やろうとしてもできなかった。実は、私は年末に福島で被災した先生に出会う機会があったのだが、はたせるかな私は何と言っていいのかわからなかった。同じように31日になっても私は2011年を自分の言葉でまとめることができなかった。せめて「総括できない」ということだけでも年内にブログに書こうかとも思った。だがそれもできなかった。私の心身はとても自分の言葉を書き出す状態になかった。無理矢理言葉を書きつければ、私はその自分の言葉を激しく拒絶していただろう。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして新年を迎えた。元旦礼拝に教会に行き、母の家を訪れてそこで一泊した。私の心は、まだ混濁したままだったが、身体の疲れはようやく少しずつとれてきたようだった。だが武術の稽古はおろか、身体を整える運動すらする気にはなれなかった。身体もまだきちんと回復はしていないのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中、私は村上春樹の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%80%81%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4103534281/ref=sr_1_1?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325575528&amp;amp;sr=1-1"&gt;『小澤征爾さんと、音楽について話をする』&lt;/a&gt;の後に読んだ桜井章一の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%9F%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E5%BC%B7%E3%81%95-%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E7%A0%94%E3%81%8E%E6%BE%84%E3%81%BE%E3%81%9956%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4534048920/ref=sr_1_2?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325580469&amp;amp;sr=1-2"&gt;『運を超えた本当の強さ 自分を研ぎ澄ます56の法則』&lt;/a&gt;のことを思い出していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本の著者は桜井章一となっているが、実際は将棋の羽生善治がインタビューしたものであり、彼の問いかけの素晴らしさが桜井章一氏の深さをよく掘り起こしている。世間的な知名度では羽生氏の方がはるかに上であり、また麻雀と将棋という異なる競技ではあれ、少なくとも同等の扱いを得ても当然といえるのに、羽生氏はこの本で徹底的に裏方にまわり、桜井氏の再三の誘いも丁寧に断り、ひたすら桜井氏からの言葉を引き出そうとしている。本の売れ行きからしても羽生善治の名前を出したほうが絶対に売れるはずだし、出版社もきっとそれを強く薦めたはずだが、この本では羽生氏は徹底して裏方に徹している。だから私はことさらに、桜井章一氏に興味をもった人が読むべき本としてこの&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%9F%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E5%BC%B7%E3%81%95-%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E7%A0%94%E3%81%8E%E6%BE%84%E3%81%BE%E3%81%9956%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4534048920/ref=sr_1_2?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325580469&amp;amp;sr=1-2"&gt;『運を超えた本当の強さ 自分を研ぎ澄ます56の法則』&lt;/a&gt;をあげておきたい。（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/8.html"&gt;関連記事：桜井章一先生の著作8冊&lt;/a&gt;、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/2010.html"&gt;桜井章一(2010)『努力しない生き方』集英社新書&lt;/a&gt;、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/2009.html"&gt;桜井章一(2009)『負けない技術』講談社+α新書&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本の主要テーマの一つは「身体」である。羽生自身、次のような見解をもちつつ桜井に次々に問いかけてゆく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;いろいろやるのですが、どこかで限界がきてしまう。頭の容量は決まっています。私自身、考えるだけの限界を感じてきているので、そろそろ身体を使うほうにシフトしようかと思っています。（68ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その羽生の問いかけが明らかにしてゆく桜井章一の麻雀とはまさに「身体」によるものということである。通常なら一時間くらいはかかる半荘の大会を15分ぐらいでやる、桜井率いる雀鬼会の麻雀スピードについて、桜井は次のように語る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;そこまで速くできるのは、打つ時に考えを入れないからです。もちろん何を切ってもいいわけではありません。&lt;b&gt;切る牌より大切なのは、牌の切り方、動作です。同左が精神や脳を揺らしている&lt;/b&gt;。その動作こそを道場で教えています。（63-64ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;普通の人が聞けば「ハアッ？何すか、それ。アッハッハ」と高笑いしそうな記述かもしれない。しかし語っているのは&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E7%AB%A0%E4%B8%80"&gt;麻雀の代打ちプロとして20年間無敗であった男&lt;/a&gt;であり、それに真剣に耳を傾けているのは&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%9F%E5%96%84%E6%B2%BB"&gt;将棋史上初の「永世六冠」&lt;/a&gt;であることを忘れてはならない。自分の知性で理解できないことを笑い飛ばすことで自分の体面を保とうとする者こそ愚者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「考えを入れない」とはいえ、もちろん脳は働かせている。しかしそれは「身体の中の脳」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;私は最初、麻雀は頭で打つものかと思っていました。その次は精神かなと。でもこの歳になって思うのは、やっぱり身体だということです。麻雀とは身体で打つものだと分かりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脳も神経も、何年も前から身体の中に入っている「身体の中の脳」「身体の中の神経」という部分です。こうした部分ではなく、全体を使って打つのが正しいのだと。（72ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私の限られた知見でも、私は上の言葉に例えば神経科学の&lt;a href="http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html"&gt;Damasio&lt;/a&gt;の見解を思い起こしてしまうが、もちろん桜井は麻雀の具体を語っているだけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;麻雀は流れでやるものですから、動作が流れていないといけません。&lt;b&gt;思考の流れと動作を一緒にしていくのが自然なのです&lt;/b&gt;。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうやって自然な動作ができる人は、ほどんどいません。牌を打つとき、牌を上から下に下ろすのでも、葉っぱが落ちるようにスーッと降ろせばいいのですが、身体が閉まってしまったり、開いてしまったり、ひじが重かったりする。そうやってちょっとブレただけで、エネルギーが全然違います。（71ページ）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この身体の自然は、無論麻雀の場に限った話ではない。以下は羽生の問いかけと桜井の応答である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;――「日常」という観点からも、身体についてもう少しお聞きしたいのですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は日常生活でも、他人の身体の動きを見て、いろんな癖を直したりしています。現代では、正しくスムーズに身体を動かせる人は少ない。正直、人の中には見つかりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一方で動物、そして植物は、本当にきちんと身体を動かせている。亀やサメ、鳥でもいいし、あるいは葉っぱのような植物でもいい。彼らの動きはものすごいです。すごくいい動きをしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;――それは動きが美しいということですか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや、&lt;b&gt;彼らは決して美しく動こうとはしていません。ただ、生きようとしている。そこに正否はありません&lt;/b&gt;。もちろん善悪もないでしょうし、結果として美しいとか醜いということもありません。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;桜井氏はさらに具体的な身体の動きについて語るが、それらがことごとく私が今ある武術で教えていただいていることの通りであることにも驚く（いや、これは理の当然であり、驚くべきことではないのだろう）。武術で身体操法が筋力などよりもはるかに重要であることを多少なりとも理解し、さらには&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/01/blog-post.html"&gt;知的仕事においても姿勢が重要であること&lt;/a&gt;を体験した私としては桜井氏の言葉に大きな説得力を感じる。（関連記事：&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html"&gt;身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう&lt;/a&gt;）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本を思い出すことができたのも、少しずつ私が回復してきた証左なのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが今回の私にとって決定的な力となったのは、そんな中ふと目にとまり再読し始めた&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%99%83"&gt;日野晃&lt;/a&gt;氏の本だった（私の人生では時折このような偶然が大きな力を生み出してくれる）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コンテンポラリー・ダンスの巨匠&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B9"&gt;ウィリアム・フォーサイス&lt;/a&gt;との交流の中で、日野氏は、武道でもダンスでも大切なことは「関係性」であり、そのために重要なことの一つは目でconnectすることだとする。以下は、その日野氏へのフォーサイス氏からの質問、およびそれへの日野氏の応答である。少し長くなるが引用する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;「日野、目でコネクトするのは分かったが、じゃあ、意識・精神や気持というのはどうなんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「君のボディというのは、そんなにバラバラに管理できたり、コントロールできるのか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「・・・・・」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「君らの考え方、つまり、日本からみた西洋的考え方は完全に間違っている。この"私"はこの"身体そのもの"だ、それはわかるだろう。精神はどこにあるの？意識はどこ？分けることが出来るのか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そんな考えを持ったことがないが、話していることは分かる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それをどうして、精神とか、気持とか、あるいは感情とか、また、この筋肉、この意識、という具合に分けて捉えるのだ。分けて捉えたところで、実際には分けることなど出来ないだろう。ここの筋肉を使うといったところで、身体じゅう全部神経で繋がっているだろう。そして、それは自分の気持や感情とも繋がっているだろう。つまり、身体のどこをとってもそれは全部繋がっているということで、身体は紛れもなくひとつだとうことだし、"私そのもの"なのだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（中略）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ただ、何か明確な目的があって考える時には、分けた方が混乱しないから、便宜的に分けても良い。しかし、この私イコールこの身体であり、これは人類普遍だろう。だから、たとえ分解しても常に全体として考えなければ駄目なんだ。でなくれば、全体のないジグゾーパズルのようなものになってしまう。それこそ、身体分裂症だ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうだ、分かる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「であれば、そのややこしいことを言う頭を何とかしろ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: right;"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%A6%E9%81%93%E8%BA%AB%E4%BD%93%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B-%E5%AF%BE%E4%BA%BA%E6%8A%80%E3%81%AE%E7%9C%9F%E9%AB%84%E2%80%95%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%99%83%E3%81%AE%E6%AD%A6%E9%81%93%E6%8E%A2%E6%B1%82%E8%A8%98-%E6%97%A5%E9%87%8E-%E6%99%83/dp/4862203728/ref=sr_1_2?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325591055&amp;amp;sr=1-2"&gt;『「武道身体」で生きる!対人技の真髄―日野晃の武道探求記』120ページ。&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、これだけ身体を休めたのに、どうして心が回復しないのだろうと思っていた（私はこれまでの経験から、心のトラブルは極力身体の問題として考え、身体の状況の改善で解決を図ることを学んでいた）。睡眠も栄養も休息も十分取ったはずなのに、心が晴れないのは（そして身体も思ったほど十分に回復していないのは）なぜだろうと思い悩んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;気づいてみればバカな思い込みだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心も身体に他ならないというのなら、身体の不調が心に伝播するように、心の迷いが身体の不調となることは自明のことではないか。「心と身体の大切さ」や「心身のつながり」などと御託を並べつつ、私はいつのまにか「心」と「身体」を分離させた身体至上主義に陥ってしまっていた。心とは身体であり、身体は心である。「心」と「身体」という二つの言葉を使うのは便法に過ぎず、両者は不即不離の二側面である。（"Dual-aspect monism"とでも呼べばいいのだろうか。それともDavidsonがいうように"&lt;a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Anomalous_monism"&gt;anomalous monism&lt;/a&gt;"でいいのだろうか。やれやれ私はphilosophy of mindすらきちんと勉強できていない）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回の私の不調で言うなら、この世の矛盾に何もできずにいる自分を嫌っている自分が心の底にどす黒くうごめいている以上、私の身体が十全な状態にならないのは当たり前ではないか。こんな簡単なことがわからなくなるというのは怖ろしいことだ（そう言えば、この年末年始で私は音楽に救いを求めながらも、クラシック音楽ばかり考え、ジャズやロックの存在をすっかり忘れていた。窮した人間とはかくも愚かになるものか）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうわけで本棚に日野晃氏の他の本を探すと&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%E8%B1%A1-%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E2%80%95%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E9%81%94%E4%BA%BA%E5%88%9D%E8%A6%8B%E8%89%AF%E6%98%AD%E5%B8%AB%E3%81%AB%E8%A6%B3%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B1%A1-%E6%97%A5%E9%87%8E-%E6%99%83/dp/4434020390/ref=sr_1_9?s=books&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;qid=1325591055&amp;amp;sr=1-9"&gt;『こころの象（かたち）』&lt;/a&gt;が見つかった。日野氏が&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%A6%8B%E8%89%AF%E6%98%AD"&gt;初見良昭&lt;/a&gt;氏との邂逅について語った本だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで日野氏は日本の伝統武芸（武術・武道）を、「こころの象（かたち）」と喝破する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;日本の伝統武芸と呼ばれるものは、現象としての形、つまり、刀をどう動かすのか、足をどう使うのかといった運動体としての姿より、それを支えている「こころの象」を指している、といっても差し支えない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆に私は、日本の伝統武芸（武術・武道）とは「こころの象を体現・表現されたもの」である、と定義する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じ&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%B8%80%E5%88%80%E6%96%8E"&gt;一刀斎&lt;/a&gt;が残した言葉に「月、無心にして水に移り、水、無念にして月を写す、内に邪を生ぜざれば、事よく外に正し」があるが、これも、人の「こころの象」を端的に表している言葉だ。（16ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように心を身体に体現する時に大切なのは「感性」である。だがこの「感性」の定義を明確に示すことができる人は少ない（私にとってもこれは長年の課題であり、ある時に身体哲学の研究者に会う機会に恵まれ、これ幸いと尋ねたところ、その人も明確な答えを持っていなかった。これには驚いた）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日野氏は感性について次のように説明する（[　]は私の補注である）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;しかし、これ迄「感性」「感性」と並び書いているが、その「感性」の正体は？というと、現時点では明確なものはどこの書物を探してもいまだ提示されていない。そこで、ここで断言するとすれば「違和感を感じ取る力＝差異を感じ取る力」だと言える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、「生命」というものの持つ働きの一つの現れだといって良い。生命は「保存と維持」を目的としている。であるからそれは「敵か味方か・戦うか逃げるか」を嗅ぎ分ける力を源とするものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、種としての存続に関わる非常に重要な人間の能力であり、生命の本質的な働きの一つだということになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（中略）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、最も重要なことは、[古来、日本人が]　この「感性」を判断するための定規として扱った、という点だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、「人」自らが理論的に考えだしたものを、、判断の基盤に置くのではなく、生命が持つ「感性」を判断の基盤に置いて、その上に理論が乗るということである。（133-134ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生命の保存と維持のために重要な差異を感じ取る力としての「感性」を物差しとすることが、日本の武芸の、そして工芸の、さらにはおそらくは日常的な美意識であった。そしておそらく美意識を私たちは倫理としていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし再び私のくだらない不調について語るなら、この現代日本の偽善的で残酷な繁栄を軽蔑する自分が、まさにその繁栄の中にいて、しかもその繁栄からこぼれ落ちないように日々保身ばかりに汲々としているという矛盾を、私は理屈で考え解決しようとし、それができずに心と身体の調子を崩してしまった。私にとって理屈・理論こそが定規であり物差しであった。心身の感性をせいぜい警報器ぐらいとしてしか扱っていなかった。感性を規矩にし、感性に虚心坦懐に従い、自らの言動をその感性の差し示しに任せるということを怠っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心の問題を、もっぱら身体の問題として考えるということは、「心」が実体化されがちな心理主義的現代での最初のアプローチとしてはそれほど間違いではないだろう。しかしそこでとどまっては、心を切り離した身体主義になってしまう。必要なのは、身体と心を同一事象の連動するニ側面として、同時にしかし異なるやり方で働きかけ、身体と心が出してくれる同じ応え　―両者は同一なのだから同じ応えが出てくるに決まっている―　に従うことなのだろう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;――こうしてみると思考においても言語は万能ではないことがわかる。二者が同一にして別とは、言語では少々語りづらい。私たちは先ほど音楽で考え、語ることについて述べたが、ここで私たちは、桜井章一氏や日野晃氏の導きに従い、&lt;b&gt;「身体で考え、語る」&lt;/b&gt;ことについて述べ始めるべきなのだろう（いやそれとも&lt;b&gt;「身体で考え、示す」&lt;/b&gt;というべきだろうか）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が現代日本の矛盾に（あるいは"Occupy Wall Street"でも顕わになってきた高度資本主義の矛盾）に今更ながらに気づき中2生のように悩むのなら、&lt;b&gt;私は矛盾を理屈で考え解決しようとして、次々にやってくる反対の理屈につぶされるのではなく、身体で考え、その感性的思考を次々に自らの身で示すべきだろう&lt;/b&gt;。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どだい「3.11で現代社会の矛盾に目覚めました」というのもおめでたい話だ。それこそ愚鈍というものであろう。矛盾はおそらくは人間文明誕生と共に生じたはずだ。人に意識を失い文明を捨てるという選択肢がない以上、私達がなすべきことは矛盾と共に生きることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「矛盾」は初見良昭氏も感じたことだと、初見氏を敬愛する日野氏は語る。初見氏が五年間患った病的状況（医者の見立てでは「自律神経失調症」）について日野氏はこう語る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;では、何がこの病気を生み出したのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、初見宗家の「感性」だ。つまり高松翁　[＝初見氏の師匠]　から伝授されていった様々なものと、初見宗家自身が実際に行なっている事の差を、初見宗家自身は悩みに悩んだのだ。なぜ悩むことが出来たのか？それは「感性」のはたらき以外の何ものでもない。感性が初見宗家御自身に問題があると知らせたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（中略）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;初見宗家は、御自身の今迄習い覚えたクセが原因であると気付いてはいるが、そのクセを抜き去ることが出来ない、つまり、「後来習態の容形を除き、本来精妙の恒体に復す」というトンネルに入られたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;簡単に言う事ではないが、あえて簡単に言ってしまえば、こういった自己矛盾がこの病気の原因なのだ。自己矛盾や絶望感が入り交じって、悩みに悩んでいたことが原因であり、だからこそ、病に倒れるという奇跡的な偶然を引っ張り出されたのだ。[初見氏は病を得ることで、初めて自分を捨てて「身体が感じるままに」動けるようになったと日野氏は解釈している]&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この自己矛盾に立ち向かうことこそが、歴史に残る達人達が通り抜けたトンネルなのだ。いや、この自己矛盾というトンネルを見つけ、通り抜けた人だけが達人と呼ばれ、歴史に名を残しているのだ。(186-187ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中二病とは便利なもので、容易に自分を偉人と同一視し、その妄想から自己回復することもある。「なぜ悩むのだろう。なぜ割り切れないのだろう。なぜ考えることを止めることができないのだろう。なぜ自分は偽善しかできないのだろう」とウジウジと思い悩み続けていたことを、私は安直に「自己矛盾というトンネル」と読み替え、そこに積極的な意味を見出すことができた。妄想も方便で、当座よい結果が出れば無理に抑えることもあるまい。私は自分の中二病的解釈（「現在の悩みは、自己矛盾のトンネルであり、creative illnessといえるかもしれない」）を許そう。私の感性がストップをかけるまで。そうでもなければますます不調をこじらせ仕事にさえ支障をきたすかもしれない（今でも多くの不義理をしているのだから）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現金なもので、この文章を数時間かけて書きながら、私は少しずつイライラ感を払拭していった。今、心身は晴れ晴れとまではいかずとも、まあ明日から仕事に復帰できるぐらいには回復した。感性を頼りに、一つ一つ身体で（ということは心身で）考え、その思考を具体的な行動で示してゆこう。諸矛盾の「最終的解決」などはあるはずもないし、そもそも考えるべきでもない（それは歴史が示すとおりだ）。人間社会では矛盾が避けられないのなら、矛盾を嫌わず、矛盾と共に生きよう。矛盾に呑み込まれてしまうことなく、矛盾を活かしてゆこう　（うーん、まさに中二病チックな表現だなぁ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば甲野善紀氏　―この記事での敬称はすべて「氏」とする―　の言葉にこのようなものがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱う。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やはり武術とは深い文化だと思う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-7258755230641463473?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/7258755230641463473/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=7258755230641463473&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/7258755230641463473'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/7258755230641463473'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post.html' title='身体で考え、示す。'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-10221292320412440</id><published>2011-12-24T22:43:00.004+09:00</published><updated>2011-12-24T22:48:42.635+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='信仰'/><title type='text'>メリー・クリスマス 2011　「山上の垂訓」の翻案</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;「山上の垂訓」として有名な箇所の一部を、自分なりに言い換えてみました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;神など信じられないと言うあなたへの神様からの恵みは、神様が実はあなたを待っておられることを知ることができることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;嘆き悲しむあなたへの神様からの恵みは、神様がいつかあなたを癒してくださることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;弱いあなたへの神様からの恵みは、この大地のすべてが実はあなたを支えていることに気づくことができることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正しさを求めてやまないあなたへの神様からの恵みは、人ではなく神様がいつか大きな正義を示されることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;気持の優しいあなたへの神様からの恵みは、あなたが他人の優しさに気づくことができることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;澄んだ心をもつあなたへの神様からの恵みは、神様がいつかあなたの前に姿を現してくださることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;争いを好まないあなたへの神様からの恵みは、人々があなたの中に神々しさを感じることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: right;"&gt;（新約聖書『マタイの福音書』5章3-9節を翻案）&lt;/div&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに以下は、New International Versionの英語です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;Blessed are the poor in spirit,&lt;br /&gt;for theirs is the kingdom of heaven.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are those who mourn,&lt;br /&gt;for they will be comforted.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are the meek,&lt;br /&gt;for they will inherit the earth.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,&lt;br /&gt;for they will be filled.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are the merciful,&lt;br /&gt;for they will be shown mercy.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are the pure in heart,&lt;br /&gt;for they will see God.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Blessed are the peacemakers,&lt;br /&gt;for they will be called children of God.&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="right"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.biblegateway.com/passage/?search=Matthew%205&amp;amp;version=NIV"&gt;Matthew 5: 3-9&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この2011年の冬にこそ、メリー・クリスマス&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-10221292320412440?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/10221292320412440/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=10221292320412440&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/10221292320412440'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/10221292320412440'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/2011.html' title='メリー・クリスマス 2011　「山上の垂訓」の翻案'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-3103284458885577651</id><published>2011-12-14T20:33:00.004+09:00</published><updated>2011-12-14T21:03:18.661+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;12月11日（日）に関西大学で開催されました&lt;a href="http://someya-net.com/104-IT_Kansai_Initiative/YamaokaMemorial2011/poster.pdf"&gt;翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム&lt;/a&gt;でなんとか発表と講演をすますことができました。&lt;a href="http://www.someya-net.com/index2.html"&gt;染谷泰正&lt;/a&gt;先生（関西大学）を始めとしました関係者の皆様には改めて深く感謝申し上げます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回の研究会は、私にとって山岡洋一さんの名前が入った会であるため、そこで発表することを実はかなり恐れ緊張しておりました。私の発表の愚かさで山岡洋一さんの名前を汚すことがあってはならないと思ったからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山岡洋一さんについては、私も&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/08/blog-post_22.html"&gt;短い追悼記事&lt;/a&gt;を書きましたし、何より、没後一度は閉鎖されたネット版の「翻訳通信」が復活されましたので、そちらをお読みになれば山岡さんが翻訳界および日本語文化に対してなされた貢献の一部を具体的に知ることができます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;翻訳通信 ネット版&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.honyaku-tsushin.net/"&gt;http://www.honyaku-tsushin.net/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし山岡さんの素晴らしさを簡潔に表現している文章の一つとしては、芝山幹郎氏による「さらば、果敢な友よ  山岡洋一追悼」があげられるでしょう。私はこの文章を、研究会当日に配られた小冊子「翻訳家・山岡洋一さん  その仕事と思想」で知ったのですが、以下にその一部を引用します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;翻訳とはなにか。名訳とはなにか。辞書とは何か。古典とはなにか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要するに、山岡さんは翻訳の急所に迫りつづけたのだ。横着な仕事や安易な態度に怒りを叩きつける一方で、彼は翻訳の楽しみを謳った。日本語のこまやかさを賛え、翻訳と英文和訳の決定的な違いを喝破した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかも、彼には広い視野があった。思いつきや出来心で発言するのではなく、長い眼で将来を見据えていた。全体を構想する力もあった。つまり彼の身体には、歴史感覚が早くから備わっていたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（中略）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても、と私は思う。山岡洋一のあの寛容さとフェアな精神はどこから来ていたのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山岡洋一は、翻訳という仕事を心底真剣に考えていた。翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆にいえば、山岡さんは無私の人だった。自己愛や自己憐憫といっためそめそした感情と無縁の男だった。だからこそ、彼を慕う後輩や若者の数はあんなに多かったのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;嫉妬や意地悪が幅を利かせがちなこの島国で、山岡さんのような姿勢を取りつづけるのは、けっして容易な業ではない。だが、彼はその姿勢を崩さなかった。胸を張り、頭を上げ、果敢に戦って、大股で去っていった。（後略）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下に、私は当日発表した資料を一部修正したものを掲載しますが、この業績とて山岡さん（および他の先人）が明らかにしたことを、私が少し整理した（あるいはしそこねた）ものに過ぎません。（また、講演スライドは、私が2010年8月21日に日本教育学会で&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html"&gt;口頭発表&lt;/a&gt;したものを改訂したものであることをお断りしておきます。この発表はまだ活字化できていないので、今回、ぜひ活字化できればと思っております）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.box.com/s/dnzfnb5z0igil5fa4kdx"&gt;講演スライド&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.box.com/s/og93j95b5nigj88yrjac"&gt;シンポジウムスライド&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;講演の発表内容の中で、皆さんに多少なりとも評価していただいたのが、「翻訳」、「英文和訳」、「英文解釈」の区別です。以下にその区別を掲載しますが、これは私が2010年8月26日のブログ記事&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_26.html"&gt;「翻訳教育の部分的導入について」&lt;/a&gt;で発表したものを元にした当日発表に対して加えられました皆さんのコメントを参考にして、本日作成したものです。（コンテクストの重要性をご指摘くださり、さらに"trans-coding"という用語を教えてくださいました&lt;a href="http://www.someya-net.com/index2.html"&gt;染谷泰正&lt;/a&gt;先生（関西大学）には特に感謝します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/-jUPJ8aOFs5o/TuiJoZWFBlI/AAAAAAAAAFU/ZoXAL_wdSCU/s1600/111214%2B%25E7%25BF%25BB%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E5%2592%258C%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E8%25A7%25A3%25E9%2587%2588%2B%25E3%2581%25AE%25E5%258C%25BA%25E5%2588%25A5%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25EF%25BC%2589.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 320px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-jUPJ8aOFs5o/TuiJoZWFBlI/AAAAAAAAAFU/ZoXAL_wdSCU/s400/111214%2B%25E7%25BF%25BB%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E5%2592%258C%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E8%25A7%25A3%25E9%2587%2588%2B%25E3%2581%25AE%25E5%258C%25BA%25E5%2588%25A5%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25EF%25BC%2589.jpg" border="0" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5685945856646514258" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;上の画像をクリックすると大きくなります。&lt;br /&gt;PDF版のダウンロードは&lt;a href="http://www.box.com/s/8cos89rj5il8op1f9kra"&gt;ここ&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;念のため表の中身をテキストで以下に転載します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;翻訳&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;i&gt;Translation of language use that is embodied and contextualized&lt;/i&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言語使用をその言語を発している者の心身やその者がおかれた状況を理解した上で、一読して原典（起点言語）の意味と機能がわかるように目標言語化しそれを書記化すること。時に「意訳」とも呼ばれる。書記化に伴い、ほとんどの場合、翻訳は推敲される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同化（目標言語重視）と異化（起点言語重視）の二極の志向をもち、その超克に目標言語の革新の可能性がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;英文和訳&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;i&gt;Trans-coding of language that is not regarded as embodied or contextualized&lt;/i&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;言語を発している者の心身やその者がおかれた状況をほとんど理解することなしに、記号としての言語の部分に専ら注目した上で、構文ごとの訳出「公式」に辞書の訳語を当てはめて、起点言語を機械的に目標言語化し、それを書記化したもの。しばしば「直訳」とも言われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;機械的な変換なので訳出もそのチェックも容易だが、その読解はしばしば困難。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「英文和訳」は様々な言語間での直訳の典型表現（提喩・換喩）としての表現。いわゆる独文和訳や仏文和訳もこの用語で表現している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;英文解釈&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;i&gt;Interpretation in interaction for translation or trans-coding&lt;/i&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教室で学習者と教師の間で典型的に行われる、原典を理解するための音声での目標言語化。目標言語化に際して、教師からの質問や解説などのメタ言語が多用され、その相互作用により原典理解が促進される。目標言語化は「翻訳」を志向することもあれば、「英文和訳」を志向することもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際は口頭での目標言語化は、しばしば不完全のままで終わるが、この活動の目的は原典の理解であるので、目標言語化が完成しないことは問題視されない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「英文解釈」は様々な言語間での直訳の典型表現（提喩・換喩）としての表現。いわゆる独文解釈や仏文解釈もこの用語で表現している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;通用では「英文解釈」を、左項の「翻訳」や「英文解釈」の意味で使うこともあるが、ここでは「英文解釈」は言語が音声化されるだけで書記化されない活動として「翻訳」や「英文解釈」とは区別して考える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この相互作用としての英文解釈は、学習者と教師との間で行われることを典型例とするが、学習者がこの相互作用を内面化するなら一人でも自分自身を相手にこの英文解釈の相互作用を行うこともできる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私がこの区別をした上で、主張したことの主な点は、次の通りです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;(1)「英文和訳」には教育的な意義はあまり認められないので基本的に行うべきでない（作業的に行うことはありうるだろうが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2)「英文解釈」は授業中のメタ言語の効果的な使用として適切に使われ続けるべきである。もちろん解釈内容によってはメタ言語を英語にすることも可能であり、「英文解釈は日本の英語教育の財産」といった言葉を金科玉条にして、英語授業を日本語使用ばかりにするのは戒めるべき。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(3)「翻訳」は、ほんのわずかの分量の英文しか扱えない集中的な&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_7354.html"&gt;複合的言語文化能力&lt;/a&gt;あるいは&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/vivian-cookmulti-competence.html"&gt;多言語能力&lt;/a&gt;の教育手段として考えるべきであり、全英語教育にかけられる時間のせいぜい5%もかければ十分であろう（逆にいうとその少ない時間は、徹底的に翻訳を教えるべきである）。また翻訳は英語から日本語の方向だけでなく、これからは日本語から英語への方向でも行うべきである（もちろんこれは機械的な「和文英訳」（＝「英文和訳」の逆方向の営み）ではない）。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの英語教育の議論は「翻訳」「英文和訳」「区別」の区別をしないまま、（ここでいう）「英文和訳」を禁止すべきだからという勢いで「翻訳」や「英文解釈」まで排斥しようとしているように私には見えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回の私の論点は、「一般教養としての翻訳教育」でした（詳しくはシンポジウムスライドをごらんください。「英文解釈」擁護の議論は今回は割愛しています）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私のいう「翻訳」 ―つまりは翻訳家が誇りをもっている営みとしての「翻訳」― は、日常的で惰性的な言語使用とはまったく異なる試みです。藤本一勇（2009）は&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4000283278/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4000283278"&gt;『外国語学』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4000283278" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;で次のように言います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;通常、言語コミュニケーションを、たとえば日常的に口頭でいわばプラグマティックに行っている場合、その場の実務的な目的が達せられればよいのであって、外国語や自国語といった言語の境界線（限界=極限、あるいは臨界）の問題や、相手の言語や意図にどこまで肉薄できるか（あるいは不可能か）といったような根本的な問題は、ほとんど意識しないで済まされるだろう。その意味で、翻訳は、外国語との関係において、翻って自国語との関係において、ある意味、極限的な経験ではある。しかし、翻訳があぶりだす極限的構造は、自国語であれ外国語であれ、日常的・一般的に言語を使用する場合にも、その基礎にあることは忘れてはならない。（藤本 2009, 82）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はこのような意味での「翻訳」は、限定的に日本の英語教育に導入すべきものだと思います。もっとも、私も含めた英語教師のどれだけが「英文和訳」でない「翻訳」をできるのか、という現実的な問題は大きいです。そもそも現在の英語教師の何割が、「英文和訳」でない「翻訳」を行ったことがあるでしょうか・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当日は、この他にも翻訳のデメリットについて質問をいただき、私なりに考えを深めることができましたし、翻訳家の岩坂彰さんがよくおっしゃる&lt;a href="http://shuppan.sunflare.com/iwasaka/dai_02.htm"&gt;翻訳とプリズムの話&lt;/a&gt;をよりよく理解もできました。参加者の皆様の鋭い（しかし温かい）コメントに感謝します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は「英語教育」という立場からですが、これからも「翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけ」てゆきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翻訳家・山岡洋一さんに、改めて御礼申し上げます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シンポジウムの発表者の一人である河原清志さんが、山岡洋一さんの代表翻訳作品としてあげたのが以下の古典です。どうぞぜひこの機会に山岡さんの日本語でこの世界的な古典をお楽しみください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4822248577/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4822248577"&gt;ジョン・スチュアート・ミル『自由論』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4822248577" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532133262/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4532133262"&gt;アダム・スミス『国富論』（上）&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4532133262" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532133270/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4532133270"&gt;アダム・スミス『国富論』（下）&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4532133270" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また著作の代表作としては次があげられるかと思います。&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4816916830/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4816916830"&gt;山岡洋一『翻訳とは何か   職業としての翻訳』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4816916830" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-3103284458885577651?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/3103284458885577651/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=3103284458885577651&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/3103284458885577651'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/3103284458885577651'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post_736.html' title='山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/-jUPJ8aOFs5o/TuiJoZWFBlI/AAAAAAAAAFU/ZoXAL_wdSCU/s72-c/111214%2B%25E7%25BF%25BB%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E5%2592%258C%25E8%25A8%25B3%2B%25E8%258B%25B1%25E6%2596%2587%25E8%25A7%25A3%25E9%2587%2588%2B%25E3%2581%25AE%25E5%258C%25BA%25E5%2588%25A5%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25EF%25BC%2589.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-1294150521222588356</id><published>2011-12-14T20:26:00.002+09:00</published><updated>2011-12-14T20:32:51.799+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>木の実を頬に貯めるのではなく、時間をかけて消化する</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;「山岡洋一」という名前を汚してはいけないという思いから、私にとって山岡洋一さん追悼シンポジウムで発表をすることは大きな重責となりました。加えて当日の参加者には百戦錬磨の実力者の翻訳家が多いわけですから私は結構ビビっておりました（笑）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえて言うなら、コミカルなパフォーマンスを売り物にしている地方団体プロレスラーが、サンボの全国選手権（無差別級）に出場するぐらいのビビりかたでした（格闘技に詳しくない方、わかりにくくてごめんなさい）。「まともに関節をとられたら、大怪我させられるかもしれないよなぁ」と怖がっておりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし「実力ある人は優しい」の一般則はここでも通用し、当日は皆さん、鋭い論点を出しながらも決して私を個人的に追い詰めることもなく、議論を高めて下さいました（このあたり、空手の稽古でも一緒です。本当に実力のある人は、私のようなヘタレを相手にする時は寸止めにしてヘタレが怪我をしないように配慮してくれます。中途半端な先輩と稽古をするのが最悪で、その場合はその先輩が自らの不安からか劣等感を払拭し優越感に浸りたいからかムキになってガチガチで攻撃してきますので、こちらも必死で応戦するしかありません。その結果、空手の実力が上がればいいのですが、たいていの場合はヘタレは怪我をし、先輩は自分の得意技ばかりを出して癖を強くするだけに終わります。両者ともに空手の上達がないわけです。実力と自信そして優しさというのは連動しているものだと思います。閑話休題）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とはいえ、シンポジウムなどで次々にくる質問に対応する際には、こちらも真剣に考えなければなりません。その際、何とか私が対応できたとしたら、それは私がこれまでに聞いた話と読んだ話を自分なりに&lt;b&gt;消化&lt;/b&gt;できていたからだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「消化」というのはもちろんメタファーです。生物での消化でしたら、一塊の食べ物を咀嚼などでまずは体内に入る大きさにし、それを各種の生化学的過程で時間をかけて体内に吸収できる大きさの分子までに分解します（分解された分子は、体内で新たに結合され、新たな形で活用されます）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聞いた・読んだ話の消化でしたら、一塊の話を、まずは自分で整理できるぐらいに分析します。それをさらに自分の心と身体に浸透させるぐらいに細かな要素に分解します。浸透した要素は、いつしか新たな形で自分の心身の一部となり、時がくれば新たな形で活用されます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私がシンポジウムで応答した話も、そのように（自分なりに）消化した話でした。消化されてしまっているから元の話の形をとどめていないことも多いのですが、自分の心身の中で消化され再結合されたものですから、それなりに自然な形での応答になったのではないかと思っています（もちろんこれは私の単なる思い過ごしで、傍目にはおかしな応答だったのかもしれません（笑））。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、自分のことは棚に上げた話を続けますと、昨今の教育では、情報や知識の「消化」を大切にせずに、すぐに「インプット」を「アウトプット」にすることを求めてばかりのようにも思えます（いつものような過度の一般化です。ご用心あれ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聞くところによれば、一部の猿は、木の実などを見つけるとそれを頬にためておくそうです。（ひどい）たとえをするならば、昨今の学習者は、そんな猿のように、情報や知識を「インプット」として貯めて、それを消化せずにそのままの形でテストで「アウトプット」ばかりしているようにも思えます（ひどいたとえでごめんなさい）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;「先生、ボクは一気に木の実を五つも頬に貯めておくことができるようになりました。明日のテストではこの五つをそのまま吐き出すことができますよ、ウキィ」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おお、学力がついたな。でも先生は一気に十個ぐらいは木の実を貯めておくことができるぞ。ほれ、プッ、プッ、プッ。な、今でも木の実を貯めておったのじゃ、ウキィ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わあ、先生すごい。ボクも先生のようにすぐに木の実を多く集めて頬に貯められるようになろう。そしてすぐに吐き出すんだ、ウキィ！」&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ーー 情報や知識を、テストで問われる形でそのまま覚えて、それをできるだけ多く貯めておいて、テストで一気に吐き出す  ーー そんな「学習法」は、私にとってこのようなお猿さんの営みのように思えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;木の実を頬に貯めて吐き出すだけでは、消化がありませんから、木の実はそのお猿さんの身につきません。それと同じように、現代の学習者は、できるだけ速く多くの木の実を頬に貯めては、それをすぐにテストで吐き出すだけで、ほとんど学んだことが身についていないのではないかと、私はイメージしてしまいます。おそろしいほど応用が効かないからです。（また私の悲観癖です。ご用心、ご用心）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし私が見る所、英語の学習では英単語の丸暗記、教採対策では問題集の問題と解答（あるいは教育法規）の丸暗記が、未だに学生さんの間では定番の「勉強法」となっています。私などが「それではいざという時に使えないでしょう」と言っても、「いや、やっぱりこれが一番確実ですから」と学生さんはかなり頑固で丸暗記方法を改めようとしません。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この「丸暗記＝最善の勉強法」というのは小中高や塾で徹底的に叩き込まれた習慣なのでしょうか。（本日学生さんから聞いた話によると、ある高校では英作文は模範解答だけをテストでの正解として、他の（それなりに意味の通る）解答はすべて不正解としているそうです。ちょっとひどい話だよなぁ）。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くのインプットをすばやくアウトプットし次々にテストに合格するのではなく、不器用にわずかなことをゆっくりと考えじっくりと自分の中で熟成させそれがいつか思わぬ形で活用される ―― 牧歌的なようですが、私はそれこそが生きる力につながる学びだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;熟考し、考えを深める ― そんなすぐには結果の出ない営みを軽視する文化の未来は暗いと私はいつものように悲観します。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-1294150521222588356?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/1294150521222588356/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=1294150521222588356&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/1294150521222588356'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/1294150521222588356'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post_14.html' title='木の実を頬に貯めるのではなく、時間をかけて消化する'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-481813636300846297</id><published>2011-12-12T13:45:00.002+09:00</published><updated>2011-12-12T13:48:32.021+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='お知らせ'/><title type='text'>寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』（大阪大学、1990年）のPDF版とデータベース版の公開</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;a href="http://someya-net.com/104-IT_Kansai_Initiative/YamaokaMemorial2011/poster.pdf"&gt;翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム&lt;/a&gt;では、非常に実りある議論と思いがけない出会いなどあり、関係者の皆さんには本当に感謝をしています。本来ならその報告を書きたいのですが、今は非常に疲れていますので、取り急ぎ、その際に得た情報の一つをここで共有させて下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シンポジウムでお会い（再会）できた方の一人に赤瀬川史朗先生がいらっしゃいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="https://twitter.com/#!/Lagoinst_Akasan"&gt;Twitter&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.lagoinst.com/"&gt;Lago Institute of Language&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/s/ref=ntt_at_ep_srch?_encoding=UTF8&amp;amp;sort=relevancerank&amp;amp;search-alias=books&amp;amp;field-author=%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D%20%E5%8F%B2%E6%9C%97"&gt;アマゾンのページ&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その赤瀬川先生が、&lt;a href="http://www.ninjal.ac.jp/"&gt;国立国語研究所&lt;/a&gt;からのオンライン・データベース公開で尽力されましたのが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』（大阪大学、1990年）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://teramuradb.ninjal.ac.jp/"&gt;http://teramuradb.ninjal.ac.jp/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;です。このサイト説明にもありますように、この資料は、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;諸外国からの留学生が書いた作文に見られる日本語の誤用を収集・分類した資料として、&lt;b&gt;日本語教育の研究者だけでなく理論的・記述的な日本語学・言語学の研究者にとっても学術的に大きな意義&lt;/b&gt;を有するにもかかわらず、科学研究費の報告資料としての性格上、これまでは限られた図書館・研究者が所蔵するだけに留まり、広く一般に活用されることはありませんでした。［強調は柳瀬が付加］&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それが今回、PDF版だけでなく、使いやすいオンライン・データベースでも無料一般公開されたことの学術的な意味は非常に大きいことと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;&lt;span class="Apple-style-span"&gt;寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』（大阪大学、1990年）の&lt;/span&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;b&gt;&lt;span class="Apple-style-span"&gt;オンライン・データベース&lt;br /&gt;&lt;a href="http://teramuradb.ninjal.ac.jp/db/"&gt;http://teramuradb.ninjal.ac.jp/db/&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あの&lt;a target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/s?_encoding=UTF8&amp;amp;sort=relevancerank&amp;amp;search-alias=books&amp;amp;ref_=ntt_at_ep_srch&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;linkCode=ur2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;field-author=%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D%20%E5%8F%B2%E6%9C%97#"&gt;『日本語のシンタクスと意味』をまとめられた寺村秀夫先生&lt;/a&gt;&lt;img src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;による研究ですからいやがおうにも期待は高まります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私も先ほどアクセスしたばかりですが、まずは多くの方々に知っていただくために、このブログでお知らせする次第です。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-481813636300846297?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/481813636300846297/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=481813636300846297&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/481813636300846297'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/481813636300846297'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/1990pdf.html' title='寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』（大阪大学、1990年）のPDF版とデータベース版の公開'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-6410918116257956053</id><published>2011-12-09T19:47:00.007+09:00</published><updated>2011-12-09T19:56:36.125+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='授業'/><title type='text'>英語子音の発音法のわかりやすい表記</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;運動技能習得の王道は、正しいフォームをまずはきちんと理解して、それをゆっくりと行えるようになること、そして少しずつ速くできるように練習することだと私は信じています。最初から見よう見真似で素早く行おうとすれば（天才でもない限り）自分の癖をつけてしまうだけだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;下手でもいいからきちんと原理に忠実に行う「下手な稽古」と、最初から上手にやろうと闇雲に行う「駄目な稽古」という区別をするのは&lt;a target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/gp/entity/%E9%BB%92%E7%94%B0-%E9%89%84%E5%B1%B1/B004L4RH2U?ie=UTF8&amp;amp;ref_=ep_sprkl_at_B004L4RH2U%23&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;ie=UTF8&amp;amp;linkCode=ur2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399"&gt;黒田鉄山&lt;/a&gt;&lt;img src="https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;先生ですが、英語の発音に関しても、愚直かつ丁寧に「下手な稽古」を重ねて、決して「駄目な稽古」で自分をごまかさないことが大切かと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語学習者（あるいは英語教師！）も発音について原理に忠実な練習を積み重ねる必要があります。「駄目な稽古」はすぐに「それっぽい」発音を生み出しますが、後々上達しませんし癖が強くなるかもしれません。ですが「下手な稽古」を辛抱強く続けると、数カ月後・数年後とその分だけ英語発音の原理に忠実な音が出せるようになります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし英語発音の原理である調音音声学(acoustic phonetics)の本を見ると、難しく見える専門用語に圧倒されてしまいます。それぞれの用語が意味していることは非常に単純なことなのですが、専門用語が難しく見えるという理由だけで多くの人は英語発音の原理を理解することを諦めてしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは非常にもったいない。繰り返しますが、難しいのは用語だけであり、その中身は簡単だからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこでここでは、通常の調音音声学の専門用語をわかりやすく言い換えた表を提示します。最初にわかりやすい表現、次に日本語での専門用語表現、最後に英語での専門用語表現をつけておきます。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/-Qw-otuDt7rY/TuHneYGXqaI/AAAAAAAAAE8/CaAbECZtq7g/s1600/111210%25E5%25AD%2590%25E9%259F%25B3%25E3%2581%25AE%25E5%2587%25BA%25E3%2581%2597%25E6%2596%25B9%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A1%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25AB%25EF%25BC%2589.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 275px;" src="http://4.bp.blogspot.com/-Qw-otuDt7rY/TuHneYGXqaI/AAAAAAAAAE8/CaAbECZtq7g/s400/111210%25E5%25AD%2590%25E9%259F%25B3%25E3%2581%25AE%25E5%2587%25BA%25E3%2581%2597%25E6%2596%25B9%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A1%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25AB%25EF%25BC%2589.jpg" border="0" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5684078713769535906" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;表1 子音の発音法のわかりやすい表記&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;（クリックすれば大きくなります。ダウンロードは&lt;a href="http://www.box.com/s/243bmu57uks4voh62u3x"&gt;こちら&lt;/a&gt;から）&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/-6IW4Qlh1kR8/TuHnyBO7hzI/AAAAAAAAAFI/9UdgDXYJhzg/s1600/111210%2BEnglish%2BConsonants.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 147px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-6IW4Qlh1kR8/TuHnyBO7hzI/AAAAAAAAAFI/9UdgDXYJhzg/s400/111210%2BEnglish%2BConsonants.jpg" border="0" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5684079051228809010" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;表2 上の表の灰色の部分に入る発音記号&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;（クリックすれば大きくなります）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;出典：George Yule (2010) &lt;i&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/0521749220/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=0521749220"&gt;The Study of Language&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=0521749220" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;/i&gt; Cambridge University Press. p.34&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは、子音の出し方を理解しましょう。次の4つを理解して下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;(1) 子音とは、&lt;b&gt;口の中で空気の流れを妨害することによって出す音&lt;/b&gt;です（ですから強い呼気（吐く息）が必要です）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2) 空気の流れを妨害する場所が、表の上に書いてあります。「&lt;b&gt;子音を作り出す場所&lt;/b&gt; （調音点） place 」です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(3) 空気の流れを妨害するそれぞれの場所でどのように子音を作り出すかが、表の左端に書いてあります。「&lt;b&gt;子音の作り出し方&lt;/b&gt; （調音法） manner」です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(4) それぞれの場所でそれぞれの方法で空気の流れを妨害しながら強く息を吐くことで子音を作りますが、その時に喉を震わせない（&lt;b&gt;無声&lt;/b&gt; voiceless)か、喉を震わせる（&lt;b&gt;有声&lt;/b&gt; voiced)かで音が変わってきます。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子音は、以上の4つのポイントを組み合わせることで区別して発音します。上の表の灰色の部分にはどんな音が入るでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Phonetics: The Sounds of American English&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.uiowa.edu/~acadtech/phonetics/english/frameset.html"&gt;&lt;b&gt;http://www.uiowa.edu/~acadtech/phonetics/english/frameset.html&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で確認して下さい。上の表に英語での専門用語もつけておきましたから、このサイトの使い方もわかるはずです（使ってみたら感動するぐらい便利なサイトであることがわかっていただけると思います）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次に子音発音の原理を頭で理解し身体に叩きこむために、表1の灰色の部分を見ながら発音してみてください。必要に応じて表2や上のサイトを参照して下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発音は原理に従えば必ずできます。どうぞ、わかったふりをして「駄目な稽古」を繰り返すのではなく、上の表やサイトを使って原理を身につけて下さい。その原理をものさしにして、辛抱強く「下手な稽古」を続けてゆけば、必ず「上手」になれますから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-6410918116257956053?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/6410918116257956053/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=6410918116257956053&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6410918116257956053'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6410918116257956053'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post_09.html' title='英語子音の発音法のわかりやすい表記'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/-Qw-otuDt7rY/TuHneYGXqaI/AAAAAAAAAE8/CaAbECZtq7g/s72-c/111210%25E5%25AD%2590%25E9%259F%25B3%25E3%2581%25AE%25E5%2587%25BA%25E3%2581%2597%25E6%2596%25B9%25EF%25BC%2588%25E7%2594%25BB%25E5%2583%258F%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A1%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25AB%25EF%25BC%2589.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-6646566850538351193</id><published>2011-12-08T23:38:00.005+09:00</published><updated>2011-12-09T20:57:41.816+09:00</updated><title type='text'>木村敏（2010)『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房</title><content type='html'>私は2009年から2010年にかけての冬に集中的に&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%95%8F"&gt;木村敏&lt;/a&gt;の著作を読んだのだけれど、きちんとまとめる機会を失ったまま今日に至っている。私の場合は、本を読んだらこのようにブログに書くか、自分専用のノートにまとめないとどうもわかった気にならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから後日この自伝的な『精神医学から臨床哲学へ』が発刊され読んだ時には、せめてこの本ぐらいはまとめておこうと思っていたのだけれど、これも機会を失い続けてしまっていた。しかし今度の日曜日の&lt;a href="http://someya-net.com/104-IT_Kansai_Initiative/YamaokaMemorial2011/poster.pdf"&gt;翻訳シンポジウム&lt;/a&gt;の準備をしていて、この本から多く引用したくなったので、ついでにこのブログ記事も書くことにする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;といってもここではその本の中で翻訳に関するところをまとめるだけである（音楽論についてもぜひまとめておきたいのだが、今は時間がない）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翻訳と自作については、最近では村上春樹のように両方を行いその2つを相補的に働かせている小説家もあるが、研究者ではやはり「一般論として、翻訳の多い人は自説を展開した著書をあまり書かず、逆に独創的な思想をもって何冊も本を書いている人は翻訳をほとんどしない」（298ページ）とされている。しかし木村敏は、オリジナルの著作を多く出版しながら翻訳書も20冊近くある（298ページ）という点でまさに異例ともいえる存在である。木村は言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;これは結局、私は翻訳が好きなのだということらしい。原著者が外国語で表現しようとしている思索の内容を日本語で表現し直すとどうなるか、それをあれこれ考えるのはなかなか魅力的な仕事だし、外国語の勉強というだけでなく日本語の訓練にもなる。若い人の教育に読書会を利用するという私の昔からの習慣も、その延長上にあるのだろう。（298-299ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが、これを木村の個人的嗜好だけの問題として語るのはあまりにももったいない。というのも以下に一部を紹介するように、木村の翻訳論は豊かな経験と鋭い洞察に満ちているからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;若き日の木村に翻訳の何たるかを教えたのは、木村が学ぶ京都大学の教養部でドイツ語を教えていた佐藤利勝である。佐藤との共同翻訳を振り返り、木村は次のように翻訳についてまとめる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;この翻訳の共同作業を通じて、私は佐野先生から、外国語を日本語に移すというのはそもそもどういうことなのか、それを徹底的に勉強させていただいたという気がする。なによりもそれは、外国語の語学力の問題であるよりもはるかに、日本語の表現力の問題である。著者が自らの言語で表現しようとした、それ自体は言語以前の思想を、原文の言語表現を歪めることなく、つまりいわゆる「意訳」することなく、そのまま忠実に日本語に移しながら、しかもそれが日本語として読めるものとならなくてはならない。原文の言語構造を導きの糸にしながら言語以前の思想を別の言語で表現する、これは紛れもなく立派な創作である。（68ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして翻訳の意義を実感する木村は、教師として着任した名古屋市立大学で若い医局員を育てる際に、「自分が若いとき京大精神科で精神病理学を勉強したのと同じ方式で、つまり外国文献を逐語訳しながら著者の思想を学ぶという読書会形式」（215-216ページ）を選ぶ。このような翻訳による学習の意義について木村は次のように論じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;精神病理学で重要なのは、結論として何が言われているかであるよりも、その結論が導き出される思索の過程である。それを知るためには、著者が書いた一語一語についてその辞書的な意味の背後を「読む」ことによって、その思索に「同行」しなければならない。これは、精神科で患者を診るときに、患者の症状からその表面的な意味の底にある深い動きを読み取る心がけともつながっている。（中略）フロイトはドイツ語の原文で読まなければだめだということをラカンもいっているようだが、私もまったく同感である。日本語の翻訳で読んだり、英語版で読んだりしてフロイトを論じているのは、それこそ論外だと思う。それにフロイトのドイツ語は、ゲーテ賞を受賞しただけあって非常に名文である。そのドイツ語の見事な書き手であるフロイトが、たとえば「快原則の彼岸」などであちこち言い淀んだり不明瞭な書き方をしたりしている箇所にこそ、彼が本当に言いたくて十分に表現しきれていない重大な意味がひそんでいる。それを掘り出す喜びは、ドイツ語の原文からでなければ味わえない。（216-217ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;木村は自らの著作を、翻訳家によってドイツ語やフランス語に翻訳された経験も持つが、その時の洞察は次のようなものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;私の本のフランス語への翻訳のときもドイツ語への翻訳のときも、私はいつも訳者といっしょに仕事をして、訳文や個々の訳語を検討することにしている。この作業は私自身にとっても、ときに思いがけない発見をもたらしてくれるいい勉強になった。その一例を挙げると、私は自分が日本語で書く自己論に「自我」という表現をほとんど使わない。「自我」というのはドイツ語のIch、フランス語のmoi、英語のegoなどの翻訳語であって、日本語の日常用語には含まれていない、というのがその理由である。日本語でものを考えるときには、純粋な日本語を使わなければならない。「自我」という用語を書いたとたんに、その思索は西洋的思索の圏内に引きずり込まれてしまう。これに対して「自己」というのは、中国から仏教を通じて古くから伝わって、すでに完全に日常語になっている由緒正しい日本語とみなすことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、私が自分の書いたもので「自己」と表現しているところを、これらの翻訳者はみな、Ichやmoiを使って訳してくる。あなたが「自己」と書いているところは、われわれの言葉にすれば「自我」なのだ、と言ってゆずらない。ドイツ語で「自己」というのはSelbstである。しかしこの語には元来、一人称的な「私」の意味はない。英語のselfでもフランス語のsoiでも同じことである。それはせいぜい、「それ自身」の意味しかならない。これに対して日本語の「自己」は、一人称的な意味を強く備えている。この違いをはっきり認識したのは、自分の本の外国語への翻訳を通じてだった。西洋との思想交流というものは、小さな言葉一つにこれほどまでに強く縛られている。（230-231ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん木村は、自ら外国語で書くことも行う。それには印象的なエピソードがあった。木村が若い時にピアノを習った中瀬古先生が語ったエピソードである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;先生がドイツへ留学してヒンデミットに入門されたときのこと、まず提出したのは日本古来の旋法を使った曲だったらしい。ところがヒンデミットはそれを聴いて、異国趣味で効果を狙うのは邪道だ、西洋音楽の作曲を学びたいのなら、ハイドンの音楽を徹底的に勉強して、ハイドンの書き方で曲を書いてみなさい、と言ったそうである。この逸話は、のちに私が外国語で精神病理学の論文を書くことになったとき、自分自身に対する戒めとしてよみがえってきた。あとからも書くことになるだろうように、私がそこで試みたのは、日本的ないし東洋的な思考法や言語表現を導入することによって、従来の西欧中心的な精神病理学を脱構築しようとすることだった。私の試みが西洋の同僚たちに単なる異国趣味やもの珍しさで受け入れられるのではなく、そこに真の意味での革新をもたらしうるためには、私もひとまずは徹底的に西欧的な思考に同化した上で自説を展開するのでなければならないと考えた。そんなことを考えているときにいつも念頭を離れなかったのが、中瀬古先生がヒンデミットから受けた忠告だった。（40ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かくして木村は、西欧的思考をマスターした上で日本的概念を導入したドイツ語論文を書く。その時のエピソードが以下である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;そのような趣旨のことをドイツ語で書いてマイヤーさんに見せたら、非常に面白がってくれた。ドイツ語についても、ドイツ人だったらこんなドイツ語は書かないだろうが、日本人が日本の考え方を踏まえて書くのなら大体これでいいだろうと言ってくれて、この生まれてはじめて、しかもドイツ語で書いた精神医学論文を、当時ドイツでもっとも権威のあった『ネルフェンアルツト』という学会誌に載せてくれることになった。それだけではなく、彼は数年後に、自分の手で古今の有名な離人症論文を集めて編纂した『離人症』という学術書に、私のこの論文を収録してくれた。（99ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19世紀後半から20世紀後半にかけての日本の人文系知識人は、異質な西洋言語による思想を翻訳する中で新たな日本語を創り出すことを課題とした。その後、人文系知識人は理系研究者が次々に英語などの西洋言語で業績を出すのを横目で見ているだけだった。非西洋語である日本語の思考をを西洋語に載せて表現するのは困難だからだ。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;無論、人文系知識人の中でも英語で業績を出す者もいたが、その多くは業績の思考を、日常的な日本語の思考とは無関係の、英語での学術的論文での思考に合わせただけのものだった。理系研究者と同じように、日本語的な思考をいったん忘れて英語で書いていた。学術的業績の思考と日々の暮らしの思考は切断されたままだった。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;だが少しずつだが、日本人人文系知識人の中にも、単に英語世界に同化した論文を書くのではなく、自らの日本語世界の思考や感情を英語表現に導入した論文を書く人間も現れはじめた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現代のグローバル社会では、英語を使うことがますます当たり前になってきている。「ネイティブ並に英語を話す」だけの価値はどんどん下がっている。価値は話す英語の内容の方に移ってきている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中、木村敏は、「西洋化」という近代の論理を習得した上で、自らが根ざす非-西洋文化（日本文化）を西洋の論理で理解できる形で導入し、そのことによって西洋・近代を脱構築しようとする。木村敏こそは、21世紀日本の人文系知識人の一つのあるべき姿であるとは言えまいか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⇒アマゾンへ：&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4623057518/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4623057518"&gt;『精神医学から臨床哲学へ』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4623057518" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-6646566850538351193?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/6646566850538351193/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=6646566850538351193&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6646566850538351193'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6646566850538351193'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/2010_08.html' title='木村敏（2010)『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-3615865530069679110</id><published>2011-12-05T19:25:00.002+09:00</published><updated>2011-12-05T19:30:29.206+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>従技無明ではなく、工夫窮理</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;先日に参加したある授業研究会で、ある若い先生に声をかけていただき、研究会でもいろいろ意見交換させていただきました。さらにメールまでいただき、ことさらに共感しましたので、下に一部を変更（固有名等の削除と、改行と太字強調の追加）した上で転載します（この転載に関してはその先生の許可をいただいております）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;　昨日の○○研究会に参加しました○○の○○です。日頃先生のブログで勝手に学ばせてもらっている者としては直接先生のお話が聞けてとても貴重な経験となり、勉強になりました。大変ありがとうございました。教育研究会の中で、○○中の○○先生や○○先生が先生方の個性を生かし、よりよい授業方法を創造しようとする姿勢に私は多くのことを学ぶことができたように思います。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　それに関わって&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/vivian-cookmulti-competence.html"&gt;先生のブログ&lt;/a&gt;にある『この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい』というこのコメントに、私自身の心に引っかかっている実践をする上での課題を解決する糸口があるような気がしてなりません。というのは、「&lt;b&gt;授業は創造するもので、コピーするものではない&lt;/b&gt;」ということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私自身教員採用試験の時の模擬授業では達人の先生の授業を「真似したもの」を実践しました。VTRなどを何度も見て、授業のエッセンスを完全コピーすることでその場を乗り切りました。晴れて英語教師となってからも、授業の腕を上げるべく、「技」の本を読んだり、セミナーに参加をしたりしました。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　今現在では自分の欲しい情報がすぐに手に入る時代です。ネットを見れば、学習指導案や特定の文法をどのように教えるかなど、すぐに役立つ資料はごまんとあります。そんな環境の中で、&lt;b&gt;自分自身の考えをもとに授業を創造するということがあやふやになっている気がしています&lt;/b&gt;。失敗を恐れるが余りに、達人のアイディアの傘の下で生かされているだけの存在なのではないかと感じることが多くありました。英語教師として、自分の目の前にいる生徒に「精度の落ちた達人の技」のくり返しばかりをしていたのでは、達人の先生や何より生徒に申し訳ない気持ちでいっぱいです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昨日の帰りの電車の中で、&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894764474/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894764474"&gt;『リフレクティブな英語教育をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894764474" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の先生の「自主セミナーを通じての成長」を読み返しました。達人の先生の技を解釈し、工夫しながら取り組むこと、つまりは技の取り入れ、工夫、そしてその技を超えていくことが大切なことを再認識することができました。そして、まとめに先生が述べている&lt;b&gt;『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶべきなのかもしれません』&lt;/b&gt;というコメントを私自身が実感することができ、それが本教育研究会を通して学ぶことができたのだとわかりました。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　当たり前のことかもしれませんが、教えること、英語教育についての本質的な学びを深めていかなければと感じることができました。そんな意味で本当に充実した時間を過ごすことができました。今回の研究会の関係者の皆さまや参加者の方々に感謝いたします。&lt;br /&gt;（後略）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私に対する過分の評価はさておき、この先生のメールは私も最近改めて強く思っていることを書いてくださっていましたし、何より『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶ』というのは、私が&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894764474/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894764474"&gt;『リフレクティブな英語教育をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894764474" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の「自主セミナーを通じての成長」 ― 博士論文を除くなら一番苦しんで書いた文章 ― 、を書き上げる中で到達した結論であり、そこをまさに引用してくださったので嬉しく思い、ここに転載しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「英語授業」で教師がやること言えば、事実上「文法説明と英文和訳」でしかなかった時代では、英語教師の様々な教授法 ―「技」― は、幅広く紹介される必要がありました。私の個人的印象では、90年代後半から&lt;a href="http://www.mag2.com/m/0000014984.html"&gt;「英語教育達人セミナー」（達セミ）&lt;/a&gt;の開始や、VHSからDVDへのメディアの進化、個人ブログの増加、そしてそれらに連動したような英語教育技術の出版物の増加により、ここ15年間で英語授業のあり方は ―少なくとも研究授業で見られるような授業では― 大きく変わりました。随分前、研究社の『現代英語教育』は、英語教師の典型像として分厚い眼鏡をかけて分厚い辞書と文法書を持ち歩いている教師を描き出しましたが、いまやそのような英語教師は絶滅危惧種であり、現在の英語教師の（やや誇張された）像はストップウォッチやタイマーを首から下げ、iPodなどのメディアを駆使するものかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ストップウォッチやタイマーで短く時間管理をする英語教師というのは、実際、少し前まではとても新しい考えでした。この時間管理が英語授業によい影響を与えたことは疑いないと私も思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしこの時間管理という「技」も、ただ表面的に真似られるなら、何をやっているかよくわからない授業を作り出してしまいます。昔、ある授業で教師が、レストランでの会話（ウェイターと客の間での注文に関する会話）を、極めてマジメな顔をして高速で生徒に音読させたり、シャドーイングさせたり、Read &amp;amp; Look Upさせたりと「トレーニング」しているのを見て、私は思わず笑い出してしまったことがあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし仮にレストランで私たちが英語を使わなければならないとすれば、それはリラックスした笑顔でウェイターとアイコンタクトをして、互いにいい関係を築くことを最優先とした上でのことでしょう。そこでの英語使用に厳密な正確さや過剰な高速発話などは必要ありません。しかしこのような会話まで「トレーニング」の対象としてしまうことは、そういった現実世界での英語使用について、生徒に誤った感覚を植えつけてしまうとは言えませんでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは最近はどうも「思考力・判断力」などが研究授業の流行のようですが、ゆっくりと英語表現の意味合いや響きを感じさせた上で思考を紡ぐべきところを、「ハイ、3分で考えて」と指示し「ピピピピピ」という耳障りで品のない音で思考を中断させるのは、趣味の問題と言われればそれまでかもしれませんが、私などにはどうも馴染めません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仮に時間管理をしなければならないにせよ、それは教師が密かに腕時計などを見つつも、何よりも生徒の顔つきや姿勢などを観察しながら、「もういいかな？」と静かに声をかけるぐらいが適当ではないでしょうか。そういった配慮こそは、感覚と思考を働かせている生徒にとって必要なことではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;上の二つはわずかな例に過ぎませんが、どうも多くの英語教師が「技」に振り回されてしまっているようにも思えます。「技」がどこか「上」 ― 達人や文科省やエライ先生 ― から降ってきて、それを使わないといけないとばかりに、どこか浮き足立ってしまっている、あるいは「上」が（そのつもりはなくとも）そのように現場教師を浮き足立たせてしまっているのではないか ― 時にそう思えてしまい、私は&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894764474/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894764474"&gt;『リフレクティブな英語教育をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894764474" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;や&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476542X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476542X"&gt;『成長する英語教師をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476542X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の文章を書きました（ここにはウェブで広く「技」を紹介してきた一員としての責任感もありました）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;技を知ることは大切です。何も技を知らないよりは、知っていた方がいい。ただ、だからといって無闇に技を覚えればいいというわけではない。また武術メタファーで恐縮ですが（笑）、たとえば相手が左に崩れている時には、相手をそのまま左に崩せばいいだけの話なのに、そこで相手を逆に右に崩す技をかければ「何をやっているんだ」ということになる。さらには、強引に相手を左から右に崩した上で、改めて相手を左に崩す技をかければ、もう何をやっているのかわからなくなる ― 技も、技のHowだけを知るだけでなく、技のWhatとWhy（そもそもこの技は何であり何のために使うのか）を知らなければ、技を覚えただけ愚かになってしまいかねません。技を覚えて、自らの&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/09/blog-post_23.html"&gt;「正中線」&lt;/a&gt;を失ってしまえば、何もなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;技に表面的に従うだけで、自分で何をやっているのかかえってわからなくなることは、&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;従技&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E"&gt;無明&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とでも言えるのかもしれません（スミマセン、造語は私の悪趣味の一つです 笑）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;必要なことは、私達が技に振り回されることなく、地に足をつけて、自分のやっていることが何なのか(What)、何のためなのか(Why)を見つめ直した上で少しずつやり方（How)を改善していくことでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、このWhat-Why-Howをめぐる私たちのあり方 ― 私たちの例なら、教師と生徒がこの現代において学校という場で出会い時間を共有しているということ ― の「理」を究明しようとすること、つまりは私達が生きていることの根本の原理を少しでも明らかにしようとすることを目指すべきではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことばが大げさになってしまいましたが、地に足のついた工夫を重ね、「天」とでも表現したいことの理を探ることは、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;工夫窮理&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とでも表現できるかもしれません。（←造語性中2病www）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「工夫」はともかく「窮理」とは大げさなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、授業技術でも格闘技術でも、技の改善だけに囚われてしまうと、新しいことは新しいのだけれど、何のためにそんな変更をしているのかわからないような奇っ怪な「工夫」が見られると私は観察していますので、敢えて「工夫窮理」と四文字熟語を作りました。（←病識のない中2病www）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは自分が置かれた状況、自分という人間、そして目の前にいる生徒を見つめ直し、これまでの日常に少しずつ工夫を加えて、その工夫の中で英語教育という営みの理を根本から考えつつ、日常を続ける ― こんな「あり方」（BEING）を大切にしたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすれば、各種メディアがふんだんに提供してくれる「やり方」(HOW)の情報も活用できるでしょう。各種メディアを使いこなすためにも、私たちは自分たちの存在という根本について考える必要があるかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;結論&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この記事の書き手は、病識のない造語性中2病に罹患しながら、中高年性説教症を併発している恐れがあります。関係者は特別の注意を払うようにしてくださいwww。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894764474/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4894764474"&gt;⇒アマゾンへ：『リフレクティブな英語教育をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4894764474" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476542X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476542X"&gt;⇒アマゾンへ：『成長する英語教師をめざして』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476542X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-3615865530069679110?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/3615865530069679110/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=3615865530069679110&amp;isPopup=true' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/3615865530069679110'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/3615865530069679110'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post.html' title='従技無明ではなく、工夫窮理'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-4239224831305527025</id><published>2011-11-29T21:34:00.003+09:00</published><updated>2011-11-30T07:15:09.698+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;何度か耳にしたことはあるけれど、"multi-competence"(「多言語能力」ととりあえず訳しておく）の概念のことをきちんと調べていなかったことは不覚だった。日本の英語教育にとって、非常に重要な概念ではないか！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私も慌てて&lt;a href="http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/11/some-excerpts-from-website-multi.html"&gt;ノートのようなもの&lt;/a&gt;をつくったけど、幸い、提唱者のVivian Cook自身が専用のウェブサイトを用意しているから、この概念について知りたい方はこちらをどうぞ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;Multi-competence&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;&lt;a href="http://homepage.ntlworld.com/vivian.c/SLA/Multicompetence/index.htm"&gt;http://homepage.ntlworld.com/vivian.c/SLA/Multicompetence/index.htm&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは、私が2009年初頭以来懸念し（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.html"&gt;高等学校学習指導要領(外国語）へのパブリックコメント提出&lt;/a&gt;）、昨日も悲観的な見解を書いた（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_28.html"&gt;「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について&lt;/a&gt;）について、より直接的に考えるためには、このページを先に読んだ方がいいかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;Using the First Language in the Classroom&lt;br /&gt;&lt;a href="http://homepage.ntlworld.com/vivian.c/Writings/Papers/L1inClass.htm"&gt;http://homepage.ntlworld.com/vivian.c/Writings/Papers/L1inClass.htm&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この論文（草稿）の大切な所を、ごくごく簡単にまとめておくと、次のようになる（まとめは乱暴なものなので、英語教育関係者はきちんと上のページの原文を読んでくださいね。この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい。私は浅薄で声高な人の「ギロン」が嫌いです）。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;・「外国語授業では基本的に母国語を使うな」という主張は、19世紀末の言語教育改革（直接法などを生み出した改革）以来のもので、それはオーディオ・リンガル法などにも受け継がれ、20世紀の不問の伝統となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・言語教育の改革を標榜する者はこの主張を受け継ぎ、教室での母国語使用を敵視するが、学習の現実を知る教師は母国語を使い続けた（そして「改革者」から非難を浴びせられ続けた）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・「外国語の授業は、外国語だけで行うべき」という主張の前提は、整理するなら、(1)第一言語獲得からの類推、(2)第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観、(3)教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、といったものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・前提(1)の第一言語獲得からの類推だが、これは既に第一言語の知識を備え知的にも 社会的にも成熟している第二言語学習者を、言語獲得中の幼児と同じものだとみなす、あまりも乱暴な考えである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・前提(2)の第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観は、1980年代以降の数々の実証的研究で否定されている。第二言語使用において第一言語は様々な形で影響しているし、逆に第一言語使用においても第二言語の影響は見られる。第一言語は、ヴィゴツキーの用語を借りるならば、第二言語学習の'mediation'として有効活用できる。そもそも授業中に第一言語を使わないことによって、学習者の心の中の第一言語の影響が消え去るわけではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・前提(3)の教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、については、ある程度は当たっているが、「クラスルーム英語」は非常に定型的なものに過ぎないことを忘れてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・第一言語は、文法説明、教室のマネジメント、生徒個々人との関係づくり、より細やかに学力を見るテスト、生徒の個人学習・グループ活動、などで活用できる。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あと、Cookは第一言語を効果的に使った実践例についても報告しているけれど、これは明治中期以来の英語教育の伝統を誇る日本の教師の知恵の方がはるかに優れているように私は思えます（報告は短いものなので、即断はできませんが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、Cookも言っているように、二言語間での翻訳やコードスイッチングは、モノリンガルのネイティブ・スピーカーにはできない、第二言語使用者特有の能力である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;加えて、第一言語の影響が、週数時間の英語の授業を受けただけではなかなか消え難いのは、私も最近「&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/i-if-become-soccer-player-is-play-hard.html"&gt;"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて&lt;/a&gt;」や、2010年6月掲載の「&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_29.html"&gt;文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―&lt;/a&gt;」などで書いた通り。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、書き始めたらきりがないので、ここで終えるけれど、とりあえずは上のサイトをご覧ください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような理解は、もし今後、高校現場で指導要領の文字面しか理解していない「偉い方々」が無理矢理に「授業は英語で！」と強要した場合に、生徒の「わかる授業・できる授業」を守るための武器となるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-4239224831305527025?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/4239224831305527025/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=4239224831305527025&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4239224831305527025'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/4239224831305527025'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/vivian-cookmulti-competence.html' title='Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-6347214658101176635</id><published>2011-11-28T22:06:00.005+09:00</published><updated>2011-12-02T18:43:41.412+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;&lt;b&gt;&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;■"Subtractive bilingualism"ならぬ"subtractive monolingualism"（「引き算になる単一言語使用」）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12月11日（日）に関西大学で行われる&lt;a href="http://someya-net.com/104-IT_Kansai_Initiative/YamaokaMemorial2011/poster.pdf"&gt;翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム（および講演）&lt;/a&gt;の準備の一環として、Tim McNamara (2011) の&lt;a href="http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1540-4781.2011.01205.x/abstract"&gt;Multilingualism in Education: A Poststructuralist Critique&lt;/a&gt;を読んでいたら、ちょっと恐ろしい可能性が頭に浮かんでしまった。頭を整理させるため、そしてできれば皆さんにも考えていただくために、ここに簡単にその可能性をまとめておきたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その恐ろしい可能性とは、"subtractive monolingualism"（「引き算になる単一言語使用」）である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;通常、私たちは&lt;a href="http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbou_data/a2210015.html"&gt;"additive bilingualism"や"subtractive bilingualism"&lt;/a&gt;（「足し算になる二言語使用」「引き算になる二言語使用」）のことを話す。例えば学校で日本語だけでなく英語も教えることが肯定的結果をもたらすなら、それは"additive bilingualism"であり、下手に英語を教えることによって第一言語である日本語習得に悪影響が出て第二言語の英語習得もままならないとすれば、それは"subtractive bilingualism"である。だがこの論文の用語は、"subtractive &lt;i&gt;monolingualism&lt;/i&gt;"である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この現象を報告しているのは、McNamara自身ではなく、彼が引用をしているWilliams (2010)だ。Williamsについて、私はMcNamaraが文献情報に掲載しただけのこと（注1）しかしらず、原典を確認できないので、ここではMcNamaraの引用をもとにまとめる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■アフリカ諸国はなぜ現地語を軽視し続けようとしたのか&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Williamsによると、彼が調査したMalawi, Zambia, and Rwandaでは、それぞれの政府が初等教育（小学校）で、現地の言葉よりも英語を重視し、教科を英語で教えるようにしている。だが、これらの国では小学校4~5年生になった時でさえ、多くの子ども（MalawiとZambiaで約75%、Rwandadeで95%)が英語で書かれた教科書の説明を読むことができない（433ページ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの国の教育関係者は、このような危険性を懸念し、現地語を重視するように再三に渡り政府に進言していたのだが、政府はこの進言を無視し続けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Williamsは、これらの政府が重視しているのは、(1)経済発展(economic development)、(2)言語的統合(unification)、(3)国民からの承認(authentification)であり、その根底には国の生き残り(survival）がある（433ページ）。これらの懸念が、小学校から教育を英語で行うことにつながっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(1)の経済発展は、産業という点で直接に英語の強化につながる。(2)の言語的統合は、アフリカではあまりにも多数の現地語が話されているので、国を言語的に統合しようとすれば、国外の（旧植民地宗主国の）言語（この場合は英語）を採択しようということであり、それはそのまま英語による教育の強化につながる。これら二つの懸念と英語教育のつながりは、まあ理解できる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし現実社会の狡猾(sinister)さを示すのが、(3)の国民からの承認である。どんな国とて国民からの承認・支持がなければ安定はしない。だからこれらの国も、上記の(1)や(2)の理由から英語による教育を国民に訴える。英語による教育をしなければ、これからはやっていけない、と説く。国民世論は圧倒的にその政府方針を支持する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしその教育の実情は上の数字が示すように、国民の大半が切り捨てられるものである。もっぱら英語で小学校教育が行われるものの、多くの子どもはその教科書すらまともに読めないままである。現地語はほとんど教えられていないから、現地語の読み書き能力もついていない。英語という単一言語に集中したモノリンガル教育を行った結果は、まさに引き算である。現地語による小学校教育ならついたであろう学力さえ、多くの子どもは失ってしまっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが、現実社会の狡猾なところは、少数の子どもは英語を習得し、国外とのビジネや国内での統括管理などを行うエリートの切符を手にいれていることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Williamsはこの状況を記述するのに、Myers-Scotton (1990)の"Elite closure"（エリートの囲い込み）という用語を引用する。「少数の支配的エスタブリッシュメントが、自分と自分の家族には通用する高度な英語教育を確保しているが、その教育が実際に意味していることは、その教育は国民の大多数にとって不適切なものであり、国民のほとんどは恩恵を得ないことである」（注3）のが、この英語教育の実態であるというわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■悲観的に、アフリカの状況に日本の近未来を重ねあわせてみると&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が冒頭で恐ろしい可能性と言ったのは、このアフリカの状況に似た状況に日本も陥るかもしれないということだ。無論、アフリカ諸国と日本は様々な条件で異なる。特に、日本は近代日本語で言語的に（ほぼ）統一されている点では、アフリカ諸国と決定的に違う。だから私の悲観をどうぞ笑ってください。しかしその「言語的統一」を国内での話ではなく、諸外国との話にすれば、上記のアフリカ政府の(1)~(3)の懸念は、日本政府の懸念となるようにも思える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すなわち、やや誇張して言えば、日本の教育行政者が次のように論を展開することも可能だとさえ、悲観主義者の私には思えてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;(1)'これからの日本の経済発展のためには英語は不可欠です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2)'通商圏での言語は、中国語・韓国語・タイ語・ロシア語等々とたくさんにあり、それらの言語をすべてマスターするのは困難ですから、言語統一を英語ではかる必要があります（これは他の国もそう考えていることであります）。英語は必須なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(3)'これらの要因からすると、従来とは全く質の異なる、高度な英語教育が必要です。となれば、小・中・高の英語の授業は基本的に英語でやるべきだと思いませんか。授業も定期試験・入学試験も「オール・イングリッシュ」でなくてはなりません。従来のように日本語を使うような授業では英語力はつかないのです。大学も（少なくとも一部の大学・学部は）日本語ではなく英語ですべての授業とすべての試験を実施するべきです。 ― 国民の皆さん、政府は、教師の尻を叩いて（できない教師はクビにして）このような体制を実現させますから、税金負担と教師批判に協力してください。ご子息の未来のためです！&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こう言われれば、不安に駆られた国民は、そういう英語教育政策をひょっとしたら熱狂的にサポートするかもしれない（もちろんそこには多くの御用学者の働きもあるのだろうが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_7354.html"&gt;「純粋な「英語教育」って何のこと？　複合的な言語能力観」&lt;/a&gt;でも少し述べたし、今度の&lt;a href="http://someya-net.com/104-IT_Kansai_Initiative/YamaokaMemorial2011/poster.pdf"&gt;翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム（および講演）&lt;/a&gt;でも論ずるつもりだけれど、俗耳に入りやすい「英語の授業は英語で！日本語は極力使わない！！」といった単純なスローガンには警戒が必要だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本語が骨身にしみている学習者に、短時間で通じる英語を使う能力をつけようと思うなら、日本語の特性に逆に着目し、日本語を説明言語として効果的に使ったほうが有効なのではないか。そもそも日本国の国民を育てるという発想なら、日本語の発想と英語の発想をうまく通言語的・通文化的に発揮できる言語的・文化的能力を育てるべきではないのだろうか（注4）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが「英語の授業は英語でやるのが当然」という単純なスローガンは強力だ。上のような周りくどく思える議論はスローガンの連呼にかき消される恐れもある（それは未だに英語教育の解決策といえば、しばしば「ネイティブ」「留学」という言葉しか出てこないことからも十分に予測されることだ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして小・中・高（そして大学）の英語教育の現場から日本語が事実上追放されると仮定しよう。そうなれば学校教育だけで英語をマスターすることは（よほど才能に恵まれた者を例外とするなら）およそ困難になると私は考える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうなると教育産業の出番だ。幼児期からの「英語のシャワー」、中・高生のためにわかりやすく丁寧に日本語で英語を教えてくれる塾・予備校あるいは参考書、快適な空間を演出する英会話スクール、さまざまな私費海外ホームステイ・留学プログラム、「英語力」を客観的に教えてくれる各種英語資格試験、さらにはその試験対策講座などなど、市場は学校英語教育の不備を補うべく、どんどん教育の世界に参入するだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だがその教育産業の恩恵を得るのは、裕福な家庭の子供だけだ。中産階級がどんどん没落していることに関しては日本も世界の例外ではないが、そういった経済的余裕を失いつつある家庭も「子どもの未来のためなら」と今以上に教育への出費を増やすかもしれない（今の韓国がそうであるように）。そんな余裕などまったくない家庭の子どもは、教育産業からの助けを得られないままに、「オール・イングリッシュ」の授業に耐え続けなければならないかもしれない。ほとんど何もわからないお客さんとして。あるいは歌やゲームで適当に遊ばされる対象として。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;良心的な英語教師は、学校英語教育だけでも子どもに英語力をつけたいと、日本語をうまく使って英語教育を試みるかもしれない。仮に高度な英語力はつかないにせよ、生徒との毎日を大切にし、生徒に理解や達成の喜びを実感させようと、日本語で解説し励ましながら英語の力を少しでもつけさせようとするかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だがそこへ教育行政者は勧告にくる。「英語の授業は英語でやりなさい。これは民意です。民意に反する公務員はクビです」・・・。うん、どうも私は&lt;a href="http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html"&gt;昨夜から&lt;/a&gt;悲観的になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「英語の授業はすべて英語で」というある意味の「正論」も、もし暴走するなら「引き算になる単一言語使用」になるかもしれない。知能指数と経済資本・&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%B3%87%E6%9C%AC"&gt;社会資本&lt;/a&gt;・&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC"&gt;文化資本&lt;/a&gt;に恵まれた一部の者を除くならば、多くの学習者は英語もほとんど身につけることなく、適切に日本語も使って教えられていたならば身についていただろう通言語的・通文化的な力も、納得感も達成感も得られないままに学校を卒業する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは何度も言うように私の悲観だ。しかし、「コミュニカティブ」の掛け声で、ゲームのような活動ばかりやらされていた生徒が、片言の決まり文句と引き換えに、従来は育っていた読解力や思考力を失ったことを考えると、この「引き算になる単一言語使用」もそれほど荒唐無稽な想像ではないと私は考える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■立ち止まって考えるべきなのでは&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「教育の論理」「日本の英語教育の論理」「現場の論理」というものはあるはずだ。「教育の論理」は、「経済資本・社会資本・文化資本において貧しい家庭の子どもにもきちんとした教育を与えなければならない」という考えを含むだろう。「日本の英語教育の論理」は、「これから英語を話すことが当たり前になってゆく世界で、競争力を保ち発展させるためには、他国民が有し難い日本文化独特の発想を活かした形で英語発信を行う」という考えも含むのではないか。「現場の論理」には、「この生徒には、ひょっとしたらさらにグローバル化する社会の中ですらも英語を使った仕事をする可能性も少ないかもしれないが、せめて学校ではきちんと丁寧に対応し、人間としての尊厳を実感できるようにさせたい」といった思いも含まれるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが昨今は、経済的不安に駆られた大人は、「バスに乗り遅れるな」とばかりにグローバル資本主義競争に子どもを突入させようとしている。バスに乗れるのは&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%A1%97%E3%82%92%E5%8D%A0%E6%8B%A0%E3%81%9B%E3%82%88"&gt;1%&lt;/a&gt;、いや&lt;a href="http://www.nytimes.com/2011/11/25/opinion/we-are-the-99-9.html?_r=2"&gt;0.1%&lt;/a&gt;にしか過ぎないかもしれないのに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私達がなすべきことは、むしろそういった社会体制を問い直すべきことなのかもしれないのに、大人は「自分の子どもだけは」と、1%（あるいは0.1%）の枠に子どもを入れることを目指す（あるいはその枠からのおこぼれを貰える席を目指す）。その特等席は、特例を除くなら、ほぼ既得者の子息だけで独占されているかもしれないのに（またおこぼれも、雀の涙ぐらいのものかもしれないのに）、大人はその特例の成り上がり有名人の「やればできるんです」という言葉に煽られて、持てるお金の多くを教育市場につぎ込む。つぎ込む金が尽きた親は自らの無力を嘆く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;お金のない家庭は、「どうせ・・・」と諦める。諦めて気楽に生きることができればいいのだが、農業・漁業・手工芸といった自活能力も失った近代人は、賃金を得ることでしか生きてゆけない。しかも幼少の頃からのテレビなどの洗脳で、人生を楽しむには商品を購入するしかないと思わされている。かくして低賃金・長時間労働の人生を選ばざる得なくなる。たまに買うコンビニのプレミアム・デザートを、ほとんど唯一の贅沢として・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ああ、なんだ、この希望のなさは」と人々は恨む。「こんなことなら、すべてを変えてくれそうな指導者に期待しよう」と、人々は博打のような他力本願を唯一の希望としてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが今必要なことは、立ち止まって考えることではないのか。時代の狂騒から一歩引いて、人間が生きることについて考えなおすことではないのか・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誰もが頷く時代の「正論」には気をつけよう。それこそは、この時代がはまった知的陥穽、イデオロギーなのかもしれないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注1）&lt;br /&gt;Williams, E. (2010, March). The politics of language policies in Africa: Why are the testimonies of testing ignored? In A. Davies (Chair), Starting a second language: Institutional second language learning and its dilemmas. Symposium conducted at the meeting of the American Association for Applied Linguistics, Atlanta, GA.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注2）&lt;br /&gt;Myers-Scotton, C. (1990). Elite closure as boundary maintenance: The case of Africa. In B. Weinstein (Ed.), &lt;i&gt;Language policy and political development&lt;/i&gt; (pp. 25-42). Norwood, NJ: Ablex.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(注3）原文は"a small dominant establishment ensures that they and their families have access to high standards of English while inadequate education systems mean that this is largely denied to the mamjority"です（434ページに、原著論文7ページからの引用として掲載）です。ブログ記事ではずいぶん意訳しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注4）ごめんなさい、このあたりは後日もう少し丁寧に論ずるつもりです。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;参考記事&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;安田敏朗（2006)『「国語」の近代史』中公新書、および「英語の授業は英語で」のスローガン化に対する懸念&lt;br /&gt;&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html"&gt;http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-6347214658101176635?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/6347214658101176635/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=6347214658101176635&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6347214658101176635'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/6347214658101176635'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_28.html' title='「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-2800941000186245024</id><published>2011-11-26T19:19:00.004+09:00</published><updated>2011-11-26T19:25:04.729+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;ある中学生が書いた英文は、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;I if become soccer player is play hard.&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ボクは、もしサッカー選手になったら、がんばってプレーしたい」の直訳的表現だろう。全国いたるところでこのような「英語」を書く中学生・高校生は見られる（いや、一部の大学生だってそうだろう）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は今、武術を教えていただいているが、私の技には穴だらけなのにもかかわらず、指導者は一番大切なことの指導だけに集中してくださる。私の技の欠点（例えば）7つを同時に指摘することなどせずに、その武術を成立させているもっとも大切な術理の体得だけに指導を絞り、なんとか私の技が武術の技として成立することに専心してくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語教師というのは、生徒よりはるかに英語ができるのだから、生徒の英語を見たらすぐにその間違いを指摘したがる。それもすべて。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、もし私の武術の先生が私の技の間違いをすべて一時に指摘し修正しようとすれば私が意欲を失い自分は駄目だと思ってしまうように、多くの生徒も間違いをすべて指摘され修正を求められたら意欲や自信を失ってしまうかもしれない。（ついでながら言うと、もし私の武術の先生が、毎回秘かに「客観的なキジュン」で私の「関心・意欲・態度」を評価しており毎期末にそれを私に厳かに告げるのだとしたら、私はしらけるか呆れてしまうだろう。私が稽古に望んでいることはそのようなことではない ― 学校教育の慣行を、自分の武術稽古と重ねてみると違和感を感じることが多い ―）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話を指導に戻すなら、指導者がやらなければならないことは、もっとも大切な点 ― そこを欠いては技が技として成立しない術理 ― が何かを見極め、そこを学習者が体得することに工夫を凝らすことだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは中学英語にとって最も大切な点とは何だろう。中学英語での学習項目のうち、どこが駄目なら英語のコミュニケーションが成立しなくなるのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発音を除くなら、それはやはり語順だろう。あるベテラン中学教師にも同意していただいて意を強くしたが、まずは中学生に、英語とは、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;S V Plus&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;の言語であることを体得させることだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず明確に主語(日本語の「主題」ではなく、agentであることが多い）を述べ、続いてすぐに動詞（多くはactionを表す）を述べる。続いて、そのSVのメッセージが必要とする限りの情報(Plus)を付け足す。当面必要とされる情報が埋められれば文は完成。そうでなければ必要な情報を適切な形式で追加する。この順番で必要にして最小限の単語を適切な形式で加えてゆく。（参考記事：&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/07/blog-post_16.html"&gt;「田地野彰先生と田尻悟郎先生それぞれによる学習英文法書」&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;無論、この原理以外にも大切なことはたくさんある。この原理以外を最も大切な原理と考える方もいらっしゃるかもしれないし、またこの原理を別の方法で表現される方もいらっしゃるかもしれない。だがともあれ、指導者は、英語でのコミュニケーションのために最も重要なことを見極め、そこの指導を徹底しなければならない。そしてそこがかなりの程度できるようになったら、次に大切なことの指導に移るようにすべきだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれにせよ、日本の英語教育研究というのは、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;I if become soccer player is play hard.&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;といった目の前の現実から始めなければ、砂上の楼閣だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;S V Plus&lt;/b&gt; 以前の大切な点の一つは、アルファベットの&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%9F%BB%E8%AB%96#.E5.BC.81.E5.88.A5.E7.9A.84.E7.B4.A0.E6.80.A7"&gt;弁別的特徴&lt;/a&gt;（&lt;a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Distinctive_feature"&gt;distincitve feature&lt;/a&gt;)だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえばこのフォントでの"a"は、"d"と右側の縦線の曲がり具合により弁別されるが、この曲がり具合はどのくらい小さくなれば"d"となるのだろう。あるいはこの縦線が短くなればそれは"a"(このフォントのような曲線でなく、短い右縦線を使う「エィ」）と認識されるが、その垂直線はどのくらい短ければ「エィ」でどのくらい長ければ"d"なのだろう。アルファベットの26文字は、相互にどのように弁別されるのだろう。また、それぞれの文字のプロトタイプの特徴とは何なのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった実践研究は、きっと過去にもなされてきたのだろうと思うけど、残念ながら私は知らない。誰かご存知でしたら教えていただけませんか？ もしそんな研究が過去にはなかったら（今は忙しくて実現可能性があまり高くないけど）、一緒に研究しませんか？&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-2800941000186245024?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/2800941000186245024/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=2800941000186245024&amp;isPopup=true' title='6 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/2800941000186245024'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/2800941000186245024'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/i-if-become-soccer-player-is-play-hard.html' title='&quot;I if become soccer player is play hard&quot; あるいはS V Plusについて'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>6</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-8771569351520137269</id><published>2011-11-24T21:51:00.004+09:00</published><updated>2011-11-25T07:13:46.057+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>内田樹氏による根本的な教育論が今重大な意味をもつ</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;きたる11月27日の大阪市長選挙は、橋下徹氏の維新の会による「教育基本条例」をめぐる戦いでもあり、この選挙の結果は、今後の日本の教育のあり方に大きな影響を与えることが予測されます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政治活動に関してはかなり抑制的な態度を貫いてきた内田樹氏も、橋下徹氏の教育観に強い懸念を示し、この度、長文の声明をブログに掲載しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;平松さんの支援集会で話したこと&lt;br /&gt;&lt;a href="http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php"&gt;http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この声明は、時局的・政局的なものではなく、教育に関する根本的な原則論でありますので、日頃内田氏の言説に興味を持つ方も、持たない方もぜひご一読いただきたく思います。これは大阪だけの問題ではありません。ましてや橋本氏・平松氏といった個人の問題でもありません。日本の教育、ひいては未来をどう考えるかという問題です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下は、私なりに印象に残った箇所を抜粋したものです。ただし&lt;b&gt;太字でつけた見出し&lt;/b&gt;は私がつけたものであり、内田氏によるものではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;ビジネスは失敗すればやり直すことが活力。しかし人間の教育にやり直しはきかない。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;人体実験ができない以上、教育現場ができるのは、「マイナーチェンジ」だけです。子供たちの成長に合わせてゆっくり変えてゆく。経験的に「これでまあ大丈夫」という教育方法を実践しつつ、微調整してゆく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たしかに社会は急激に変化していきます。政治だって変わる。でも、そうした外の社会の変化のスピードに学校は合わせちゃいけないんです。ビジネスなら、新しいビジネスモデルを取り入れて、起業して、市場にその適否の判断を委ねるということができる。それはすぐわかる。ビジネスにおいては「マーケットは間違えない」というルールでゲームをやってますから。正しければ儲かり、間違っていれば倒産する。それだけのことです。でも、実際には設立された株式会社のうち、20年後まで生き残っているのは100社に1社程度でしょう。会社ならそれでいい。でも、こっちは生身の人間が相手なんです。1％なんていう歩留まりで教育モデルを試すわけにはゆきません。100人中99人は「教育に失敗しました」というようなことを教師は言う訳にはゆかない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教育はビジネスと同日には論じられないというのは、そういうことです。失敗が許されないんです。だから、「長い経験によって、これはまあ大丈夫だということがわかっているやりかた」をベースにして、少しずつ微調整する以外に手立てがない。それに対して、「社会の変化のスピードに対応してない」というような批判を向けるのは、ナンセンスなんです。生身の人間が相手なんですから。ちょっと動かしてみて、間違ったらすぐに戻れるようなように慎重にやってみて、上手く行ったなと思ったら、「こういうやり方、割といいですよ」ということをアナウンスして、また少し進める。尺取り虫のような、こういう緩慢な方法しか教育現場には許されないのです。それが政治や市場と全く違うところなんですが、この一番基本的なことがなかなかご理解頂けない。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;教育の目的は社会を支える成熟した公民を育てること。成熟した公民がいない社会では、ビジネスも政治も私利私欲にまみれた餓鬼の営みとなる。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;教育というのは我々のこの共同体の次世代の「フルメンバー」たりうる人を育成し、継続的に供給するためのものです。政治イデオロギーとも、金儲けとも関係ない。それ以前の話なんです。みなさんが楽しく政治やビジネスができるような社会のそもそもの基礎づくりとして学校は存在する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供たちは商品じゃないし、人材でもない。彼らは次代の我々の共同体のメンバーです。それを作り出さなければいけない。社会を担う成熟した公民をきちんと育成してゆかなければ、この共同体そのものが保たないから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;裁判が正邪の「裁き」を下すように、医療が「癒し」の機能を担うように、教育は「学び」の機能を担うものです。裁き、癒し、そして学び、これは人類が誕生したときから、その最初の人間集団から既に存在していたはずです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;裁きのシステムと医療のシステムと教育のシステムを持っていた集団は効果的にその成員たちを守ることができ、衣食住のような生活資源をフェアに分配できた。そういう集団だけが生き残り、裁きや癒しや学びのシステムを持たなかった集団は滅びていった。当然ですね。集団内部で正邪理非の判定が行われない、怪我しても病気をしても誰もケアしてくれない、大人たちは子供たちを放置して、生き延びるための技術も知識も教えない・・・そんな社会集団が存続できたはずがない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;制度資本というのは、そういう太古的なものなんです。代議制民主主義や資本主義ができるよりはるかに昔から存在した。だから、それに今の政治イデオロギーやビジネスモデルが適用できるはずがないんです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教育の目的は、ですから、そういう古代的な集団を思い浮かべればすぐ理解できるはずです。狩猟や採取で生きている集団なら、大人は子供たちに狩りの仕方を教える、食べられる植物と毒草や毒キノコの見分け方を教える、火の起こし方、道具の作り方、気象の見方、集団における正しいふるまい方を教えた。生きて行く上での基本的な技術を、ある程度の年齢になれば必ず年長者が組織的に子供たちに教えたはずなんです。子供たちに自分のたちが祖先から伝えられたものを継承しておかないと、その集団そのものが存続し得ないから。学校教育の機能もそれと同じです。集団そのものを存続させるための知恵と力を子供たちに授けること、これに尽くされる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学校教育の目的は、次世代においてこの集団を支える成熟した市民を一定数（全部とはいいません）、継続的に供給していくことです。それが教育の第一目的です。最初で最後の目的です。それ以外の目的は全て副次的なものに過ぎません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから、ある教育方法について、その適否を吟味する基準があるとすれば、それは提唱されたその教育方法に従った場合、子供たちの公民的成熟にどのようなプラス効果があるのか、それを見る以外にない。あなたが提唱されるその教育方法を適用すると、子供たちが成熟した市民に育つ上で、どのような効果が期待されるのか、その見通しをまずお聞かせ願いたい。そう問うべきだと僕は思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、今行われている教育についての議論の中で、「子供たちの公民的成熟に資するかどうか」という基準に基づいて教育実践の適否を論じる人はほとんどいない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は会場にメディアの方もいらしているので申し上げますが、教育について議論する新聞やテレビ番組が多く存在しますが、今のような基準から教育改革の適否を論じたメディアを見たことがない。こういうことをやると点数が上がる、偏差値が上がる、英語ができるようになる、読解力が上がる。たしかにそんな話はしている。きっとそれが教育の全部だと思っているんでしょう。でも、そんなものが一体何になるのか。そんなものを僕は教育の目的だとは思っていません。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;競争で無理やり学力テストの点数を上げても、子どもが自ら学び自分と周囲の人々を幸せにしようとする意欲と力がますます下がってしまっては本末転倒。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;今の日本の子供たちは劇的に学力が低下しています。それは僕も認めます。でも、その人たちの言っている「学力」と僕が言っている「学力」はたぶん全く別のことです。彼らが「学力」と読んでいるのは、単に成績のこと、点数のことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;確かに、そういう意味での学力も下がっている。これは事実です。絶対的な知識の学力は二〇年前に比べて確かに下がっています。予備校では同学齢集団に、毎年同時期に同じ難度の模試を受けさせます。偏差値は同学齢集団内部のポジションを示す数値ですから、それをみても「学力」の経年変化はわからないが、試験の素点を見れば絶対学力の変化がわかります。それによると、素点は毎年下がっている。20年前からずっと下がり続けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、問題はそのことではないんです。成績が下がっていることより「学ぶ力」が劣化していることが問題なんです。ふつう「学力」というのは点数のことです。数値で示されるものです。でも、そんなものでは学力の一部分しか測定できない。「学ぶ力」そのものは測定できない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学ぶ力とは何か。乾いたスポンジが水を吸うように、自分が有用だと思う知識や技術や情報をどんどん貪欲に吸い込んで、自分自身の生きる知恵と力を高めていって、共同体を支え得るだけの公民的成熟を果たすこと。それを「学ぶ力」という。僕はそう理解しています。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;人間の成長・成熟、つまり教育の効果とは、予測・計画できるものではない。予測し計画できる教育の結果ばかりを出そうとする者は、教育について根本的に錯誤をしている。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがない。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;教育の効果というのは事後的にしか分からない。ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかった。たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。その時点ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう非常にダイナミックなかたちで教育の価値、教育のアウトカムは現実化する。ですからもし教育に意味があるとすれば、それは教育を受けた人がそれによって成長したということです。成長しなければ、教育の意味は発見されないし、認知されないし、言葉にならない。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;教育は商品でない。ビジネス・市場のメタファーで教育を語ってはいけない。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;ですから、知識や技術で得る免状や資格といったものが、教育の目的だと考えるのは完全な誤解です。どうして、そんな誤りが起こるのか。それは、ビジネス・マインドで教育を考えるからです。教育を商品とみなしているからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供たちが五〇分間黙って授業を聞くとか、校則を守るとか、教師に対して恭順な態度を示すとか、そういうことは彼らにとって「苦役」だと考えられている。これが子供たちが学校に差し出す「代価」です。これだけの代価を払っているのだから、それにふさわしい商品を出せ、と。そういう「商取引」のスキームで今の子供たちは教育を見ています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際に、「子供たちは消費者です。彼らクライアントのニーズに見合うようなより質の高い教育商品教育サービスを提供するのが学校の使命です」と平然と言い放つ学校関係者がいます。メディアもそういう言葉を無批判に垂れ流している。教育とは商取引の一種である、というのが現在もっとも流布している教育についての誤解です。申し訳ないけれど、そういうことを言う人たちは、教育の本質を全く分かっていない。教育は商品ではありません。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;日本が国際社会で尊敬を受けていないのは金儲けが下手だからではない。成熟した大人がいないからだ。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;日本は世界三位の経済大国ですよ。これだけの経済大国でありながら、世界に対してなんら強い指南力を発揮できないでいる。国際社会で侮られている。それは事実です。でも、それは日本に「金がない」からじゃありません。軍事力がないからでもない。日本に大人がいないからです。国際社会の中の子供だと思われているからです。成功した他国のモデルをどうやって真似たらいいか、それをきょろきょろ探している。最小限の努力で最大限の利益を得るためにはどうしたらいいのか、そればかり考えている。国際社会における威信がそんなに「せこく」て、小利口なふるまい方をする国に寄せられるはずがないじゃないですか。国際社会から十分な敬意を寄せられたいと､本気で思うなら、二一世紀の国際社会を導くような骨太の、雄渾な、品格のある、「世界はかくあるべきだ」というヴィジョンを提示するしかない。国力というのは、そういうものじゃないんですか？マレーシアのマハティールだって、シンガポールのリー・クワン・ユーだって、小国の元首であるにもかかわらず、世界中がその言動に注目していた。経済力や軍事力のせいじゃないですよ。国際社会が傾聴するに足るだけの堂々たるヴィジョンを語ったからです。日本の総理大臣のステートメントに誰も耳を貸さないのは、中身がないからです。どうやったら儲かるのか、どうやったら「バスに乗り遅れずに済むか」というようなことだけ考えている人間の話を誰がまじめに聞きますか。&lt;/blockquote&gt;&lt;blockquote&gt;日本が国際社会で「負けて」いるのは、金儲けが下手だからじゃありません。国際社会を導いてゆくという気概がないからです。「バスに乗り遅れちゃいけない」というような言葉を政治家が口走るということは、自分でバスを設計して、路線を決め、運転し、乗る人を集めるという発想が彼らにはまったくないということを暴露している。すでに他人がルールを決めたゲームの中でどうやってうまく立ち回るかだけ考えている。そんな国の人間の話を誰が聞くものですか。誰がその指南力に服しようとするものですか。&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;これまでの新自由主義の歪みが、数々の金融危機や民衆デモで世界中で明らかになっている今、さらに新自由主義的に社会の連帯を破壊することは歴史の流れを読み違えている。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;これからはどうやって共同体を再生させてゆくか、乏しい資源をどうやってフェアにわかちあうか、競争的環境を抑制して、お互いに支援し合い、扶助し合うネットワークをどう構築するかということが喫緊の政治課題となる。そういう歴史的状況の大きな変化が始まっているんです。そんな歴史的激動のときに、「人参と鞭」のような古典的な道具を持ち出してきて、社会的連帯の解体を進めようとする歴史感覚の悪さに僕はつよい不安を感じるのです。&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教師の皆さん、保護者の皆さん、今学校で学ぶ生徒・学生の皆さん、教育の恩恵を受けるすべての皆さん、今一度教育について根源的に考えませんか。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-8771569351520137269?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/8771569351520137269/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=8771569351520137269&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8771569351520137269'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/8771569351520137269'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_24.html' title='内田樹氏による根本的な教育論が今重大な意味をもつ'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-2821816646805506247</id><published>2011-11-23T11:39:00.003+09:00</published><updated>2011-11-26T19:18:39.933+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;a href="http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20111121"&gt;松井孝志先生&lt;/a&gt;が事務局長を勤める&lt;a href="http://cho-shu-elt-2011.g.hatena.ne.jp/tmrowing/20110927"&gt;「第４回　山口県英語教育フォーラム」&lt;/a&gt;で佐藤綾子（さとう・りょうこ）先生と萩原一郎（はぎわら・いちろう）先生のお話を聞く機会に恵まれました。お二人のお話を聞いて感じたことをここに書きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは佐藤綾子先生から。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;佐藤先生は、「自然体」とことさらに表現することがおこがましいような自然体の先生でした。発問がすばらしく、これは生徒が先生を慕うだろうし、その中で生徒は自然と力をつけてくるだろうと思わざるを得ませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■発問の筋の良さ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発問というのは、下手をするとどうも理屈だけで考えたものになり、教師の意図が染みこんでしまった"loaded question"になったり、教師の解釈で学びをねじ曲げてしまうような"leading question"になります。ところが佐藤先生の発問は自然です。発問の内容も仕方も、無理がなく、このような発問には自然と人は心を寄せるだろうと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発問は内容だけでなく、仕方（口調なども含む問いかけ方）も重要ですから、佐藤先生の発問をここに文章だけで再現するのは不可能なのですが、発問の内容だけここに簡単に掲載します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば中学校1年生の次のような本文があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;Emi: Good morning.&lt;br /&gt;Ms. Green: Good morning.&lt;br /&gt;Emi: I'm Emi.&lt;br /&gt;Ms. Green: I'm Ann Green.&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本文を佐藤先生は「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返るために読む」ことに使います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで発問をしてゆき、さらに&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;I'm Shinnosuke.　&lt;br /&gt;I'm Giant.　&lt;br /&gt;I'm Norimaki Arare.　&lt;br /&gt;I'm a cat.　&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;といった例文を追加し、強引に教師の意図に生徒を強引に連れ込むのではなく、自然と生徒の気づきを促してゆきます（皆さんでしたら、上の英文でどう発問をしますか？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;佐藤先生の場合では、生徒は&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;・日本語には自分を表す言葉がたくさんある。&lt;br /&gt;・だれが・だれに・どんな場面でが大切&lt;br /&gt;・省略しても意味が通じる&lt;br /&gt;・一つの単語に一つの意味ではない。&lt;br /&gt;・記号が違う（句読点とピリオド）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことなどに気づき、「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返る」ことができるようになっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは同じく中学校一年生の次の本文では、きちんと音読させる指示で「書き手の意図を読むために音読する授業」を成立させます。以下の本文は折り紙を見ながらの対話です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;Mike: What's this?&lt;br /&gt;Judy: I don't know.  Is it an animal?&lt;br /&gt;Mike: Yes, it is.  It's a rabbit.&lt;br /&gt;Judy: Really?&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;佐藤先生は「具体的な状況をイメージしないとどう音読すればよいか決められない」と言います。上のように簡単な英文であればあるほど、このことは当てはまります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが昨今の英語教育系は音読といえばとかく「トレーニング系」の音読ばかりが流行し、書き手のメッセージ（意図・場面・状況など）をリアルに思い描くための手段としての音読、話し手の思いを伝えうとすることにより読解が深まる音読が、おろそかになってしまっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;極端な言い方をすれば、上記の英文を、MikeとJudyの気持が手に取るようにわかるように音読できる英語教師はどれぐらいいるでしょう。これは正確な発音とは別の、しかしおそらくはそれよりも重要な問題です。佐藤先生はこの大切なことを見失わない言語的感性が鋭敏です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;二年生の英文では、「言葉のはたらきに気づくことで書き手の感動を読む授業」を目指します。例えば次の英文のうち、一文だけを取り上げて発問するとすれば皆さんでしたらどの文を選びますか。そしてそれをどのような問いで、どのような問いかけ方で生徒に働きかけますか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;I enjoyed "Baseball Dogs" very much.  Rio jumped into the water and brought a baseball back to the boat.  Rio looked really happy.  I didn't know about BARK before.  It's a team of dogs like Rio.  They were once street dogs, but they practiced hard and learned a lot.  Now they have their own home and a job.&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;佐藤先生は、ある箇所の問いから、生徒にこの書き手の心を読み解くための気づきを生み出し、さらにそこから自然に発問を展開させる中で、生徒に他の箇所にも書き手の心がどのように表現されているかを次々に気づかせてゆきます。これも見事でした（こういった発問がマニュアル化することを防ぐため、ここでは発問の箇所も伏せます。皆さんならどこの箇所を、どのように問いかけますか　―　もちろん問いも問いかけ方も一つは限りませんし、何より生徒の反応により発問の発展は異なるものですが　―）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■自然な感性がものさし&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように発問があまりにも見事　―　というよりも自然　―　なので、私は質疑応答の時に真っ先に手を上げて、多くの英語教師が、Teaching Manualや各種理論に振り回されて妙な発問ばかりをつくりあげてしまうのに、どうしてそのように筋の良い発問ができるのか・展開できるのか、と問いました。秘密を知りたかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが答えはこちらが拍子抜けしてしまうほどにあっさりとしたものでした。「発問は私一人で考えたものというより、同僚の先生方に聞いたりするうちに、自然とできあがってくるものです」　―　この言葉を佐藤先生は、おそらくは謙遜や照れでなく率直な気持でさらりとおっしゃいました。これがすごい。私が冒頭で、「『自然体』とことさらに表現することがおこがましいような自然体」と申し上げたのはこういった事態をさしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかすると佐藤先生は、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post.html"&gt;『千と千尋の神隠し』の千尋&lt;/a&gt;のように、自然と人々が心を寄せるような自然な感性を失っていないのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■鏡に姿を映すような自己認識&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が佐藤先生とは今回お会いしただけなのに、上記のような佐藤先生の感性についてのことを申し上げますのも、佐藤先生がご自身「教師年表を作ってみませんか」と提唱する中で披露したエピソードに、先生の感性のあり方が示されていたように思えるからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば、新任1-4年目の時機を振り返り、佐藤先生はそれを「勘違いの時期」と呼びます。その頃は「先生」と呼ばれるだけで嬉しく、せいぜい有名な先生のいいとこ取りをパッチワークで行うだけだったそうです。その頃の自分を佐藤先生は「こういう授業をしたい、とは思っても、こういう生徒を育てたいという願いがなかった」と振り返ります。そしておっしゃったのが「遠くの有名な先生ではなく、身近な同僚の先生に相談すべきだった」と言うことです。この台詞も私は深いと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中、佐藤先生はある時にある人に「よくそんな英語力で教師になりましたね」と言われたそうです。ところが佐藤先生はその台詞に反発することなく、「英語学習者の一人として教壇に立つこと」の重要性に開眼します。この素直さがすばらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらにある授業では、「誘いを断る英文を書きなさい」という指示で、多くの生徒が模範解答の"I have a lot of things to do".などと書く中で、ある生徒は「アイビジー」とbe動詞なしでしかもカタカナで書きます。これを見た佐藤先生は「これでいい。むしろ発想が素晴らしい。こんな発想ができる生徒を育てたい」と思ったそうです。この感性が素晴らしいと、感性の濁った私などは驚嘆してしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とっておきのエピソードは、佐藤先生がある難聴の生徒に対応するために、パワーポイントスライドだけで、ほとんど英語の授業ができるようにした時期のことです。そのスライドの一部は講演会でも公開されましたが、そこでは「Be動詞はジャイアン、一般動詞はのび太。共に登場することはないが、（進行形などの時に）共に登場するとジャイアンがのび太に命令して、のび太の形を変えさせる」、「ジャイアンは強いから自分一人だけで疑問文を作れるが、のび太は弱いから疑問文をつくる時にドラえもん（Do）の助けが必要」などと見事なものでした（これこそ学習英文法！？）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてスライドを充実させてゆく中、ある時に佐藤先生は出張しなければならなくなり、ある先生に授業代行を頼むことになります。その先生に、「これだけで授業はできますから」とスライドファイルを渡した瞬間に、佐藤先生は、「自分はこれだけの教師だけでしかない。生徒とのインタラクションもない教師に過ぎない」と直覚したそうです。「また勘違いをしていた」と瞬時に自覚したそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここも素晴らしい。私なら他人にスライドを渡すだけで授業ができるようにまで準備した自分に驕り慢心してしまいそうなところを、佐藤先生は、他人に指摘されることもなく、自ら、直観的に自己像を得ます。これがすごい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間が自己を理解することは困難です。私などの人間は、まるで粘土で像を作り上げるようにやたらとこねくりまわして、いつのまにか「こうであってはならない。こうならなくては」と自己像から離れた虚像を作り上げ、それをもって自己像だと錯誤してしまいます。他の人は、油絵を重ね塗りするように、何度も描き足し描き足し迷ってしまうかもしれません。人によっては、さらさらと鉛筆書きするように少ないタッチで自分の本質を描くかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも私が佐藤先生の中に見たと信じているような人は、鏡が像を映すように自己像を得ます。そこには言葉も意識もなく、ただ前に立った者の姿が映るだけです。そんな自然な感性は、対人の仕事である教師にとって本質的な重要性をもつことではないかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかくいいお話を聞けました。皆さんの周囲にも佐藤先生のように派手さはないかもしれませんが、自然と場を良いものにしてくれる感性の持ち主である同僚がいらっしゃるかもしれません。私たちはそんな同僚にこそ学ぶべきなのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;追記&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;間違いを恐れ上記の原稿を佐藤先生に事前にチェックしてもらいましたが（私はある方のことを書く時には、できるだけ事前にその方に原稿を見てもらうようにしています）、佐藤先生からは以下のようなお返事をいただきました。一部ですが、そのまま掲載することとします（この掲載についても許可を得ております）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;たくさんプラスに分析していただいてありがとうございます。誰のことだろう？？？と思えるくらい美化されているような。私は本当にだめなところがたくさんあって、多くの先生方との関わりの中で育てていただいたことの方がずっとずっと多く、「自分一人で授業を作れる」なんて変な自信をもってしまうことの愚かさを日々感じています。その辺りを加筆していただけるとありがたいです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;文字にすると実際よりも大きく見えてしまう怖さを感じつつ、さらに精進しなくては。。。と気を引き締めて頑張ります。先日の発表が、「あ～、またまた勘違い！」と思える日が来るのを楽しみにしつつ、実践を重ねていきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さとうりょうこ&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次に萩原一郎先生についてです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;萩原先生のご発表は先生の30年近くの高校実践をまとめたものでしたので盛りだくさんでした。発表資料も大部にわたるものでしたので、ここでは特に印象的だったことだけを書きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■教師は価値判断抜きに生徒の応答を観察すべき&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生徒は時に英語を次のように理解します。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;Love begins at home&lt;br /&gt;⇒家を愛し始める&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;It is only a drop in the ocean.&lt;br /&gt;⇒海に落ちた&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;can't&lt;br /&gt;⇒can it （「それができる」の縮約形）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは次のような英文を書きます。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;grandmother made accessory a lot of bought.  （沖縄修学旅行レポートより）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった応答に対して「違うだろう、駄目じゃないか」と叱責することは誰でもできること（そして言っても詮無いこと）でしょうから、教育のプロとしての教師は、ここから生徒の理解の様子を分析するべきでしょう。ちょうど優れた医者が患者を観て「駄目じゃないか、こんな病気になって」などと言っても無用のことを言わずに、何がこのような症状を引き起こしているかを静かに推定するように。温かい表情で語る萩原先生も、「仁術」として授業を行なっているように思えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■まずは単語を音読できるように丁寧に指導する&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語の基礎訓練の一つは音読ですが、音読もそれぞれの単語が楽に読めないと、とても英語力をつける訓練にはなりません。しかしおそらくは言語の才能を平均以上に持つ英語教師は、英単語を読めることを当然に思い、単語が読めない生徒に寄り添うことを怠ってしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;萩原先生は、単語の読み方（つまりはフォニックス）も丁寧に行います。生徒がある単語を読めないことがわかると、すぐさまに生徒が読める既修単語を引き出し、そこから分析的な類推で読めない単語を読めるようにします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのようにすぐにフォニックス指導ができる一つの要因は、萩原先生が&lt;b&gt;教科書の本文を、すべて一つのファイルに入力している&lt;/b&gt;ことに求められるでしょう。教科書全文が一つのファイルに入っていますから、例えば"ur"を検索すればその綴りを含む単語がすぐに取り出せます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当たり前のようでいてとても便利な工夫です。一人で入力してもいいですが、他の教師と協力して入力して（教室内での利用および私的利用のみに限定して）ファイルを共有すれば何かと使い勝手のよいファイルとなるでしょう。丁寧に指導するにせよ、できるだけ仕事を合理化することが重要かと改めて思わされました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■適宜、日本語で自分の思いを表現させることで、かえって英語を印象づける&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;萩原先生は、英語による自己表現を重視しています。しかし生徒の思いすべてを英語で表現させようとすることは、多くの生徒にとって負担が大きすぎます。そこで萩原先生がとっている手段は、一文だけ英語で表現させて、その英文に込めた思いは日本語で書かせる方法です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば「"I will not forget the day when ..."で『自分の忘れられない思い出』を書く」という課題では、生徒は"I will not forget the day when my sister was born", "I will not forget the day when my grandmother died", "I will not forget the day when I retired from club activities."といった英文を書きます。それぞれの生徒はその自分の英文に数行の日本語を付け加え、その英文に込めた思いや背景事情を、英語では表現できない精度で説明します。この追加で、英語も、書いた当人だけでなく読む他の生徒にとっても印象深いものになるかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして山口県英語教育フォーラムでは、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_22.html"&gt;組田先生&lt;/a&gt;、佐藤先生、萩原先生の話を連続して聞くことができましたが、その三人で共通していることは、肩肘張らずに生徒の心に寄り添い、生徒の心を理解していることでした。教育方法・技術はすべてその理解に基づいて行われているようにも思えます。決して「最初に方法・技術ありき」ではないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教師という職業においても、要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか、が問われているのかと思いました。四角四面の理屈で他人の心をつぶしがちな私としては大いに反省させられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように豊かな学びの機会を主催してくださった、松井先生を始めとした「長州英語指導研究会」の皆さんと、協賛してくださった&lt;a href="http://www.y-kojohs.jp/framepage1.htm"&gt;山口県鴻城高等学校&lt;/a&gt;様と&lt;a href="http://www.benesse.co.jp/"&gt;ベネッセコーポレーション&lt;/a&gt;様には心から感謝します。ありがとうございました。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-2821816646805506247?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/2821816646805506247/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=2821816646805506247&amp;isPopup=true' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/2821816646805506247'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/2821816646805506247'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html' title='佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-7657729004153080299</id><published>2011-11-22T09:17:00.007+09:00</published><updated>2011-11-23T11:57:46.207+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='随想'/><title type='text'>組田幸一郎先生の講演を聞いて</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;組田幸一郎先生の話を、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/10/111718.html"&gt;広島大学&lt;/a&gt;と&lt;a href="http://cho-shu-elt-2011.g.hatena.ne.jp/tmrowing/20110927"&gt;山口県英語教育フォーラム&lt;/a&gt;で聞くことができました。よかった。とてもよかった。私はこの二つの機会で4時間以上話を聞き、その前後の機会にもいろいろと組田先生の話を聞いたのですが、非常にためになりました。可能なら、二、三日かけて集中講義の形で聞きたかったです。参加者の反応も非常によかったです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;組田先生は、日頃は見捨てられ話題にされにくいトピックを扱っています。それは英語ができないままに進学してしまった生徒たちです。挫折感や劣等感に苛まされ、その上（私のように）そういった事情をきちんと理解していない教師に、言う方には悪意はなくとも聞く方からすれば自分の存在をまるごと否定されるような言葉をかけられてしまう生徒たちです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういったリメディアル英語教育について組田先生は、ひつじ書房の&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476542X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476542X"&gt;『成長する英語教師をめざして   新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476542X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;でもかなり書いてくださっていますが、もちろんこのトピックはそれだけでは終わりません。今回の話は、この本を共に編集した私にとっても非常にためになるものでしたから、リメディアル英語教育についてほとんど何も知らない学生たちには、またとない学習機会になったことと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教員になる人はほとんどの場合、露骨な言い方をしますなら、大学を出るだけの所与条件（家庭状況や知能指数など）に恵まれています。ですから、経済的にも認知的にも進学なんてまるで考えられない生徒の状況はなかなか理解できません。状況理解も難しいわけですから、心理的な共感はさらに困難です。そのような理解不足の中で、新任教師が、指導にとって最も重要な最初の数週間・数ヶ月を混乱したまま過ごすことは、その教師だけでなく、生徒にとっても、さらにはその生徒の保護者にとっても、いや誰にとっても幸福なことではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただこのリメディアル教育というのは、語りにくいトピックです。私は先ほどから「教育困難校」という表現を使ったものか、それとも使わずに済ませられるかと呻吟しながら文章を書いていますが、世の中にはさらに差別的な「底辺校」と言った表現すらあります。私たちのものさしを学力試験の偏差値から人間的成熟に変えるなら、「教育困難」や「底辺」といった言葉の使い方も変わってくるかと思うのですが、学力試験的学力観に偏った現代社会は、理の当然として存在する偏差値の「下半分」の学校に、とかく不名誉な烙印を押し、その学校の生徒と教師のやる気をそごうとしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回、組田先生がお話下さった内容は、組田先生に改めて（できれば書籍の形で）文章化していただければ嬉しいと勝手ながら願っています。この話題は丁寧に、そして具体的に書かなければならないからです。これは私がまだ一人で考えているだけのことですが、私は可能なら、大学進学をしないことが当然視されている高校での英語教育についての本を編集して出版したく思っています。大学進学や学習指導要領などのタテマエが通じない現場でこそ、英語教育と英語教師の真価が問われるからです。そのような現場で、世間からの脚光もほとんど浴びることなく、知恵と努力と使命感ですばらしい実践をなさっている先生方の存在を私は承知しております。そのような現場に、その現場が当然受けるべき光を導きたく思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語教育も、日頃は成績上位の「エリート」ばかりに注目しがちです。しかし日本の真価はエリートよりも庶民にあります。3.11以降に改めて明らかになったことは、日本のエリートが存外に無能である一方（&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/04/1.html"&gt;過去記事：「日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。（その1：日本の「偉い人」）」）など今年4月5月の記事をお読みいただけたら幸いです&lt;/a&gt;）、被災地の「庶民」が見せた助け合いの心・我慢強さ・しなやかさ・回復力などは驚くべきのであったことです。諸外国メディアが、被災者の態度に感銘を受けたことは記憶に新しいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本は、「庶民」の品位と教養が高いことをその国力の源泉としています。「庶民」が、利己主義の亡者でなく、他人を思いやる心を有していることが、近世以来諸外国の人々を驚かせていることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしその日本の国力とて未来永劫続くとは限りません。もし日本のエリートがこれ以上利己主義の亡者になり、「自己責任」や「競争原理」といった言葉を乱用し、人々を次々に切り捨て、一部の者だけが利権を恒常的に貪るような体制づくりをさらに進めていくなら、私たちは他人を思いやることではなく、他人を上手に見捨て切り捨てることこそが「学び」と錯誤するようになるかもしれません。古今東西の賢人がそろって戒めている我欲・我執がますますはびこり、日本の庶民の品位と教養も失われてゆくかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学校の勉強が得意な者がいれば、不得意な者もいる。これは理の当然です。しかし、学校の勉強が人生や社会のすべてではない。だから学校の勉強ができない者も、自らの人生を幸福にし、その周りの仲間・共同体・社会を共に豊かなものにできるようなやり方で、きちんとした教育を受ける権利を有します。「すべて国民は、個人として尊重され」（日本国憲法第13条）、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し（同25条）、「法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」（同26条）ことこそが、「この国のかたち」(constitution)です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ごめんなさい。私の悪い癖で熱くなりすぎました。社会正義を語ろうとする者は、自らの中に「正義」という名のもとに結集してしまったものの凶々しさを十二分に自覚しておかないと、やがては自他を破壊してしまうのかもしれません。私たちは「正義」を忘れるわけにはいきませんが、他方「正義」ほどに恐ろしいものはないことは、歴史や文学が明らかにしている通りです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この点、組田先生は、まるでジョージ秋山の漫画&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E6%B5%AA%E9%9B%B2"&gt;『浮浪雲』&lt;/a&gt;の主人公のように飄々とリメディアル英語教育を語りました（ちなみに組田先生を理解するためには、講演会だけでなく懇親会にも行く必要があることは一部関係者が激しく頷くところです（笑）。懇親会で示すような組田先生がなければ、組田先生も自らの正義に絡め取られてしまうのかもしれません（注1））。あるいは（格闘技に興味ない人ごめんなさい）、組田先生のスタイルはロシア武術の&lt;a href="http://www.systemajapan.jp/index.php/japanese/?phpMyAdmin=8OLq8ZLdy74Jkl3qwIP8Bu0RlQ4"&gt;システマ&lt;/a&gt;にも似ています（注2）。力みのない自然体だから、俗世間の考えで固まってしまった私達からすれば、驚くほかないほど理にかなった動きが出てきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0lnczb3nS_E" frameborder="0" allowfullscreen=""&gt;&lt;/iframe&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下は、私なりに感じたことの駄文です。本格的な文章は、特に英語指導の具体的なあり方については、上にも書きましたように、できたら組田先生の出版物に待ちたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■「正論」の怖さ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教師はついつい「正論」を語ります。しかも問題を抱えている生徒や保護者当人に対して。あたかもその当人が問題を理解していないように。そんな「正論」は当人にとって責めの言葉にしか聞こえません。だから当人は心を閉ざしてしまいます。時に敵対しようとします。そうすると教師は、「正論」を聞く耳持たないとは信じられないとばかりに、当人をますます否定的に扱います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは、私もしばしばやっていることです。お恥ずかしい限り。自分が未成熟だから、他人の欠点を受け入れられないのでしょう。あるいは自分が不安だから、他人を見下すことで精神の安定を得ようとしているのでしょうか。いや、自分の心身が焦燥しているから、そのイライラを他人にぶつけているだけなのかもしれません。いずれにせよ、これでは教師失格です。正論を言わなければならない教師こそ、正論の語り方、あるいは正論についての沈黙の守り方を学ばなければなりません。組田先生のエピソード（成功、そして失敗）は「正論」のあり方についていろいろと考えさせてくれるものでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■スローガンはいつ唱えられるのか&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正論と重なるのがスローガンです。無能な人は管理階層の上に行けば行くほど、他人にスローガンを押し付けるようになります。もちろん、私達が五里霧中の状態にある時には、進むべき方向を簡明に示すスローガンは必要ですし有効です。ですが、私達は他人を管理する立場になると、必要以上にスローガンを乱用しようとします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正論と同様、スローガンもひょっとしたら管理者の焦りであり不安なのかもしれません。青筋を立ててスローガンを連呼する人がいたら、気をつけましょう。私たちはその人がスローガンを連呼しなければならない社会構造を理解しようと努力しつつ、その社会構造が生み出す歪みを警戒し、冷静に社会構造の修正と改革を考えるべきでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;社会構造あっての人間ではなく、人間あっての社会構造です。高度に複合化した現代社会で、全面的改革は不可能ですし、そのような試みはかえって悲劇を招くだけです。しかし、私達にやれることは、スローガンを連呼せざるを得ない人の歪みを敏感に察知し、そのような焦燥に静かに首を横に振ることです。一人の否定はわずかなものですが、多くの人々がそれぞれの機会にそれぞれのやり方で否定を重ねれば、それは確かな力になるはずです。スローガンの硬直した連呼には、力みのない静かな否定で応えたく思えます（無論、多くの人の否定にもかかわらず権力者が横暴を止めないなら、私たちは静かに次々と立ち上がるべきですが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■技法と心法&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;組田先生はさまざまなエピソードを紹介しながら「技術や理論が完璧だったら魂が揺さぶられるか」、「どうして英語教育では技術の話題が多くなってしまったのだろうか」と問いかけます。多くの英語教師は、大学受験や標準テストの数値、あるいは「英語ぐらいできないと・・・」といった自分でもきちんと検討したわけではない通俗的なスローガンや学習指導要領の片言隻句によって、いつのまにか自分が教師になった初心を忘れ、目の前の生徒の姿を正面から見ることを怠ってしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある教育技術に心酔しはじめた英語教師は、技術だけを独立して語る不毛な技術論ばかりをネットや授業研究会や学会で重ねます。技術は、もちろんのこと、教師・生徒・学級のキャラクターや能力、発達段階や機運、そして何より教師の願い・哲学によって毒にも薬にもなります。そういった要素を「ノイズ」として切り捨てる研究は、数千・数万人対象のマクロな調査ならともかくも、数十人対象のミクロな調査では、何とも結論を出し難いものにすぎません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし多くの英語教育関係者は、そのようなミクロな調査の結果だけをもって（時にはそういった調査なしの思い込みだけで）ある技術の卓越性を信じて疑わず、それを他人・他校に普及させようと、（言葉の悪い意味での）「宗教」的態度に堕してしまいます。そんな現状を踏まえて組田先生は、「技術を捨てる勇気も大切なのではないだろうか」と問いかけます。極論を言えば「ベースに生徒の成長を思う気持ちがあれば、どんな方法だって生徒にはプラスになる」からです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「心」を忘れた技術論は不毛、時に有害、と言えましょうが、これが芸道で世界を驚嘆させた国で流行していることも皮肉なことです。いや、近世までの日本を否定しかねない勢いで西洋化を推進してきた英語教師の末裔だからこそ、私たちは心なき技術論に絡め取られてしまっているのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;古来、日本は芸道の学びにおいて技法（技術論）と心法（心のあり方）を、表裏一体、不可分なものとして統一的に扱ってきました。武術にしても、ほんのわずかにしか学んでいない私のような半端者にすら、心法なしに決して技法は修得できないことが身をもってわかります（このあたりを最もよく伝えている流派が、&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_8523.html"&gt;前のエッセイで軽くふれた柳生新陰流&lt;/a&gt;かもしれません（注3））。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「近代化」されすぎてしまい、「ポスト近代」の視点で自らを振り返らない現代の私たちは、「技術だけでは駄目で心が大切だ」と言われれば、「ハイハイ、おっしゃる通り、心は大切ですよね」と表面だけは頷きつつも、技術（技法）は心（心法）と相即し不可分であることが理解できず、せいぜい技術論とは離れ独立した形で道徳的なお説教を聞こうとするだけです。そうではなく技法と心法が密接に具体的に融合している身心の文化こそが、西洋人を驚かせた近世日本人の文化であるわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;短兵急で一面的な西洋化・近代化は、時代のなさしめるところであったにせよ、21世紀の私たちは、日本文化が本来有していた近代以前のよさを思い出し、それを近代的に分析して、その前-近代的文化を西洋的近代に注入し、近代的な身心のあり方を内側から作り変えることができるのではないでしょうか。日本という国で英語教師をやっている私にとって、こういう課題は世界史的課題であるとさえ思えてきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と私の悪癖の熱くなる癖は暴走し、中2病まで再発症してしまいましたが（爆）、組田先生は、このあたりも「教える技術と心をつかむ技術は共通しているところが多い」とあっさりとおっしゃっています。私のような人間では、『浮浪雲』の青田先生よろしく四角四面にしか語れないところを、組田先生は飄々と語っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかしたらその話し方こそが私達が身につけるべきことなのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⇒組田幸一郎先生ブログ「&lt;a href="http://rintaro.way-nifty.com/"&gt;英語教育にもの申す&lt;/a&gt;」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⇒組田幸一郎先生のエッセイも含む&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476542X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476542X"&gt;『成長する英語教師をめざして　　新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476542X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border-top-style: none !important; border-right-style: none !important; border-bottom-style: none !important; border-left-style: none !important; border-width: initial !important; border-color: initial !important; margin-top: 0px !important; margin-right: 0px !important; margin-bottom: 0px !important; margin-left: 0px !important; " /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注1）にしてもさ・・・（爆）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注2）これも褒めすぎ（笑）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注3）ウェブで入手できる資料としては、加藤純一先生による「柳生新陰流の総合的研究 : 心法と技法の統一を中心として」（筑波大学博士 (体育科学) 学位論文・平成11年3月25日授与 (乙第1527号)）があります。私も先ほど見つけて、まだ最初の部分しか読んでいませんが、備忘のためここにURLを記しておきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/6564"&gt;http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/6564&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-7657729004153080299?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/7657729004153080299/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=7657729004153080299&amp;isPopup=true' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/7657729004153080299'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/7657729004153080299'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_22.html' title='組田幸一郎先生の講演を聞いて'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://img.youtube.com/vi/0lnczb3nS_E/default.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-5155033712326491834</id><published>2011-11-13T22:56:00.004+09:00</published><updated>2011-11-15T17:40:50.286+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='読書'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武術'/><title type='text'>多田容子『新陰流サムライ仕事術』『自分を生かす古武術の心得』</title><content type='html'>風邪からの回復期に、軽い読み物をと思って読んだこの二冊は予想以上に面白いものでした。面白い点を語り始めるときりがないので、ここでは私の稼業である学校教育に関連していることについてのみ述べます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学校を卒業する時に、生徒・学生は「自律的学習者」となっていなければならない、というのは最近の流行り言葉である。だが&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/489476539X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=489476539X"&gt;『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=489476539X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;の書評（大修館書店『英語教育2011年11月号』）でも書かせてもらったように、「自律的学習者」とは孤立した学習者ではない。自らを対象化しつつも、周りの人々や環境とうまく相互作用を引き起こすことができるのが「自律的学習者」だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;社会では、「孤立的学習者」の秀才は大成できない。孤立的学習者の秀才は、一人で受験する試験で優秀な成績を収めるが、それは学校で必要なものをお膳立てされた上でのことであるに過ぎない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし社会での学びは、学校での学びと異なる。&lt;a href="http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/04/blog-post_13.html"&gt;「考える・調べる・尋ねる」&lt;/a&gt;でも書いたように、社会では働くことが本業であり、学ぶことを専門的に支援してくれる教師は基本的にはいない。社会人は自ら学ばなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが自ら学ぶといっても、一人でやれることは限られてくる。やはり先輩・経験者から教えてもらいたい。師を見つけて教えを受けられれば最高なのだが・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし社会の先達は、職業的な教師ではない。先達も自分の仕事に忙しく、学校教師のように懇切丁寧に新人に教える暇など見いだせない。そもそも（特別に指導役を命ぜられていない限り）社会人に新人を教える義理も責任もない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だが先達も鬼でも不人情でもない。自分自身も苦労してきたのだし、人間には社会的な協力心が備わっているのだから、新人を助けたい気持はある。だが、すべての新人に一から十まで教える時間はない。自ずと「見込みのある奴」だけが選ばれることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このあたりの事情を『新陰流サムライ仕事術』は次のように記述する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;本当に全部、というか仕事の奥の奥まで理解する人なんて稀だ。昔の人はそれを知ってて、全員にカリカリ教えたりはしなかった。よく弟子を見ながら、その時に必要なことを説いていく。素質があって、技を盗む目もあって、やる気もあって、技を得ても謙虚で、その技をいい形で使える徳もある・・・そういう人を選ぶのさ。選ぶというか、そういう総合的に&lt;b&gt;心ある人物&lt;/b&gt;にしか、教えても全体が理解、体得できねぇんだと思う。(159-160ページ）&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近は、一般社会の会社でも、どんどんとマニュアル主義がはびこって、マニュアルを配り、チェックリストに回答させたらそれで社員教育は終わりで、それで仕事を失敗したら後はその社員の「自己責任」といった嫌な風潮が蔓延しているようにも思えるけれど、本当に生産性の高い会社では、上記の引用な形で学びがなされているのではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうなると社会での学びというのは、周りの先輩に思わず「教えたい」という気持を誘発することを本質の一つとしているのかもしれない。気持を誘発といっても、それはおべっかやらおべんちゃらによるものではない。真摯な探究心、筋の良い問い、我欲のない行動・・・そういった姿勢が、周りの気持をほぐし、周りの自然な協力心を引き出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;社会での学びとは、場を活性化する能力、だと一般化できるかもしれない。新人が、拙き者が、その場に素直な気持をもたらし、場が生命力を取り戻すからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように社会での学びを「場を活性化する能力」とするなら、今の学校は、卒業するまでに生徒・学生にそのような能力を育んでいるのだろうか、という疑問が生じてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;悲観的にいうなら、指示されなければ1ミリたりとも動かないように甘やかされ、褒めてもらえなければ不貞腐れ叱られればハラスメントだと憤慨し、獲得した知識・技能は自分の権益のためだけにしか使わず、共同体や社会のことなどほとんど考えないような学習者を現代の学校は構造的に生み出す傾向にないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;各教科の先生は「説明責任」を果たしているという「エビデンス」を得るため、標準化されたテストの点数を上げることに専念する。得点向上のため、すべてをお膳立てする。部活や学校行事などの共同作業は、個人受験のテストには直接的には役に立たないのだから、そういった課外活動はせいぜい息抜きのためにやらせておくに留める・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしそのような教師が教育政策に後押しされますます増えるなら、日本の学校は社会で学ぶのが下手な若者ばかり輩出するだろう。それが日本社会の衰退につながることは言うまでもない。「いや、エビデンスをご覧ください。成果は上げたのです」と教育行政は言うかもしれない。ちょうどブラック・ジョークで医者が「手術は成功しました。患者はお亡くなりになりましたが」と言うように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;***&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;うーん、どうも自分の中に滞りがあり、うまく書けない。でもまあ、私の駄文はさておき、この多田氏の本は、私達の近現代的な凝り固まった心を軽くほぐしてくれます。語り口は軽妙で読みやすい。まあ、次のような言葉の意味がわかるだけでもいいとは思いませんか？（引用は私が勝手に現代仮名遣いに変えています）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div align="center"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勝たんと一筋に思う、病なり。・・・&lt;br /&gt;病を去らんと一筋に思ひ固まるも病なり。&lt;br /&gt;何事も心の一筋に留まりたるを病とするなり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;病気にまかせて、病気のうちに交りて居るが、病気を去ったるなり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本心と申すは、一所に留まらず、全身全体に延び広がりたる心にて候う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幾千万の工夫をめぐらして、剛を父とし、弱を母とする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;行住坐臥、語裡黙裡、茶裡飯裡、工夫を怠らず。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一眼ニ足三丹四力&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4838719981/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4838719981"&gt;⇒『新陰流 サムライ仕事術』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4838719981" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087204294/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;amp;tag=allmor22-22&amp;amp;linkCode=as2&amp;amp;camp=247&amp;amp;creative=7399&amp;amp;creativeASIN=4087204294"&gt;⇒『自分を生かす古武術の心得』&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=allmor22-22&amp;amp;l=as2&amp;amp;o=9&amp;amp;a=4087204294" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/8438123205528217340-5155033712326491834?l=yanaseyosuke.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/feeds/5155033712326491834/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8438123205528217340&amp;postID=5155033712326491834&amp;isPopup=true' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5155033712326491834'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/8438123205528217340/posts/default/5155033712326491834'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_8523.html' title='多田容子『新陰流サムライ仕事術』『自分を生かす古武術の心得』'/><author><name>柳瀬陽介</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://4.bp.blogspot.com/_8fmjSzPcYfM/S-rR-yFIESI/AAAAAAAAAAY/E7z1gH_DrrE/S220/Y-Harlow+Solid+Italic-White.jpg'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-1686900094963716317</id><published>2011-11-13T22:54:00.002+09:00</published><updated>2011-11-14T10:06:02.788+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='武術'/><title type='text'>二つの武術セミナー</title><content type='html'>立て続けに二つの武術セミナーに参加しました。単なる武術ヲタで、実際には何もできないに等しい私としては、私ができない技術について色々書くことは避け、その時私が（一知半解のまま）考えたことをここに書いておきます。こうして書いておけば後年私が読んで、自分がいかに愚かであったかを思い知ることができるでしょうから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;■刹那を無窮に生きる&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;武術の技は、決まる時には刹那の瞬間に決まります。しかしそれではその刹那の瞬間だけが良ければいいのかと言えば、そうではなく、その刹那の瞬間の前も後も重要です。言うまでもなく前が駄目なら刹那の技も出せず、後が駄目なら技が決まった直後に他の相手から攻撃を受けてしまうかもしれないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから、技に至るまでも間断がなく、技が刹那の瞬間に完結した後も、動きの均衡は連綿と展開していなければ
