2017年3月22日水曜日

フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来



この記事は「広大教英ブログ」にも掲載されています。


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以下はフィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学した経験をもつ学部生のYK君が書いてくれたレポートです。フィリピンの言語教育の現状から、日本の英語教育(過剰な英語志向)について考えようとしたものです。

フィリピンでは、多くの人々にとっての「母語」(現地語)は学術活動や経済活動や政治活動などを担えるだけの「力」をもっていないので、「国語」としてフィリピン語が教えられると同時に「公用語」として英語が教えられています。ですが、言語のもつ「力」としては「国語」としてのフィリピン語よりも「公用語」としての英語の方が圧倒的に強いようです(あるいはそうならざるを得ないような歴史をフィリピンは有しているというべきでしょうか)。

そんなフィリピンの状況から今後の日本の英語教育がとりうるかもしれない一つの可能性について考えた文章です。「一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません」というのはYK君が言うとおりですが、英語教育熱について考えるための一つの視点を提供する文章として読めば面白いのではないでしょうか。

以下、「母語」(200近くの現地語、あるいは家庭内で使われている言語)、「国語」(フィリピン語)、「公用語」(英語)の違いを頭に入れた上でお読みいただければと思います。

なお、下の文章には趣旨を変えない微細な字句修正を私が若干していることを申し添えておきます。




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フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来


0. はじめに

 「コミュニケーション能力と英語教育」最終提出課題は,今までの授業で習ったことの総復習として行うのが主な目的であるが,今回は範囲を絞り,特に授業終盤で取り扱っていた母国語と英語教育の関係に焦点を当てていく。フィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学し,今の日本の英語教育の方向と過去のフィリピンで行われてきていた英語教育の趨勢との相似点がたくさん見られることに気づいた。そこで,この課題ではフィリピンで行われてきた言語教育について紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点などを踏まえて今後の英語教育はどうなっていくのかについて考察する。


1. フィリピンの言語教育

 フィリピンの歴史はそのほとんどが植民地支配の歴史といっても過言ではありません。今のフィリピンの中高生の歴史の授業では,なんと16世紀ごろから学び始めるとのことで,つまりそれはマゼラン率いるスペイン船団が最初にフィリピンを訪れてから始まったスペインによる植民地支配の時代からの歴史です。実際に,私がフィリピン教育についての授業を受け,グループごとにその当時の教育制度について発表するものがあったのですが,そこでは「植民地化以前」「スペイン統治時代」「アメリカ統治時代」「日本統治時代」「戦後」というふうな別れ方でした。(ちなみに,日本統治下時代が最悪だったとはっきりと言われてしまいました笑)

 さて,英語教育に話を戻すと,フィリピンで英語教育が本格的に始まったのは19世紀末からのアメリカによる植民地支配です。その時代から首都マニラで主に使われていたタガログを基礎とするフィリピン語を「国語」とし,英語は「公用語」であったのですが,200近くの言語が存在すると言われる国ですので,英語はおろか国語であるフィリピン語すらもまともに話せない国民がいました。その頃から行われていた言語教育は”BEP –Bilingual Education Policy-”と言われるものであり,国語であるフィリピン語と公用語の英語の習得を最大目標にした教育が行われていました。たとえ英語やフィリピン語が母語でなくとも,小学校に入れば学校で母語を使うことはほとんどなく,理系の授業は英語,文系の授業はフィリピン語というような使い分けをしながら全ての授業を母語以外で受けなければいけません。そのような環境での言語教育が長らく行われてきたために,現在のフィリピンでは多くの国民がフィリピン語と英語,そしてそれに加えて母語の3ヶ国語を話すことができます。特に多くの国民が英語を話せるというのは非常に大きな利益であり,多くの国民が英語教師やハウスキーピング,看護師として海外で働いています。驚くことに,海外で働くフィリピン人の家族への仕送りがGDPの約10%をもしめるということで,一見この国の言語教育は大成功を納めているようにも思えます。

 しかし,実情を見てみると,このBEPによって多くの若い学生たちが苦しむことになってしまっていることがわかりました。前述の通り,小学校から(早い所では幼稚園の時から)母語ではなく英語もしくはフィリピン語で授業を行なっているために,当然言語的な問題により授業についていけないという生徒が出てきます。私がフィリピンの教育に関する授業で見た「教育現場の実情を伝えたDVD」によると,小学生の約10パーセントが英語がわからないせいで授業を受けることが困難になっています。そして,35パーセントの生徒しか12歳で小学校課程を終えることができていないのです。日本でも「英語格差」という言葉は時々言われますが,この国で英語ができるかどうかは義務教育を終えることができるかというとても根本的なことにまで影響してしまうのです。英語格差は教育現場だけではありません。映画館ではフィリピン語による字幕や吹き替えの映画などは少なく,ハリウッド映画はそのまま字幕なしで見なければいけませんし,多くの書籍も海外からそのまま輸入しているので英語です。富裕層の間では子供に何よりも英語力をつけさせるために,家庭内言語は英語にし,幼い頃から英語のテレビ番組などしか見せていません。結果として,この国ではその地域で主に使われている現地語が母語である子供と,英語が(家庭内の)母語である子供というふうに分かれてしまいました。フィリピン国内では「英語ができるかどうか」ということが明確に社会的地位を分けてしまっています。

 もう一つ大きな問題があります。私が向こうの大学で出会った社会学専攻の学生がこのバイリンガル教育で何よりも悪影響があるとしていることは,「国語の衰退」でした。一度この授業の予習か振り返りで書いたことですが,彼らは国語で学問的な内容を取り扱うことができません。フィリピン大学という国内ナンバーワンの大学に在籍している学生たちであっても,90分の講義を全てフィリピン語(もしくは彼らの別の母語)で受講することができるかと問うと絶対にできないといいます。大学の教授に同じような質問をしても,やはり英語でほとんどの学問を修めてきたので国語で授業はできないそうです。論文を国語で書かなければいけない時があって,その時は一度英語で書いてしまってからそれをなんとかフィリピン語に直すというような手法をとっていました。明らかに私たちの国語である日本語と彼らの国語の立ち位置というものは全く違っています。私にとっては英語を習得させることに躍起になりすぎると不利益の方が大きくなってしまうように思われました。

 その言語教育もここ数年で変わろうとしていました。それが,”MTB-MLE -Mother Tongue Based Multilingual Education-”といわれるものです。「母語での学習を大事に」という目標を掲げたこの教育計画では,まず小学校2年生までは全ての授業を母語で行い,同時にフィリピン語と英語も母語で習い始めます。そして小学3年生からはこれまで通り理系は英語,文系の授業をフィリピン語で学習していきます。もちろんこれでも日本の教育と比べると国語の存在は薄いものですが,国語で書かれた教科書を用意するのに多大な努力を要すること,そもそもフィリピンの諸言語には学問的な語彙が不足していること(国語であるフィリピン語にも光合成という言葉は存在しません)などを踏まえると大きな改革であります。まずは母語で考える力をつけてから,第2,第3言語を習得していくというスタンスになってからまだ数年も経っていないので,どのような成果が上がるのかはわかりませんが,以上がフィリピンの言語教育の現状でした。


2. 日本の英語教育との相似点
 
  今まで書いてきたようなフィリピンの言語教育と日本の英語教育とで似通った箇所がいくつかあったように思います。

 まず,どちらも実用的な英語の習得を最大の目標としている点です。例えば,私たちが大学1年生の間に学んだ第2外国語の主な目的がその言語を使えるようになるためだったのかといえば決してそうではなかったはずです。どちらかというと教養として学んでおくべき,というような教養的側面が強かったように思います。それに対して,今の日本の英語教育の目標を見ると,多くの場面で「コミュニケーション能力」と言った言葉が使われており,教養的な側面よりも実用的な,「頼むからみんな英語が喋れるようになってくれ・・・!」というようなことが感じ取られます。これは前述の通りフィリピンでの言語教育でもそうで,「英語が話せる国民が増えること=海外で働ける人材の増加→国の収益の増加」という考えがあります。

 次に,外国語である英語を他教科の授業に取り入れる点です。フィリピンでは英語が外国語でなくなってからしばらく時間が経ちますが,日本でも他教科を英語で教える取り組みが行われようとしていることを考えると,両者の共通点とすることができます。


3. 日本の英語教育との相違点

 両者を比較してみる場合,いくつか留意しておかなければいけない相違点があります。

 第一に,両者の英語教育の始まりを見てみると,日本は長い鎖国の後に外国船との交流を通じて英語学習の必要性を感じ始めたのが始まりです。一方でフィリピンでは,スペインによる長い植民地支配が終わったかと思えば,今度はアメリカによる植民地支配が始まり,英語を話せなければいけない状況に陥ったことが英語学習の始まりです。「英語を話さなければいけない」という必要性に関して両者で全く異なります。

 また,日本は日本語話者が大多数を占めますが,フィリピンは多数の民族・言語から成り立つ多民族国家です。その点においても共通言語としての英語(またはフィリピン語)の必要性というものは日本とは変わってきます。


4. 今後の日本の英語教育についての考察

 フィリピンの言語教育について軽く紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点をいくつか挙げたことを踏まえて,今後の日本の英語教育がどういったものになっていくのかについて私が考えたことを書いていきます。

 留学中,フィリピンの言語教育を見てきてずっと頭の中に残っていたことは,「もしかすると日本はフィリピンの英語教育の道を辿り始めたのではないか」ということです。現在の日本では,生徒が英語を話せるようになることを最大の目標として掲げているように感じます。国際競争の中で英語が得意な国と苦手な国では大きな差が生まれてしまいますし,私自身も英語を話せるようになることはたくさんの利益があって素晴らしいことだと考えています。しかし,今の英語教育の方向性を見てみると,できるだけ学校現場で英語に触れる機会を多くすることに力が注がれているのではないでしょうか。早ければ幼稚園の段階から英語に触れさせる機会を作っていき,小学校では算数や理科などの教科も英語で教えられるようになり,とにかく英語を中心とした教育が望まれているとするならば,それは今までフィリピンで行われてきた言語教育に近いものになっていくような気がしてなりません。

 少し大げさなのかもしれませんが,このままではフィリピンのように英語で義務教育の全てを行い,英語ができる生徒がいわゆる「勝ち組」で,英語ができなければ数学など他の教科の授業すらも理解できないような事態になってしまうのではないでしょうか。また,英語は達者に話せるんだけれども,母国語であるはずの日本語でまともに読み書きができないような生徒が生まれてしまうかもしれません。この授業の最後に先生が「母国語ではない言語でなされる教育は,知的な格差を生み出してしまう。母国語で考え,学ぶことができなくなることは,英語を使うことができる生徒を生み出すことの利点以上に大きな損害をもたらしてしまう」というようなことをおっしゃっていましたが,私は留学中に実際にそのような状況に陥ってしまっているフィリピンの教育を見て,日本ではそうなってはいけないと考えてきていましたので,全身を使ってうなずきたくなるくらい同意しながら聞いていました。

 もちろんすでに書いた通り,日本とフィリピンという国は全く異なる文化的,歴史的背景を持っており,一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません。ですが,フィリピンという国での言語教育の経緯から,日本の英語教育が学ぶべきことはあるはずです。英語「で」教育をしていこうという取り組みから,母国語で思考することができる素地をまずは育てようという教育方針に変えた国があるのならば,今,強力な母国語を持っているこの国がその母国語の価値を薄めてまで英語を学ばせなければいけないのかというと,少し疑問があります。英語教師を目指すものとして,英語を教えるのだからこそ日本語という母語を大切にしなければいけないと強く感じました。





2017年3月15日水曜日

中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました



 本日、中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました。以下には、制限字数を超えた提出前の草稿を掲載しておきます。私の悪い癖で、短い文章に多くの論点を盛り込もうとしているので、これでもわかりにくい点があるかもしれませんが、一つの意見としてお読みいただけたら幸いです。



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 中学校学習指導要領の「外国語」は、浅い「英語力」ばかりを追求しており、学びの主体性・対話性・深さを奪うものとなるでしょう。またその「英語力」の成果も、やがては人工知能に駆逐されるようなものでしょう。今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画として適切ではないと考えます。以下、四点に分けて説明します。


(1) コミュニケーション観があまりに浅薄であり、学びの主体性・対話性・深さが追求できません。

 提案された学習指導要領を読みますと、コミュニケーションとは「簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりする」程度のものとしか理解されていないようです。しかしこれは「情報伝達」にすぎません。

 たしかにコミュニケーションには「情報伝達」という側面もありますが、それ以上にコミュニケーションとは、相手の心を読みながら、相手と自分との関係性から、もっとも自分に忠実でかつ相手に対して効果的な行為を行うことであり、その展開においてはしばしば自らが予想もしなかったり受け入れがたく思えたりする事態もしばしば生じる、複合的な相互作用です。

 このようなコミュニケーションを、優れた中学校英語教師は、日々の授業で実現させています。また入念な準備の末、英語でのスピーチを語り合うことでも実現しています。コミュニケーションにおいて重要なのは、参加者が主体性を発揮し、対話でそれぞれが発見をしながら、共に理解を深めてゆくことです。提案のコミュニケーション観があまりに浅薄なので、以下の(2)や(3)、ひいては(4)といった問題が生じています。

 付言しておきますと、「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」およびそれを「働かせ」ることという表現については、それが意味することを私はまったく理解できません。私は拙いながらもこれまでコミュニケーション(能力)について研究を続けてきましたが、これらの表現が具体的に何を指しているのいっこうに想像できません。これらの表現は、日常語としても学術語としても意味がよくわからない表現だと考えます。


(2)  日本国における公教育で日本語使用を排斥する教育的意義が理解できません。

 高校に引き続き中学校でも「授業は英語で行うことを基本とする」理由として、「生徒が英語に触れる機会を充実する」とともに、「授業を実際のコミュニケーションの場とする」ことが挙げられています。しかし、これは上述したように極めて浅いコミュニケーション理解に基づくものです。

 生徒と教師が充実したコミュニケーションを実感するのは、それぞれの主体性が発揮された対話で、自らとは異なる見解などが立ち現れながらも、それを共有して、それぞれの理解が深まることです。端的には「ああ」、「なるほど」といったことばが思わずもれるような言語経験です。

 こういった言語経験を行うには、少なくとも中学校段階では、中学生の知性と感性の根幹である日本語を適切に使用することが必要です。いたずらに「英語に触れる機会」と称して定型的で凡庸な英語表現ばかり教師が使っても、生徒も教師もコミュニケーションを実感できません(多くの教師が毎時間尋ねる曜日や天候についての英語質問という「英語に触れる機会」が、どれだけ学びの主体性・対話性・深さを促進(あるいは阻害)しているかについて想像してみてください)。

 促進すべきは、(上述した意味での)英語でのコミュニケーションであり、英語の機械的使用ではありません。


(3) 「読むこと」があまりに単純化され、主体性・対話性・深さを追求することができません。

 「読むこと」に関しては「内容を表現するような音読」などと評価できる記述もありますが、その根幹は、情報や概要や要点だけをとらえるものであり、内容(字義・明意)を正確に読み取ること、および正確な内容理解に伴う可能な解釈(含意・暗意)の理解を行うことという「読むこと」の本質が失われています。

 情報・概要・要点などを把握することを超えて、字義・明意を正確に把握すること、さらにはそこから生じる含意・暗意を解釈することは、中学英語でも可能です。例えば"I have brothers and sisters"から話者は最低五人兄弟であること(字義・明意)を把握し、その文およびその文脈から話者の暮らしぶりなど(含意・暗意)を解釈することにより、生徒が英語を主体的に読み解こうとし、対話を重ね、英語理解を深める実践などがあります。

 しかしこのように英語をきちんと「読むこと」には、中学校段階では日本語使用が欠かせません。日本語を適切に使ってこそ、英語が深く理解できます。そしてその深い英語理解が、英語使用の源となります。授業における英語使用の機械的な強制は、英語教育を極めて表層的なものにするもので言語教育として不適切です。


(4) これからの人工知能の台頭を考えた上での教育の方向性が必要です。

 表層的な情報を読み取り、それを出力することは、近い将来、人工知能によって実現するでしょう。現時点でも職業的翻訳家や理工系研究者の少なからずは、機械翻訳を部分的・補助的に使用していますが、人工知能の機械翻訳の精度はこれからますます向上するでしょう。定型的な外国語日常会話でしたらスマホでも実現できる日は遠くないでしょう。

 そうなった時に必要な力は、表層的・表面的な入出力を行う力ではなく、機械・人工知能では実現し難い深い思考力・判断力・表現力です。現在の職業翻訳家や理工系研究者が機械の粗訳を見ながらそれを修正しているような力がこれからは必要です。そしてやがては機械を借りずとも英語で深い思考力・判断力・表現力を外国語で発揮できることが望まれます。

 中学校レベルといえど、この方向性をもつ必要がありますが、提案された「外国語」はやがては人工知能で駆逐されるような英語力ばかりを追い求めているように思えます。

 以上の四点から、今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画としてはあまりにも浅薄なものだと私は考えます。




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小学校学習指導要領(外国語)についてのパブリックコメントを提出しました
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小学校学習指導要領(外国語)についてのパブリックコメントを提出しました



本日、小学校学習指導要領(外国語)についての意見を文部科学省サイトのパブリックコメント欄に提出しました。言い訳にはならないのですが、短時間で字数制限に合わせて書いたので、少々意を尽くせていない箇所があるかもしれません。読みやすさのために改行や太字化および趣旨を変えない微修正を加えたものを以下に掲載しておきます。


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 小学校学習指導要領の「外国語」は、教育の方向性の誤り、到達目標の高さ、教師教育の不足などの点から無謀です。この提案は、すべての子どもを対象とする義務教育・公教育としては不適切です。

  このままでは、大多数の児童は「外国語」の学びに疎外感ばかり覚える事態が予想されます。教師のほとんども「外国語」の教育に対して深い意義を感じることもなくひたすら目の前の授業に追われ、日本が世界に誇る初等教育が「外国語」という一角からほころび始めると懸念します。

  この「外国語」の提案は取り下げ、小学校5・6年においては従来の「外国語活動」を充実させる方向にするべきだと私は考えます。

 以下、三点にわたり、上記のように主張する理由を説明します。


 (1) 「主体性・対話性・深さ」の追求とは逆の方向に向かっています。

 これまで文科省は思考力・判断力・表現力の育成を強調し、今回の提案ではさらに学びの主体性・対話性・深さを目指すという方向性を示しています。この方向性は、今後の人工知能の発展なども含め、さらに加速化・複合化・多様化する21世紀社会を考えるなら正しいでしょう。

 しかし今回の「外国語」は、高等学校や中学校に設定した数値目標(資格試験の合格率などで規定)に到達するための前倒しのような教科化になっています。語彙にせよ、書くことにせよ、今回の提案の目標に到達させようとすれば、ドリル型・徹底反復型の授業ばかりが増えると思われます。

 「グローバル社会だから英語が必要」という浅薄な通説以上の意義を子どもを含めた国民の大半が英語学習に対して感じていない現状で、このような訓練ばかりを行うことは、大多数の子どもの学びを「主体性・対話性・深さ」の追求とは逆の方向に導くものです。

 今回の「外国語」は、家庭での格別な文化資本・経済資本によって英語学習に対して特別に動機づけられ学校外の塾やスクールでも学習できる一部の子どもを「勝ち組」とし、その他の大多数の子どもを「負け組」にして学びの意味や喜びを奪うものになると考えられます。中高での数値目標が資格試験の合格率で規定されていることからすれば、文科省は子どもの一定割合が資格試験に合格すれば、その他の子どもの意欲や学びが荒廃してもかまわないと考えているのではないかとすら思われます。


 (2) 「書くこと」の到達目標が高すぎます。

 「外国語」では「書くこと」が導入され、そこでは「書き写す」(筆写)だけでなく「十分に慣れ親しんだ簡単な語句や基本的な表現を用いて書く」(創造的に書く)ことが目標とされているように読めます。

 ですが、創造的に書くことはおろか筆写でさえも、十分に英語の視覚提示を経験して、文字だけでなく、語句や文の視覚的認識が容易になった上で導入しなければかなり機械的な作業になります(大人でも慣れないアラビア文字やハングル文字を筆写することは困難であり苦痛です)。さらに英語は発音と綴り字の関係が複雑であり、筆写は多くの中学生にとってすら容易ではありません。

 しかし「書くこと」はペーパーテストと親和性が高いので、子どもはひたすらに一定の表現を形式的に「正しく書く」機械的な訓練に追われるでしょう。「書くこと」の目標は下げるべきです。


 (3) 教師教育があまりにも不十分です。

 文字指導、発音と綴り字に関する指導、「日本語と英語との語順の違いや、関連のある文や文構造のまとまりを認識できるようにする」指導に関して、全国のほとんどの小学校教師は十分な教師教育を受けていません。学習の初期段階は、子どものその後の学びを左右するきわめて重要な段階であることをもっとも痛感している小学校教師にきちんとした準備をさせないままに「外国語」の授業をさせることは、教師の心を荒廃させかねない行いです。

 英語教育は政治家や財界の圧力で「上から」目標が決められる、とはよく言われていることですが、たとえそうにせよ、この学習指導要領を定めた人々の責任は否定できません。この「外国語」がうまくゆくのは一部の教師と一部の児童にすぎないと考えられます。これは公教育としてふさわしくない学習指導要領です。

 さいわい、これまでの小学校教師の献身的な努力で、「外国語活動」についてはそれなりの実のある実践が芽生えてきています。これを全国レベルで普及させることこそ今、必要なことです。

 教科としての「外国語」の計画はあまりに無謀です。その方向性・到達目標を根本的に修正し、従来の「外国語活動」の路線での教師教育を充実させることが文科省の使命であると考えます。政治家や財界からの圧力には屈しないで下さい。また、それに便乗することなど、決してしないでください。文科省官僚は「国民全体の奉仕者」なのですから。



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