2011年3月24日木曜日

We are Japan




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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今、この時期に海外学会に参加します。もともと予定していたこととはいえ、この時期に海外に出ることには忸怩たる思いがありました。しかし私なりの行動でけじめをつけましたので、明日の朝、離日し、しっかりと勉強してきます(これできちんと学んでこなかったら本当に私には天罰が下るでしょう)。機会があれば日本のことをきちんと伝えます。現在の米国ではどのように日本が見られているかも観察してきます。

震災以来、さまざまな思い ―悲嘆、悔恨、落胆、怒り、感動などなど― が駆けめぐり、私はしばしば落涙してしまっています。皆さんの多くもそうではないかと思います。

今回の災害は、天災であったと同時に人災でもあったと思います。といっても特定の誰かによるというよりも、これまでの日本を生きてきた私たちの世代のツケによる人災です。私たちは消費こそを善となし、原発の危険性を知りながらも思考停止して、リスクを原発付近の住民に押しつけていました。国を守るということについても思考停止して、米軍基地の大半を沖縄に押しつけていました。自衛隊を始めとした、国を守るために時に命をかけなければならない仕事についてきちんと向きあっていませんでした。

教育についても受験合格などばかり考え、文系学生は理系科目を真剣に学ぼうとせず、理系学生は文系科目について十分な指導を受けていませんでした。そのツケが現在の放射能に関するコミュニケーションの不全、海外への説明の不足などの形で表れています。

現在は災害地の復旧と原発問題の解決が火急の課題ですが、やがてそれが落ち着いた時に、日本は長い長い再生への道を歩まなくてはなりません。財政は震災以前から危機的状態でした。一方で解決すべき問題はさらにさらに増えました。

もしこれまで私たちが、「国」というものを、どこか遠くにあって金を出してくれる所と思っていたのだとしたら私たちはその考えを捨てなければなりません。もし私たちが、地域社会や各種組織のリーダーを、国に対してうまく「打ち出の小槌」を振ることができる人と思っていたのなら、私たちはその考えを踏んづけてゴミ箱に入れなければなりません。

社会も国もそして世界も、私たちが交わす言葉・物資・お金などのコミュニケーションの総体です。私たちが社会です。私たちが国です。私たちが世界です。

私たちはそれぞれの現場で社会・国・世界を構成する主体であり、責任をもっています。私たちの卑劣な振る舞いが社会・国・世界を損ねます。もちろん私たちは間違う存在です。罪深い存在でもあります。間違い・罪深さに気づいた時にはすぐに悔い改めなければなりません。もし、当人が悔い改めないなら、周りの人が社会・国・世界の構成主体としてそれを防ぐ責任があります。逆に、私たちの一人ひとりが、間違いながらもよい生き方を目指してゆけば、それはどんな人も(そしておそらくはどんな自然災害さえも)止めることができない巨大な流れとなります。それが人類の歴史かと思います。

「私たちが世界」というのはルーマン的な考え方かと思っていましたら、何のことはない"We are the world."という歌があったではありませんか。




There comes a time
When we head a certain call
When the world must come together as one
There are people dying
And it's time to lend a hand to life
The greatest gift of all

We can't go on
Pretneding day by day
That someone, somewhere will soon make a change
We are all a part of
God's great big family
And the truth, you know love is all we need

[Chorus]
We are the world
We are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

Send them your heart
So they'll know that someone cares
And their lives will be stronger and free
As God has shown us by turning stone to bread
So we all must lend a helping hand

[Chorus]
We are the world
We are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

When you're down and out
There seems no hope at all
But if you just believe
There's no way we can fall
Well, well, well, well, let us realize
That a change will only come
When we stand together as one

[Chorus]
We are the world
We are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me





私もこの何度も涙をボロボロ流してしまった日々を忘れないようにします。日本という国を再生するために必要な知恵を出し、何よりも実行してゆきます。また大学には特に基礎的な学問にはお金が必要ですが、他方、さまざまな無駄もあります。これに対してもきちんと向きあってゆこうと思います。これ以上思考停止という悪業を続けてはいけません。そしてなにより行動を起こし、修正し、継続し、発展させたいと思います。

何度も涙を流してしまうということは、まだ私も気持ちが高ぶったままなのでしょう。しかしこの思いを忘れたくはありません。だからこの青臭い、中学生が書くような文章もブログに掲載します。同時に、大人としてしたたかに行動し続けたいと思います。西郷隆盛山岡鉄舟を始めとする先賢に学び、日本再生という答えのない問いに、私の現場から取り組んでゆきたいと思います。

と、私が言うまでもなく、もうこの流れは止まらないでしょう。「日本のメディアが変わった10日間」が整理するように、多くの日本人が目覚め、そしてつながりました。これからの旅路は多難でしょうが、必ず道は拓けると信じます。








2011年3月23日水曜日

卒業生・修了生の皆さんへの挨拶




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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以下は本日、所属講座での卒業証書授与式で行った短い挨拶です。



3月11日以降、私たちは試されました。

人間は信頼できるのか。専門家は信頼できるのか。社会は信頼できるのか。報道は信頼できるのか。政府は信頼できるのか。世界は信頼できるのか。

多くの人がその信頼に応えました。何よりも被災地の方々。一番苦しい時にこそ助けあいの心を示しました。消防庁・自衛隊・警察などの方々。これまでの訓練の成果を遺憾なくそして勇敢に発揮されました。義援金を寄せた方々。多くの方々が匿名で義援金を寄せ続けています。そして義援金と励ましの声は国外からも多く届いています。

その一方で信頼を失いかけている所もあります。特に商業メディア。不安と絶望を拡散させて売上を伸ばそうとしているようにしか思えない商業メディアは国内外を問わずたくさんありました。

商業メディア以外にもたくさん指摘・批判できるところはあるでしょう。しかしもっとも問わなければならないもの、それは私たち自身です。

私たちは3月11日以来、周りに信頼される存在だったでしょうか。冷静さを忘れることはなかったでしょうか。慈愛の心を保ち続けていたでしょうか。勇気を失ってはいなかったでしょうか。

これから日本の復旧・復興そして再生が始まります。幕末から明治維新、第二次大戦後に匹敵するような大変革になるかもしれません。今から私たちは国内外の信頼に応えられる人間であることができるでしょうか。

現在、日本に対する不安が高まる中で、仙台在住の米国人Aimee McFarlaneさんは、米国雑誌Salonでの手記で「しかしもし政府も科学者も専門家も信頼できないとしたら、誰が信頼できるというのだ」("But if I don't trust the government, the scientists, and other qualified people -- who should I trust?")と日本への信頼を公言し、日本に残ると言って下さいました。

皆さん、信頼に応えましょう。これから皆さんはそれぞれの現場を与えられます。それは本当に小さな現場かもしれません。しかし「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」 ―それぞれの現場で誠意を尽くすことこそが社会、そして国、さらには世界を創りあげます。社会・国・世界とは私たちから離れたところにある存在ではありません。社会・国・世界とは私達自身のことなのです。

卒業生・修了生の皆さん、これからは皆さんも、本格的に社会の一員です。社会へようこそ。周りからの信頼に応えてよりよい社会を築きましょう。卒業そして修了、おめでとうございます。



追記

加藤祐子氏による外国メディア報道の分析は秀逸です。ぜひご一読を。今回の災害から私たちが学ぶべきことの一つはメディアリテラシーです。


追追記

本日(2011/03/23)の毎日新聞「異論反論 テレビ消し 仕事に戻ろう」のエッセイで岡田斗司夫氏は、今回の災害は、1次災害(地震・津波)、2次災害(原発事故・インフラ破壊)、3次災害(社会不安)、4次被害(モンスター化する我々)の4つに分けることができると指摘しています。3次災害と4次災害を止めるのは私たち一人ひとりだという岡田氏の主張に全面的に賛同します。











2011年3月22日火曜日

山岡鉄舟 ― 始末に困る真心の人




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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橋本麻里さん(@hashimoto_tokyo)という方がtweetしていらっしゃるように「自分も含め、いろいろな方の「地金」が露呈した10日間であった…」と言えます。

前々から敬愛していたある英語の先生は、被災して家と車を流されながらも「家族はいます。また一からやり直します」と力強く言われました。被災していない地域の私の友人ブロガーの多くも、それぞれの形でブログやらツイッターで(被災地での努力からすれば本当に微々たるものにすぎませんが)それぞれに後方支援をしました。私の職場でも多くの人が心を痛めながらも、その悲痛な気持ちを義援金に変えました。ウェブ上で観察できる有名人では糸井重里さん(@itoi_shigesato)が、心無い言葉に傷つきながらも本当によくやってくださっています。また糸井さんが世間に紹介した一色靖さんという方(@yasushi64 )は冷静さと温かさ(そしてユーモア!)を兼ね備えた素晴らしい方です。そして来日直後に地震を経験しながらも日本に残り続け、本日今この文章を書いている時点で大阪ライブをニコニコ動画で無料公開して日本を励ましてくれているシンディ・ローパー(@shebop_aka_cyn)。多額の義援金を送ってくださった台湾やブータンなどの国の方々・・・ごめんなさい、きりがありません。本当にいろんな人間模様を観察することができました。

そんな中で、私の好き嫌いというのが以前より一層明らかになりました。西郷さんの教えに従うならば、その人の咎をあれこれ言うのではなく、その人を受け容れるように自分を変えるべきです。しかし私は修行が足りません。ですから私が嫌いな人の特徴を上げてみます。今回の人間観察で痛感したことです。



・人を見下す人間

・虚勢をはる人間

・口先だけの人間

・腰抜け




あれっ?全部、私のことじゃん(爆)。

なんだ、私が嫌いに思える人は、みんな私の投影なのね。だから嫌うわけだ。そうね、これから人が嫌いに思えたら、その人を私の鏡と思うことにしよう。私の姿を映し出している鏡だと。でも、まあ、その鏡を割っちゃうかもしれないけどね(と、高田純次風に 笑)


と、悪ふざけはいい加減にして、上の特徴をそのままひっくり返せば私が好きな人、敬愛する人の特徴になります。



・どんな人とも対等につきあう人間

・謙虚な人間

・実行する人間

・肚の坐った人間




そういった人間の代表格が山岡鉄舟です。

山岡鉄舟の生涯は、小説なら『春風無刀流』、伝記なら『最後のサムライ山岡鐵舟』などで知ることができます。

まあ徳川慶喜の命を受け、敵の陣営を「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎大総督府へ通る」との一喝で通り抜ける場面とか、英雄、英雄を知るとも言うべき西郷隆盛との会談とかは本当に芝居を見るようですが実話です。また後年、勝海舟が江戸城無血開城の手柄を横取りしようとした時、「これは嘘だが、やったのだと言ってしまえば、勝の顔が丸潰れになる。よしよし勝に花を持たせてやれ」と突嗟に決心して「その通りだ」と言ってのけた話も実話ですし、最後の大往生も信じられないほどですが、実話です。

そんな山岡鉄舟は、『最後のサムライ山岡鐵舟』の記述によるなら、


鐡舟は普段、午前五時に起床し、六時より九時まで剣術指南、午後零時より四時まで揮毫、夜分は午前二時まで坐禅を組むか写経をした(197ページ)


そうです。また、


鐡舟は人から阿諛追従を受けると、むっとして睨みつけた。その反対に、忠言に対してはまこと甘露を飲むかのように応じた。(195ページ)


とも言われています。

しかし伝記の決定版と言われているのが、小倉鉄樹(2001)『おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝』島津書房です。今は版元品切れになり古本市場では高価で取引されていますが、先日私はある大型書店で偶然新品を見つけ購入しました(なんという幸せ!)。

その中でも印象的な箇所をいくつか抜き出します。(表記は一部現代風に書き換えています)。


人は好んで表面に立って花々しい仕事をしたがるものだ。桧舞台で腕を振つて大向ふをあつと云わせ、やんやともてはやされることは誰でもいい気持だからね。然しそれは腕の話で、人格の問題じやない。ほんとに人間の出来たものは桧舞台を踏まうとか、大向ふの喝采を得ようとか、そんな私情に捉はれたケチな了見はありやしない。事に當たる目的は畢竟事が成ればよいので、表面に立たうと裏面に居らうとかまはないことで出没適宜な話である。否、仕事が大きくなり重大になればなるほど退いて内に隠れ、表面には努めて立たぬようにしないと思はぬ禍を得て身を危うし、目的の仕事が実徹出来ぬことになる。(126ページ)


これはまさに、現在、災害地で復旧・復興に専念しておられる方の姿だと思います。名誉とか称賛とかとは無関係に事を成そうとされている多くの方々に心からの敬意をお送りさせていただきます(注)。


私自身、目から鼻に抜けるような勝海舟は好きなのですが、少なくとも山岡鉄舟をよく知る者は、上記にありましたように、勝は山岡の手柄までも自分のものにしたと考えています(勝海舟ファンの方、ごめんなさい)。その前提で、著者はこう言います。


勝の仕事には右のようなごまかしが交じつている。勝が生前既に栄誉を取り盡くしてしまつて、死後段々光彩を失つて来たのはかうした所以からである。山岡などは全くあべこべで、何事も真実一つで押し通し、労は自ら負い功は人に譲る筆法であつたのだから、晩年ほど人が慕つて寄つて来、死後益々光輝を放つて来て居る。けれども、山岡のほんとの光りはまだ出ない。一と時代変わつてほんとに人間としての価値が批判され、賞美されるまでには、まだまだ百年二百年先きのことだ。序(ついで)だが、勲功調査に功績を出さなかったのは山岡と泥舟ぐらひなものであらう。(127-128ページ)


現在の復旧・復興作業にせよ、それが一段落してからとりかかなければならない日本再建にせよ ―震災前までの日本の諸問題はこの間悪化することこそあれなくなることはありません― これからの日本には、山岡鉄舟のような人間が必要でしょう。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」とは西郷隆盛の山岡鉄舟評ですが、これから日本が徹底的に自己改革をするにはこのように「始末に困る」真心の人が必要でしょう。


これから日本は自らに大鉈を振るわなければならないでしょう。その際には既得権益は崩れ、慣習は旧弊として廃され、旧来の帰属関係・組織関係も解体されるでしょう。そして当然のことながらそれを好まない人々は守旧派として徹底抵抗するでしょう。(幕末の大改革とて明治維新で完了したわけでは決してなく、少なくとも西南戦争ぐらいまでは国の至る所で不満が爆発しました)。

そのような大変動期には、「真心」といっても、これまでの権力関係だけに忠義を尽くすような態度では、かえって混乱を招くでしょう。知性も肚も練りに練られたような、したたかで柔軟でどこまでも進むようなものでないといけないでしょう。山岡鉄舟を批判する人は、山岡がもともと徳川家に仕えながら後年は明治天皇の側近となったことを批判しますが、山岡鉄舟からすればそれこそが江戸幕府から明治政府への転換とその安定こそが彼の果たすべき大義であり大道だったのでしょう。


山岡は君主には誠忠を以て終始した人だが、然し山岡の誠忠はほかの人によく見る所謂「のべ金式の誠忠」ぢやなくて「鍛へられた誠忠」である。「のべ金式の誠忠」とは山出しののべがねのやうに細工も面白味もない。融通の利かぬ条理も分からぬ誠忠のことだ。かういふ手配は何れの世何れの処にも得て有り勝ちのもので所謂志士とか義人とかいふものの内容の大部分を占めている。ほんとうの志士や義人は志士がりも義人がりもするものぢやない。「鍛へられた誠忠」というのは人道を辧(わきま)え、大義名分を明らかにし、大道に依つて行動するほんとの人間としての真心の発露だ。(152ページ)



と、調子にのって山岡鉄舟についての紹介文を書きましたが、このような行いはまさに「虎の威を借る狐」いやその狐の足元の鼠のような真似です。実際、私は教育者の端くれとして、この本の289ページに書かれているようなことができておらず、それが恥ずかしくてここにも紹介できないぐらいです(私は自分の弱点も認められないぐらい弱く卑怯な人間です)。ですから、この文章もこのあたりで終えるべきでしょう。


とはいえ、この逸話はぜひ紹介させてください。山岡鉄舟ほどの大人物の紹介を終えるにはこのくらいの逸話が必要でしょう。


小野で思ひ出したが、何でも小野が十二、三歳の頃、山岡と夜更けで、大道で鍋焼うどんをたべていた。その時一人の酔つぱらひが来て、二人の食べてる後から小便をして、小便が山岡の足へひつかかつた。

「ひどいことをする奴だ」と、小野は憤(む)つとしたが、山岡は平気で、うどんを食べていて、一寸後ろを振り向きながら「きたねえことをするな、もうおしまひなのか」と、ちつとも怒つた様子がなかつたといふことだ。(447-448ページ)














(注)この文章を書きながら、私がよく読むブログ「東大式個別ゼミ・林間教育通信」で英国The Guardian紙の"The truth about the Fukushima 'nuclear samurai'- Japan's 'nuclear samurai' are risking their lives to avert catastrophe, but many are manual labourers unequal to the task"の存在を知りました。私を始め、今多くの日本人が英雄的行為の美談に涙を流していますが、その中には実は公にはなかなか出ない、弱い立場の人間を「英雄」にしてしまうような露骨な権力構造があるかもしれないということは忘れてはならないと思います。

追記

上記ブログのその後の記事は、ガーディアン紙の情報源は日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)のメンバーによる取材ビデオではないかと推測しています。

2011年3月21日月曜日

荒谷卓(2010)『戦う者たちへ』並木書房




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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福島原発の問題は、この文章を書いている時点でも予断を許しませんが、それでも日本国民に「なんとか対応できるのではないか」と安心をくれたのは、3月19日(土曜)夜の東京消防庁ハイパーレスキュー(HR)隊の佐藤康雄警防部長、第六方面消防救助機動部隊・冨岡豊彦総括隊長、高山幸夫・第八方面消防救助機動部隊総括隊長による記者会見でした。

自分たちが行ったことを丁寧な言葉でわかりやすく説明する佐藤康雄警防部長、冷静に説明を補う高山幸夫総括隊長、武人を思わせる無骨な言い方で淡々と説明する冨岡豊彦総括隊長の会見は、やるべき事をやるために日常から鍛錬を怠らず、与えられた場で最大の働きをなし終えた人間のみがもつ静かな威厳がありました。この10日間でまさに「マスゴミ」という蔑称が似合うようになってきた(少なくとも一部の)マスコミ記者陣も沈黙せざるを得ませんでした。

福島原発の様子を外野で見る(私も含めた)無責任な連中は「なにやってんだ」「今すぐ行けよ」などと好き勝手を言っていましたが、当然のことながら日本を守るべく日々訓練をしている強者は、一報を受けるや否や直ちにこの対応のためのシミュレーションを短期集中的に行い、3/19の活躍となったわけです。

無責任な外野は「命を賭して」などと簡単に言いますが、そのような者は現場に行けばすくんで動けません。あるいはかろうじて動いても、日頃から鍛錬していない人間など邪魔にしかなりません。

仮にそのような腑抜けが命令を下す立場に立ったとしても、そのような者は、徒に精鋭部隊を犬死させ、達成するべき目標を達成できず、遺族には直接目も合わせずに形ばかりのお悔やみを言うだけです。

東京消防庁を始めとして、自衛隊、警察、(および原発現場の職員)など福島原発の最前線で、日本を守るために戦っている人々は、「原子炉の冷却」という第一目的と「隊員の安全確保」という第二目標という、しばしば矛盾する目的の中で最善を尽くしています。

「隊員の安全確保」というのは、部隊が怖がっているからでは決してありません。この事故が今後どうなるかもしれず、この時点でも他にどんな災害が起こるかもしれず、ましてや今後どんなことが起こるかもしれない中で、何年・何十年もの献身的な訓練抜きではありえない精鋭の隊員を失うことは、日本全体の安全保障としてはできません。

加えて隊員とて人の子です。たとえ本人が死を覚悟できても、それと同じ程度まで家族も覚悟がもてるとは限りません。

記者会見で、もっとも武人らしかった冨岡豊彦総括隊長も、「もっとも大変だったのは」と問われると、感極まり目に涙を浮かべながらも必死にそれをこらえ「隊員・・・」と言って10秒ほど絶句しました。その後「隊員の士気は高く、彼らはよくやってくれました」と言いながらも、まだ目に涙を浮かべたまま「しかし家族に対しては申し訳ないことをした。この場を借りてお詫びとお礼を申し上げたい」とだけ言ってマイクをおきました。

東京消防庁の佐藤康雄警防部長、高山幸夫総括隊長、冨岡豊彦総括隊長は、日本を守る人々を代表している人物でしょう。彼らは自信を有しているものの傲岸でなく、冷静であるものの慈愛にみち、そして何よりも果敢に目的を達成します。彼らこそは侍です。近年、評価を落としていた日本文化の中にもこのような人物がいることを私も私なりに伝えたくて、昨日Three Samurai of Tokyo Fire Department's Hyper Rescue Squadという文章を書きました。

日本の侍は、日頃の備えに基づき、冷静沈着に作戦を立て、現場で果敢に行動し、作戦の成功を収めています。しかも冨岡豊彦総括隊長のように家族には「安全を確保しない限りは作戦を実行しない」と語り、家族を安心させ出動しました。彼らは日本を守るという国との約束と自らの身を守るという家族との約束も守りました。



この10日あまりで、私たちは国のあり方について大いに考えさせられています。一つ得心がいったのは、"nation"が「国」であり「国民」であるということです。高校生の頃の私は、"nation"という英単語を見たら、それは「国」という制度の意味である場合と、「国民」という人間の意味である場合があると習い、制度と人間というものがなぜ一つの語で表現されるのだろうと不思議に思っていました。"Nationalism"の訳語が「国家主義」にも「民族主義」にも収斂せず「ナショナリズム」とカタカナ表記にしかならないことにも居心地の悪いものを感じていました。

もちろん「私たち」という存在には様々な規定が可能です。しかしこの国土に住むという限りにおいて「国民」です。そして「国民」あるいは国民の努力の総計こそが「国」です。





以下は、この「国民」=「国」を守る自衛隊で特殊作戦群初代群長となった荒谷卓(あらや・たかし)氏(現在は明治神宮武道場「至誠館」)の著作『戦う者たちへ 日本の大義と武士道』からの抜粋です。私は地震発生後の3/16(水)に広島市内に出かける用事があり、その帰りに大型書店に寄り、この本を偶然に目にして買い求め一気に読了しました。

「国民」=「国」を守るということを考え ―ある意味このことはこれまでの日本の「進歩的な」言論の場でタブーですらありました―、その中で「侍」であること、「武士道」「武道」「武術」の意義を考え直すために、以下のまとめをします。



■国を守る方々の覚悟と精神的支柱


今回でほとんどの国民は自衛隊・消防隊・警察などの国を守る方々のありがたさを知りました(あるいは改めて確認できました)。しかし、これまで私たちは国防についてほぼ思考放棄していたことは上記したとおりです。それどころか、むしろ国防(特に自衛隊)を志す人に対して冷たい視線さえ投げかけていました。


「人の命は地球より重い」などという社会風潮の中で教育された者には「自分のために生きることが正義」であり、「自己の生死を問わず行動する」などと言った日には犯罪者扱いさえされかねない。(7ページ)


しかし国民・国を守るためには、相当の覚悟が必要です。


そうした社会では、自己保全のためではなく、他者の保全、そして社会の正義のために自己犠牲を覚悟して行動できる人間が希求される。少なくとも自衛官、海上保安官、警察官などは、それを使命として期待されている以上、武士道のような精神的支柱を必要としているのである。(8ページ


「自分の生命の危険すら顧みず」ということを実際に行うには(口でいうだけならどんなに簡単でしょう)、単なる組織の規則や権限による命令だけでは人間は動きません。覚悟が部隊の一人ひとりに浸透していなければなりません。


必要なのは、任務行動に際して、他人や自分の「死」に直面しても正義を貫き行動できる精神的支柱を備えた戦闘員である。ましてや、指揮官は自分だけでなく部下の生死に関しても責任を有する。部下が何のために人を殺し、自分の死を許容するのかについて、責任を深く自覚しなくてはならない。(9ページ)


「いやぁ、そんなに大げさに考えなくても、やるときは、やりますよ」という声に対して荒谷氏は経験から次のように言います。


「やるときは、やりますよ」などと言って、自分の生き方、死に方について具体的に肚決めをしていない者は、いざというときにうろたえる。自分の生き方に関わる肚決めは、事に直面するよりもずっと前に、自分自身で決め手おくべきものだ。(103ページ)




■各人が自己利益だけを追求する社会

このように自らを超えた国民・国という共同体を守るという公的な意識は、自己利益だけを追求する発想からは出てきません。現在、私たちの多くは、経済学的合理性ばかりを思考の枠組みとし、教育の現場でさえ自己利益の追求ばかり教えかねない勢いですが、人々が自分の利益だけしか考えないようになれば人間らしい社会は崩壊するでしょう。


ソロス氏が指摘しているように、これまで国家においては、民主主義が資本主義の暴走を抑制していたが、グローバル市場には市場原理と呼ばれる資本主義は存在しても、民主主義は存在しない。個人の利益が唯一絶対的な価値を持ち、公共の利益という考えは存在しない。国家の政治が、グローバル市場の原理に焦点をあてて運営されれば、その国は、富を獲得したものだけが生き残る社会へと変質するのだ。(35ページ)





■「自分のため」から「自分を超えて」

実は「公共のために」というのは、国防を仕事とされる方々だけに必要とされる精神ではなく、私たち一人ひとりも家庭・職場・その他様々の共同体で自分を超えるという発想を必要としています。ただ国防を職業とされる方は、この精神・発想をより確固としておく必要があります。

現代の私たちはよく「自己実現」や「自分探し」を語り、マズローの自己実現理論を引き合いに出します。マズローは人間は以下の順番で欲求の程度を高めてゆくと説明しました。


1 生理的欲求(physiological need)
2 安全の欲求(safety need)
3 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4 承認の欲求(esteem)
5 自己実現の欲求(self actualization)


しかし荒谷氏は、武士道はこのマズローの「自己実現の欲求」を超えた価値観を提供していると言います。


これに対して、武士道は、自己犠牲をも容認し、社会の幸福のために奉仕し貢献しようとする「自己超越の欲求」に基づく最高位の精神を目指している。(93ページ)




■身心を清澄にして実行の人となる

それでは「武士道」とは何か。スポーツなどでは「サムライ・ジャパン」などといった言葉を気軽に使うものの、現代日本人の多くは「武士道」あるいは「武」ということをきちんと考えていません。

私も人のことを言えません。しかしわずかなりにも私が様々な形で師事する諸先生方から武術を教えてい頂いている人間として言えることは、「武」とは、決して頭の中・机の上だけの知識では、自らの身心を澄ます実践であり生き方であるということです。

荒谷氏は武道と神道 ―神道についても私たちは思考放棄しています。外国からすればまさに不思議な国民でしょう― の密接な関係を踏まえて、武道とは感性を育て自然に戻ることかもしれないと言います。


日本の武道や神道は、人間の持つ感性の歴史と経験で築き上げてきたものであって、知識のマニュアル化ではない。逆に言えば、現代において武道や神道を学ぶ重要な意義は、知識の啓蒙作用によって失いかけた人間の感性を磨き、自然の普遍的原理に立ち返るということなのかもしれない。(54ページ)


あまり安っぽい言い方にならないように気をつけなければなりませんが、現代教育は言語化されマニュアル化された知性ばかり重視し、語れず定式化もできない感性を軽視しています。「感性を大事にしよう」などと言えば「どうやって評価するんですか?客観的な測定をどうすればいいのでしょう」などという私からすれば「軍靴に足を合わせる」「寝台に合わせて足を切る」ような理屈が教育界の「正論」としてはびこり、感性を抑圧してしまいます。

しかし地震・津波からこの10日のことを思い出してください。あなたを支えてくれた人、あなたの力になってきた人は知性・知識だけの人ですか?むしろ感性・行動の人の人ではありませんでしたか?もちろん知性・知識は有用、というより必須でした。しかし知性・知識で、この誰も解答を知らない混迷状況で皆を導いていた人は、知性・知識だけでなく感性・行動も兼ね備えていませんでしたか?


「感性」が鈍い人は、実用的な知識や技術をほとんど保有しないか、無用な知識や技術をやたら貯め込んで整理しきれず、いざというときに役立てることができない。一方、「感性」が豊かな人は、一見まったく関係ないものからもヒントを見つけて、さまざまに応用できる。(171ページ)



武道とは、稽古を通じて自らの身心を清澄にし、その身心をもって正義のために生きることです。武術とはその稽古の到達目標である実効的技術です。(稽古もきちんとしていないのに、このように言葉ばかり連ねる自分が実は恥ずかしいのですが、それは別の話とさせてください)。


心身の汚れを祓い清め、自分の中に存在する真心(神に通じる心)を見い出して、その心を自己の「正義」の拠り所とすることで、「何のために武術を身につけるか」という問いへの答えが出てくる。「正しさ」は心の状態であって概念ではない。また、それを求める生き方が「道」である。

 つまり、武の目的である「武道」を達成するために用いる実効的技術を「武術」と言い、あるいは、前者は「文」、後者を「武」と言い、武道と武術、文と武は常に一つでなくてはならない。(78ページ)




■「武道」を"martial arts"と訳してはいけない

私も昔は「格闘技」という言葉をよく使ってきましたが、最近になって「武道」「武術」は「格闘技」("martial arts")は違うということが体験を通じてわかってきました。詳しくは以下に掲載している「日本の大義と武士道」の動画シリーズをご覧頂きたいのですが、日本の武道・武術には、相手を傷つけずに「まいった」と言わせるだけの技術があります。


武道の究極の姿として「相手をして包容・同化する」という考え方がある。どういうことかといえば、相手を倒して殺傷するのではなく、相手の「邪気」を清め祓い、正気を取り戻した相手を仲間とみなし、共存共栄を図るというものだ。(62ページ)


こういった言葉を聞くと、現代人は「漫画の読み過ぎでしょう」と冷笑的な態度を取りますが、こういった技をかけられて倒されたり動けなくなってしまうことを自分自身で体験したら、このような偉大な身体操法があるのだということが実感できます(私はこのような技をまだかけることはできませんが、かけられることは稽古で経験しています。こういうことを理解するのは体験が一番ですが、言葉でとりあえず理解の端緒を切り開こうとすれば矢田部英正先生の身体論山岡鉄舟のエピソードなどをお読みください)。


私が稽古でかけられる技も、以下のような特徴をもっています。


「やっつけよう」と思う邪念が強く出ると、相手に逆をとられる。相手に苦痛を与えて降参させようという発想も、必死の相手には、腕が折れていたいとか、首が絞められて苦しいなどという程度の技では通用しない。筋力で無理やり押さえ込まれると、相手は「畜生」という思いを強くし、戦意が高揚する。

 これに対して理合いにかなった技で抑え込まれたときは、倒されながらも「すごい」と感嘆してしまうことがある。そのような状況において、勝者が敗者に礼を尽くす心の広さを見せれば、敗れたほうは精神面でも完敗を認め、勝者に敬意を抱くということが起こり得る。(145ページ)





■身体と心を整える

このように「武」とは身体にも心にもおよぶ生き方なのですが、頭でっかちの近代教育と比べると、武道・武術は明らかに身体を重視します。身体を整えることで心のあり方が変わってくることは、私も私なりのつたない経験を「椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・」で説明した通りです。デカルト的近代西洋哲学発想を超えて言い切るなら、身体と心は同じものです。身体を整えると心が整い、心が整うと身体が整います。


思考がぼやけていると生き方も行動もふらつくように、体に中核(重心と中心)の意識がないと体がぶれてしまう。思いや考えが絞り込まれると、方向性がつかめて強い生き方ができるようになる。心が定まり体が決まると、時がつかめ、技も冴えてくる。(149ページ)



武術の稽古の大半は、もちろん身体操法に費やされますが、武術が武道と不即不離である以上、武術の稽古の始まりや終わりにはしばしば言葉による心構えが確認されます。以前私が通わせていただいた道場でもこのような道場訓をよく唱和していました。


一、吾々は心身を錬磨し確固不抜の心技を極めること

一、吾々は武の神髄を極め機に発し感に敏なること

一、吾々は質実剛健を以て克己の精神を涵養すること

一、吾々は礼節を重んじ長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと

一、吾々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざること

一、吾々は知性と体力とを向上させ事に臨んで過たざること

一、吾々は生涯の修行を空手の道に通じ極真の道を全うすること


荒谷氏は自衛隊の特殊作戦群の精神的支柱を、日本の伝統文化である武士道に求め、以下のように訓を定めました。



特戦群戦士の武士道


一、確たる精神的規範(正義)を有し生死の別を問わず事に当たる肚決めをすること

一、臆せず行動できず勇気(気概)とこれを維持する気力(胆力)を鍛錬すること

一、事を成し遂げる実力(知力、技術、体力)を修養すること

一、言動を一致させ信義を貫くこと


私が通わせていただいた道場でも、入出の際には一礼をし、稽古がの始まり・終わりには黙想を、正面に礼、師範に礼、お互いに礼をし、ほぼ毎回道場訓を全員で唱和していました。

このような礼・黙想・訓唱和は、現代日本の学校教育では考えられないものでしょう。礼・黙想・訓唱和などを学校授業で実施しようとすれば猛烈な反発と底意地の悪い冷笑が生じるだけでしょう。

しかし考えてみてください。学びの始まりと終りの度に、身体を整えた礼をして学びの場への敬意を示し、黙想により自らの心を整え、訓の唱和で学びの目的を再確認する学びと、そういった身心の作法を冷笑する学びのどちらが深い学びをできるのか。急な転換は、反動に終わるだけですが、私たちはもっと日本の伝統文化に学ぶべきだと思います。


以下は荒谷卓氏が登場する動画です。どの動画も著作権保有者により掲載されたものだと理解しましたので、ここでも紹介します。



【戦闘者の本質Ⅱ】 荒谷卓氏、伊藤祐靖氏に聞く




この動画は、上記の東京消防庁隊員の言葉を理解するのにも役立つでしょう。印象的な言葉を私なりにまとめると次のようになります。


「規則で人を動かすことはできない。それは脅しに過ぎない。」

「生死をかけた行為で人が動くには『士気』が必要で、それには上に立つものが、嘘をつかずそのまま生きて、かつ本気であることが必要だ。」

「行政指示ばかり伝達して指揮しているなどと思っている『政治将校』は自分の保身や出世ばかり気にしている奴であり軍人ではない。」






「日本の大義と武士道」




この動画を見ると、「武道」を"martial arts"が異なることがよくわかります。また軍隊の特殊部隊のあり方(軍事的制圧ではなく平和構築)についても学べますし、今回の危機で顕になった内閣総理大臣の権限についても考えさせられます。




戦いの本質




この動画では何よりも次の言葉を噛み締めるべきでしょう。


我の強い奴ほど理屈をこねる。

理屈をしゃべってばかりいるような奴にまっとうな者はいない。











2011年3月19日土曜日

ゲルト・ゲレンツァー著、吉田利子訳(2010)『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法 ― 初歩からベイズ推定まで』ハヤカワ文庫


日本赤十字社が東北関東大震災義援金を受け付けています
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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福島原子力発電事故により、放射能被害が懸念されています。直接の物理的・化学的・生物学的被害はもちろんですが、それだけでなく、憶測や不安に基づく心理的な害―本来は生じる必然性などないのだが私たちの知識・理解不足で起こしてしまうストレスや病気などの人災―についても警戒しなければなりません。原発から十分に離れた地域の住民にとってはむしろこの心理的な害の方が大きいといえるでしょう。

これから福島県あるいは日本全体が被る風評被害のことを考えると、私たちはデータの数字解釈のリテラシーを上げて、科学者による発表を正しく理解し、また自ら発言する必要があります。それが教育を受けた者、生徒・学生を教える者、外国語を使える者、そして 何 よ り も マ ス コ ミ!の責務の一つかと思います。

現在、この文章を書いている時点でも、東大病院放射線治療チームhttp://twitter.com/team_nakagawa)や同じく東京大学大学院理学系研究科の早野龍五先生http://twitter.com/hayanoなど)が次々に信頼できる情報をtwitterで流しています。しかしその情報も、私たち市民が正しく理解できなければ無用ですし、私たちが自分たちの無知・偏見・疑心暗鬼から誤解すれば有害にもなりかねません。私たちは短期的にも中長期的にもデータ解釈の能力を高めなければなりません。


以下は私が昔、読みかけのまま放っておいて、先ほど急いで読了した『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法―初歩からベイズ推定まで (ハヤカワ文庫)の内容の一部を紹介するものです。私達自身と日本という国を、不要の心理的な害や風評被害から守るため、少しでも研究・教育で統計数字を扱う者は、今一度統計について学び直し、上記のような専門家からの情報を正しく理解・活用しませんか。




■パーセントではなく頻度(実際の数字)で考えよう

もしある人が殺人の容疑で裁判にかけられたとします。検察があげる証拠は一つだけですが、それは「その容疑者のDNAが被害者から発見されたものと一致した」というものだけです。ただし検察が呼んだ専門家はこう証言しました。


「この一致が偶然である可能性は10万分の1です」(19ページ)


こうなると私たちは、やはりその容疑者が真犯人だと思うのではないでしょうか。

しかし証言が次のようだったらどう思うでしょう。


「10万人に1人は一致するでしょう」(19ページ)


これだと「ちょっと待てよ」と思いませんでしょうか。「10万人に1人はいる」ということは、もし人口が100万人いたら10人、1000万人いたら100人は、被害者と同じDNAをもった人間が存在するということです。この本の著者が訴える最も大きな点が、「パーセント(だけ)でなく、実際の頻度で考えよう」ということです。



■ある検査で病気だと判定されたら・・・

次に、あなた自身が、病院で検査を受けたところ、非常に怖い「なんじゃもんじゃ病」について「陽性」であると告げられたと想像ししてください。もちろん、言葉の「陽性」(positive)とは「医学の検査などで、ある刺激に対して反応がはっきり現れること。陽性反応のこと。⇔陰性(negative)。」です(kotobank)。検査に関する説明は以下のとおりです。



1 ある人がこの病気にかかっていれば、90%の確率で陽性になります。
2 病気にかかっていなくても約1%の確率で陽性と出ます。
3 人口のほぼ1%がこの病気にかかっています。
(323-324ページ。ただし表現を改変)


しかし、この文章は、おそらくほとんどの人にとって理解しにくいものでしょう。あなたは理解できず、とにかく検査で陽性となっているのだから「なんじゃもんじゃ病」なんだと、パニックになるかもしれません。あるいはせいぜい90%という数字だけに注目して、9割の確率で自分は病気なんだと悲観するぐらいでしょう。

ですが、同じ内容を「自然頻度」で表現してみましょう。上の説明に相当する部分を上の文章の番号で示します。


100人の人間を考えてください。このうち1人はなんじゃもんじゃ病にかかっており(3)、検査を受ければほぼ陽性という結果がでます(1)。しかし、残りの99人のうち1人も陽性になります(2)。(325ページの表現を一部改変)


こうなると少しは理解できます。本当になんじゃもんじゃ病である人は100人のうち1人です。残りの99人は病気ではありません。しかしこの99人に検査をしても(残念ながら検査技術の限界で)1人が陽性、つまりは病気だ、と判定されてしまいます。

となると、あなたは、陽性と判定された2人のうちにいるわけです。その中で本当になんじゃもんじゃ病である人は1人で、残りの1人は病気ではない(つまりは検査が間違いであった)わけですから、あなたが本当に病気である確率は50%です。まだ希望はありそうです。

検査で陽性と告げられると、私たちはもう100%病気であると考えてしまいます。しかし、人間は間違う存在です。科学検査とて、後から見れば間違いである結果を出しえます。

陽性(=病気だ)と判定したのに、実際は病気ではなかった場合は「偽陽性」(false positive: FP)と呼ばれます。逆に陰性(=病気ではありません)と判定されたのに、実際は病気であった場合は「偽陰性」(false negative)と呼ばれます。

これに対して、陽性と判定されて実際に病気だった場合は「真陽性」、陰性と判定されて実際に病気ではなかった場合は「真陰性」と呼ばれます。

以上の関係を、本書の80ページを少し改変して示しますと次のようになります。




同じことを別なように表現したのが次の図です。



もし「陽性」と判定されたら、あなたがやるべきことは本当に病気でありかつ陽性判定が出る人(真陽性)の数と、病気ではないのに陽性判定を受ける人(偽陽性)の数を比べることです。

私たちはとかく目立つ数字(例えば90%)だけを取り出して、他の数字を無視したり理解できなかったりして、目立つ数字ばかりに振り回されてしまいます。これは怖いことです。また時には専門家(とみなされている人)も、上記の真陽性・偽陽性・偽陰性・真陰性の概念を理解できず、次のように言ってしまい、無用の悲劇を起こすこともあります。本当に怖いことです。以下は、この本のにあるエイズ(HIV)についての二つの見解です。


「検査結果が陽性だということは、あなたの血液のなかでHIVの抗体が見つかったことを意味します。これは、あなたがHIVに感染しているということです。あなたは一生、感染者で、ほかのひとにHIVをうつす可能性があります。」 ― イリノイ州保健局

「もし、結果が陽性だったら自殺する。」 ― ある受診者






■「リスク」と「不確実性」の違い

以上の例では様々な数字が出ましたが、このように経験的データに基づいて確率や頻度のように数字で不確実性を表すことができるとき、私たちは「リスク」について語っています(49ページ)。この本が勧めているのはこの「リスク」についての理解力(リスク・リテラシー)を高めることです。

これに対して、経験的証拠がなくて、考えうる結果のそれぞれに数字をあてはめることができない、あるいはあてはめることが好ましくない状況では、私たちは「不確実性」について語っています(49ページ)。今、さまざまな数字が出回っていますが、私たちはそもそもその数字が「リスク」についてのものなのか、「不確実性」についてのものなのかを見極めておく必要があります。「不確実性」に基づく数字なら、それは予測というより憶測と呼ぶべきではないでしょうか。




■「由らしむべし知らしむべからず」よりも「考える市民を育成」

今回の福島原発問題では、政府がきちんと、かつ迅速に情報公開しているのかという疑念が寄せられています。しかし、一般市民はどうせ細かいことは理解できないのだから、一般市民は政府広報をだまって信頼するべきだ(「由らしむべし知らしむべからず」)といった態度は、これだけ世界が緊密に結びついている現代においては通用しません。そんな態度は日本の市民だけでなく、世界各地の市民・組織・国家が許しません。

しかしそうはいっても、一般市民の間では理解能力に様々な程度が存在します。中にはこういった理解をどうしても不得手とする人もおり、そういった人に対してはまさに「由らしむべし知らしむべからず」という態度が正しいのではとすらも思えます。でも、今回のように高度で複雑で広範囲に影響が及ぶ問題では、日本・世界の様々な市民層に理解を促し、それぞれの立場での協力を求める必要があります。様々な人々がそれぞれに理解を深め、賢明な行動を取る必要があります。

一方で私たちは「政府や東電はしっかり伝えろ」と要求します。しかし他方で私たちはお互いに「しっかりと理解しよう。誤解を避け、憶測ばかり語るまい。とりわけデマをとばすことなどは絶対にやめよう」と自らに努力を求めるべきです。(ちなみにTwitterのデマ発信源は、Googleリアルタイムを使ってすぐに特定できます(http://ebilog2009.seesaa.net/article/191045647.html))。

この本は、トーマス・ジェファーソンの言葉を引用しています。

社会の究極的な権力を安全に委ねられる対象として、人民以外には考えられない。もし、人民が充分な思慮をもって支配権を行使するほど賢明ではないと思うなら、対応策は人民から権力を取り上げることではなく、人民に思慮を教えることなのだ。(347ページ)


Wikipediaには、この原文がありました。


I know no safe depository of the ultimate powers of the society but the people themselves; and if we think them not enlightened enough to exercise their control with wholesome discretion, the remedy is not to take it from them, but to inform their discretion by education. This is the true corrective of abuses of constitutional power.

Letter to William Charles Jarvis, (28 September 1820).

http://en.wikiquote.org/wiki/Thomas_Jefferson#1820s



今、日本国民全員の啓発が必要です。さもないと無用の不安などの心理的な害、そのストレスからの病気、風評被害、ひいては差別といったさまざまな問題が生じかねません。教育者はいまこそ静かに落ち着いて学ぶことの重要さを伝えるべきかと思います。精神的に強くなるだけでなく、科学的な理解も国民全体で向上させることが日本に必要だと私は考えます。

英語教師など外国語を使える者はそれに加えて、諸外国民にきちんと日本について説明する責務ももっています。この責務を今私は充分に果たせていませんが、自ら負うべき課題としてここに書いておきます。



『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法―初歩からベイズ推定まで (ハヤカワ文庫)



追記

間違いのないように書いたつもりですが、もし上の説明に間違いがあればご指摘ください。すぐに修正します。


追追記

いつ消えるかわからない動画ですが、「シーベルト」に関する総統閣下の見解は、思わず笑ってしまうほどの見事な作り込みの中で、科学的知識のコミュニケーションの重要性を説いています。これは見事な動画だと思います。








杉原厚吉(1994)『理科系のための英文作法』中公新書


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今回の原発事故ほど、高度なコミュニケーション能力の重要さが痛感されたことはありません。複雑で予測がつきがたいことを、記者会見や公式発表で的確・簡潔に伝えなければなりません。科学技術においては特にそのように精確・簡明なコミュニケーションが求められており、これまでも日本の科学技術者は、自らの研究に邁進する間の僅かな時間に、効率よく英語力を高めようと努力してきました。

私は「英語教師は理系に学ぼう」というシリーズで、理系の方が理系の読者に向けて書いた英語学習・英語使用の本を紹介してきました。そのなかでもここで紹介した『理科系のための英文作法―文章をなめらかにつなぐ四つの法則 (中公新書)』は素晴らしい本ですので、私はこれを学部ゼミ生への課題図書の一冊としました。

以下は、あるゼミ生によるまとめです。英語教師は、この優れた本(著者の杉原厚吉先生は工学者)に謙虚に学び、これからますます必要とされる高度な英語コミュニケーション能力を未来の世代に育てましょう。




0.文法の限界

正確な“文”を書くことにおいて、文法は非常に役に立つ。しかしその文法は、“文章”を書く上ではその力を発揮しない。論文を書く上で私たちに求められているのは、後者の“文章”、とりわけ、分かりやすい(=誤解のない、読者に迷惑をかけない)文章を書く力である。この本では、分かりやすい文章を書く上で必要な点が、大きく三点に分けて論じられている。



1.道標

文章を書く時、自分は書く内容についてよく知っている。どのような内容を、どのような道筋で、どのような例を出して説明しているか全て知っている。しかし一方で、読み手はほとんどその内容を知らない。どのような内容なのか、どのような論理の道筋があるのか、どのような例が出されているか、全く知らない。それは、知らない街を一人歩くようなものである。その不安を少しでも和らげるのが、「道標」である。今どこにいるのか、次にどこに・どっちに行けばいいのか、読者は知ることができる。


1.1接続詞と副詞

道標には、二つの種類がある:

1.1.1接続詞

接続詞には、二つの文を一つにする働きがある。つまり、隣接する二つの文の関係を示す物である。

1.1.2副詞

副詞は、二つ以上の文の間の関係を示す物である。この時、文と文がつながる必要はない。接続詞が、隣接する文の関係を示すのに対し、副詞は、複数の離れた、文・段落・章との関係を示すこともできる。

1.2道標が与える情報

以下に、道標が与え得る情報を15点列挙し、それぞれに例を示す。例には、a)接続詞とb)副詞(副詞句)を一つずつ挙げる。どちらかが欠けている場合、φを使って示す。

①帰結: and, hence
②理由:for, indeed
③逆説・対照:but, however
④焦点:φ, in particular
⑤情報追加:φ, also
⑥仮定・条件:if, supposing that
⑦動機:φ, to this goal
⑧類似:φ, similarly
⑨例:φ, for example
⑩言い換え・要約:φ, in other words
⑪話題転換:φ, by the way
⑫旧情報の確認:φ, hitherto
⑬先のことを指す:φ, in what follows
⑭視点・常識の共有:φ, fortunately
⑮列挙:φ, one… the other…




2.構造とその意味

文の構造は、正確な意味を伝える上で非常に大切である。構造が違うと、その表す意味も違う。構造と意味の関係は、言わば、容れ物と中身である。容れ物は、その形にあった物しか収容できない。自分の示したい意味にあった容れ物を用いることが、分かりやすい文章につながる。以下に、その容れ物=構造を支配する三つの要素について述べる。

2.1語句の結びつき

構造を支配する要因の一つは、語句の結びつきである。ある二つの語句の結びつきは、語句の間の“距離”で決まる。結びつきは、距離が短いほど強く、遠いほど弱い。名詞を例にして説明すると、以下のようになる。


・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
例)「鳥羽の兄弟船」と「鳥羽兄弟の船」
「名詞①」と「名詞②」とを「助詞」でつないだ形(日本の経済・暇な人)と、その「助詞」を抜いた形(日本経済・暇人)とを比較する。この時、「名詞①」と「名詞②」との“結びつき”は、後者の方が強いと言える。この法則を、先に挙げた例に当てはめると、「鳥羽」・「兄弟」・「船」の三つの名詞の結びつきによってどう意味が変わるかが見て取れると思う。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・


2.2動詞の用法

もうひとつの要因は、動詞の用法である。厳密には、「動詞の用法が定める文型」である。文型には、S・V・O・Cの組み合わせによる、五つの種類があるとされている(※1)。その中のどれを選んで使うかは、どの動詞を選ぶか、という点につながる。

※1・・・五文型の限界:目的格の“O”一つとっても、To不定詞・That節など様々ある。SVOの形を取る動詞の中にも、“O”がTo不定詞のもの、That節のものなど様々あるため、さらに細かい分け方が必要であると説く学者もいる(cf. A. S. Hornby)。

2.3ピリオド

2.1と2.2において、語句と語句の結びつきについて述べた。ここではもう少し大きな単位、節・文について述べる。節とは、それだけ取り上げると一つの文になる単位である。言い換えると、接続詞などで複数の文が結びついた時、それぞれの文は“節”になる。節と節との間にはピリオドがなく、文と文の間にはピリオドがあるという言い方もできる。この時、「節と節とのつながりの強さ > 文と文とのつながりの強さ」となる。



3.情報の新旧

1.2の⑫にもあるように、分かりやすい文章を書くには、旧情報の確認をすることが大切である。これは、⑫のような大きな単位においてのみ言える事ではなく、これから述べるように、一文一文の中でも大切なことである。

3.1情報提示の約束事

旧情報の確認や、新情報の提示の仕方には、いくつかのルールがある。

3.1.1旧情報は初めに出す

旧情報は、文の先頭にできるだけ近いところにある方が望ましい。英語には、エンド・フォーカスといって、後に来る情報に価値を置く傾向にあるためである。

3.1.2言及する旧情報を明確にする

旧情報の言及に、代名詞や定冠詞などを用いることがある。この時、定冠詞の後には指し示す対象の名詞が置かれるが、代名詞ではそれがない(定冠詞ではthe BOOK、代名詞ではitφ)。両者を比べると、定冠詞の方が言及する対象が明確である。このように、既出の名詞を繰り返し使うことで、指し示す対象を明確にすることができる。

3.1.3新情報はひとつずつ

一文につき、新情報はひとつずつ提示する。特に科学文章・論文では、理論の積み上げが大切である。一歩ずつ着実に結論に向かって論じ進めていかなければならない。


3.2文の視点

情報の新旧に関連して、文章の視点という問題がある。視点とは、誰の・何の立場から論じていくか、という点である。言い換えれば、その人や物などに対して、どれだけの共感度を書き手が持っているか、ということである。そして、その共感すべき人・物は、既出の旧情報であるのが普通である。共感度の大きさは、能動態・受動態と、以下のような関係がある:


①能動態(S≧O)・・・主語よりor中立
②受動態(S>O)・・・主語より(中立には成りえない)


このことから、「視点は主語に近い」ということが言える。これを踏まえて、視点に関して注意すべき点を以下に述べる。

3.2.1視点をそろえる

視点が中立である場合は問題ないが、文章中の視点は、できるだけ固定されている方が読みやすい。ここでは、視点がずれやすい点を三点指摘する。

①意味上の主語
To不定詞・分詞構文などには、意味上の主語が含まれる。文の主語と、これらの意味上の主語が違うと、それだけ視点がずれることになる。

②重文複文
文中に二つ以上主語がある場合、それらが一致している・中立を保っていることが大切である。

③文章を通して
文には視点がある。つまり、文章には、視点のある文がたくさん存在する、と言える。これらの視点は、できるだけ揃えなければいけない。

3.2.2共感度との矛盾

主語の中には、特殊な共感度を持つ物がある。それらを使うときは、3.2の①・②の法則と矛盾しないように気を付けるべきである。ここでは、二点に分けて説明する。

①所有格における視点
所有格は、それ自体に視点がある。his dogとくれば、視点はdogではなく“he”にある。つまり、he>dogと言える。したがって、*His dog was hit by him.とは言えない。3.2の②:受動態の時の共感度の大きさと矛盾するからである。

②一人称の視点
一人称主語:Iは、最大の共感度を持つ。世界で最も共感することができる人は、自分だからである。つまり、「私いがい>私」の不等式は成り立たない。よって、*The dog was hit by me.とは言えない。

3.2.3例外

動詞の種類によっては、視点の取り方に例外がある。以下にその例を示す。

①S<Oの形を取る(Come)
能動態で使っても、Oに視点を持たせる動詞がある。

②中立を表せないもの(Meet)
能動態でも、中立を表せないものがある。例として、meetが挙げられる。A meets Bでは、視点が「A>B」になる。中立を示すには、A and B meetとしなければならない。










英語教師であるということはどういうことか:学生さんのレポートから


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(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)



今回の東北関東大地震で、日本が世界に向けて、もっとも通用性の高い言語と考えられる英語で広報をしてゆくことが重要であることが再認識されました。放射能や株式市場などは、国境と言語の壁を越えて、世界中に波状的に影響を与えます。その際に重要なのは、責任者が明確な言葉で状況を説明することです。

これほどの重大事は滅多に起こらないでしょうし、またそう願うばかりですが、低い程度なら、今後、日本語話者が英語で的確に物事を伝え、相手方からの疑問・質問に答える必要はどんどん増えてゆくでしょう。それがグローバリゼーションの一つの帰結かと思います。良い悪いの価値判断は抜きにして。

英語教師を目指す、SK君とUHさんは、英語教師であることについて考察してくれました。

SK君は、ずっと英語教師を目指していながらも、まだ、なぜ自分は英語教師を目指すのかを心底得心することができていませんでした。今回の授業を通じて彼なりに考え以下の文章をまとめてくれました。もちろん彼の思考はこれで終わりでなく、これからどんどん深まり、広がり、展開するでしょうが、現時点での彼の答えをお読みください。





「言語コミュニケーション力論と英語授業」レポート


SK



【はじめに】

 この半年間の授業を受けて、私はたくさんの「コミュニケーション」あるいは「言語」に対する考え方に出会いました。もちろん、きちんと理解できたものから、今一つ理解しきれなかったものまであると思います。しかし、それらの考え方に触れられたことで、自分のなかに変化が起こったことは間違いありません。
 
 それらの変化のなかで、私にとって最も大きかったことは、自分の中に「自分が英語教師を目指し、そう在り続けていく理由」が一つ見つかったことです。授業を受ける前まで、自分のなかで「なぜ教師を目指すのか」という問いに対する答えはいちおう持っているつもりでしたが、では「なぜ英語の教師なのか」という問いに対してはきちんと答えられる自信がありませんでした。せいぜい「英語以外は教えられないので」くらいだったろうと思います。しかし、今はそのことにいちおうの答えを出すことができると思います。このレポートで、私はその「答え」と、それを得てから思うことを書いていきたいと思います。


【ことばの教師として子どもと接すること】

 英語教師を目指していく理由の一つとして、私が授業を通して見つけたものに「ことばの教師として子どもに接していく魅力」と言うものがあります。これは、内田樹さんと片山洋次郎さんの考え方を学んだときに強く思ったことでした。
 
 英語教師としてやっていくうえで、英語という特定の言語を教えることは第一義的に大切なことだと思います。しかし、それと同じくらいに「自分はことばを教える教師なのだ」ということを忘れたくないと思いました。この「ことばを教える」というのは、言語知識そのものはもちろん、言語が持つ力の可能性やその限界、その使い方などをも示していくということです。
 
 授業のなかで、「非言語的なシグナル」というものの存在に触れました。そこから、「子ども(人)は、色々なシグナルを出している。もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズをあえて引き受けるか、それとも面倒だから切り捨ててしまうのか、我々には二つの道がある」という考えに出会いました。教育者を目指すのであれば、当然ここでは「あえて引き受ける」という道を選ぶべきだと思うのですが、そのために必要なことが二つあると思います。
 
 まず一つ目は、その解読不能で声になっていないノイズに出会ったときに、「この子は、きっとその子にとって意味のある何かを伝えようと頑張っているはずだ」という確信を持つことです。これは、今回の授業で言えばDavidsonのtruth概念に基づくことだという言い方ができるでしょうし、語用論の授業で習ったことで言えば関連性理論に基づくことだという言い方ができるでしょう。どちらにせよ、目の前の子がよくわからないことを口にしたとしても、ほとんどの場合その子はその子のなかの伝えたいことを、一生懸命に表現しようとしているんだという確信を持って接していくことが大切だと思います。そうでなければ、我々はそのノイズを無視してしまい、子どもが懸命に形にしようとしている気持ちや考えにフタをしてしまうことになるでしょう。それは、ことばの教師としてしてはならないことです。
 
 二つ目に、自分のコミュニケーションに対する態度を振り返ってみることが必要だと思います。そのときにチェックすることは、コミュニケーションが「もとから価値のある何かを、聞き手と話し手で交換しあうこと」だと思っていないかどうかということです。もちろん、コミュニケーションにはそういう側面もあるでしょうが、もうひとつ大切な視点は「コミュニケーションとは、お互いの関わりのなかで価値あるものを創出していく営み」でもあるということです。これは、私も授業のなかでハッとさせられた視点でした。
 
 前者のような視点しかもっていなかったとしたら、相手が言うことに目に見える意味や価値がなかった場合、その関わりは無意味だったということになってしまいます。たとえば、授業中の発問に対して「わかりません」と答えた生徒の発話は、この視点に立てば無意味です。その「わかりません」自体には求められている答えは含まれておらず、つまり価値がないからです。しかし、もし我々が後者の視点に立つならば、その「わかりません」は必ずしも無意味な発話ではありません。たとえその子がその時点でわからなくても、そこからの関わりの中でわかっていけばよいだけのことであって、そのなかで価値ある答えを共に作っていけばよいからです。
 
 このことと同じように、どんなときも目に見える価値をコミュニケーションや相手の発話に求め続けていくならば、声にならないノイズは無視されてしまうでしょう。それゆえに、「コミュニケーションとは、お互いの関わりのなかで価値あるものを創出していく営みである」という視点を持つことが大切だと思うのです。
 
 こうして考えていくと、ことばの教師として子どもと接するということは、子どもの心に言語という切り口から寄り添っていくことだというふうに思えます。言語について、あるいはコミュニケーションについて、きちんと学んだ英語教師だからこそ、先に述べたような視点を持ちうるのだと思います。授業のなかで「思いが言葉にならなくて、グズグズと堂々巡りをしている子を『それでいいんだよ』と認めてあげること」という言葉がありましたが、この姿勢こそが子どもの心に言語の面から寄り添っていくということに不可欠なものの一つだと思います。そうやって、子どもたちの言葉を探す能力を伸ばしてやることが、我々ことばの教師の大きな仕事の一つだと思います。
 
 このような視点に立って子どもたちに教えてやれる能力は、一生彼らを支え続けるものであり、ずっと彼らの中に残っていくものだと思います。そのようなものを育んでいくことに魅力を覚えるがゆえに、私は英語教師になりたいと思うのです。
 

【英語の教師として子どもと接すること】

 さて、ここまで「ことばの教師として」ということに関して述べてきましたが、ここからは「英語教師として」ということについて述べていきたいと思います。
 
 英語の教師になるとなれば、一番に聞かれるであろう質問として、「なぜ英語を教えるのか」が考えられます。このレポートの冒頭でも述べたとおり、この問いは私にとってとても重たいもので、答えがなかなか見つけられずにいました。そんな私が今回授業を通して見つけた一つの答えは、「生徒に英語を通して自分を耕してもらうため」というものでした。
 
英語教師がことばの教師としての性格を持ち、子どもたちに言語の面から寄り添っていくことが可能であるのなら、彼らの自己表現のための手段を増やしてやることも、大きな仕事の一つではないでしょうか。子どもたちは成長していく中で、日々新しい感情に出会います。それらは初めて出会うものであるがゆえに「なんと言っていいのかわからない感情」であることもしばしばだと思います。とりわけ、思春期の子どもたちはそれまでの自分にはなかった、より複雑な感情と日々葛藤していくことになります。そんなときに、言葉にしたいのに言葉にならない気持ちにもどかしさを覚えることでしょう。ことばの教師としての仕事の一つは、そんな子たちに自己表現の手段を与えてやることです。

 自己表現の手段を増やすと言っても、何も「日本語で言えないなら、英語で言いなさい」と言っているわけではありません。英語を教えることは自己表現の手段を増やすことに繋がると思いますが、それは必ずしも英語で自己表現することだけにとどまらないと思います。日々の生活のなかで、様々な機会において日本語を学んでいくなかで、英語という外国語の一つに触れることで、自分の言葉の視野を広げてほしいと思うのです。日本語だけに触れていたのでは、なかなか出会うことのない言いまわしや表現に触れていくことで、「へぇ、英語ではこうやって言うんだ!」とか「こんな言い方は日本語にはないなぁ」という気持ちを抱き、そのなかで彼らは自分を耕していくのだと思います。
 
 私自身の場合を思い返してみても、このような気持ちを抱いたときに一番感動を覚えていました。最近のことでいえば、大学2年生のときに留学に行った際、「なるほど!」と思う表現に出会いました。それは”Nice to see you”でした。もちろん、日本にいる時からこの表現は知っていました。しかし、私はこの表現は人と出会ったときにのみ使うものだと思っていたのです。そして、留学先でこの表現は人と別れる時にも使うんだということを知りました。自分が帰国する日が近づいて、色んな人から”It’s so nice to see you”と声をかけてもらったとき、泣きそうになるほど嬉しかったのを覚えています。それまで日本語でお別れを言うとき、「あなたに会えて本当によかった」という言葉など思いつきもしませんでしたが、その経験後はその言葉が私の、相手と別れに際して自分の感謝や喜びを伝える言葉として根付きました。
 
 この体験は、私のなかで英語を通して自分が耕された例の一つだと思います。私はこのような経験をたくさんの子どもたちにしてもらいたいと思います。何も英語が至上のものだとかいうわけではなくて、あくまで日本語以外の言語の一つとして。英語というもう一つの言語に触れることで、自分の日本語や日本語の思考回路を見直し、再構築していく。そのなかで、自分の中のもやもやしていた気持ちをスパッと言い表せる言葉に出会って、「あっ!」という驚きや感動を得る。そのような体験を積み重ねていくことによって、耕され豊かになっていく自分の感性、深くなっていく自分のなかの言語に気付いてほしいのです。もしかしたら、その言語はもはや日本語でも英語でもないかもしれません。英語の匂いのする日本語、日本語の色の混じった英語かもしれません。しかし、こだわるべきはそこではないと思います。大切なことは、子どもたちが確かに自己表現の手段を得たということです。そして、その手段を通して見えてくる景色や世界を知ってほしいと思います。
 
 英語教師として英語を教えていくなかで、子どもたちの目に映る世界が昨日と一味違っていたとしたら、それは素晴らしいことだと思うのです。そのために大切なことは、未知の表現や言葉との出会いを、できるだけ素敵な形で子どもたちに与えていくことだと思います。それが、自分の授業力を高めていくモチベーションにもなると思います。


【終わりに】

 ここまで、授業で学んだことを通じて自分の考えたこと、見つけた答えを書いてきました。まとめると、私は「ことばの教師」をして、子どもの心に言語という切り口から寄り添い、また「英語の教師」として子どもたちが自分を耕して、自己表現の手段を広げていく手助けをしていきたいがゆえに、英語教師を目指していきたいのです。この考えを得られたことは、これから教員採用試験に臨む身である私にとって、大変意義のあることでした。ここでまとめた考えを大切に、またさらに高めていけるように、残りの大学生活を送っていきたいと思います。ありがとうございました。

 






次はUHさんです。彼女は田尻先生の実践に非常に啓発され、「よい英語教師」とは何かを分析しながらも、田尻先生に憧れ真似をするだけではいけないことを十分に自覚しています。彼女の考察をお読みください。




「よい英語教師」の条件
―田尻先生の授業実践を通して―



UH



1.はじめに

 今回のこの授業で、田尻先生の授業のDVDを拝見して、とても感銘を受けたのと同時に、私なりに多くのことを学ぶことができた。
 
 そこで思ったのが、田尻先生のような「よい英語教師」になるための条件とは何であろうか。一口に「よい」と言っても、その定義は曖昧なもので、英語教師の目線から見たり、生徒の目線から見たり、また、親の目線から見たりすることで、人によって違ってくるはずだ。それなのに、多くの人から田尻先生が「よい英語教師」として認められているのには、何かしら一般的に共通する「よい英語教師」たる根拠が存在するはずである。授業の中でのディスカッションや柳瀬先生のお話を受けて、私なりに考えた「よい英語教師」である条件を以下に述べていく。そして、最後に私が将来英語教師を目指すにあたってこれから心がけていきたいことについて述べる。


2.目標が常に明確である

 一つ目の条件として挙げられるのは、「目標が常に明確である」ということである。目標とは、毎日の50分授業、1学期、または1年間、そして3年間など、短期間から長期間に渡るものをここでは指す。
 
まず、最初に教師が自分の中にしっかりとした目標計画を立てることが重要である。初めに、最終的に到達すべきゴールを設定するのである。1年間が終わったらこういう力をつけさせるようにしたい、というような長期目標から立てると、そのためにはどの時期にどのような活動に力を入れたらよいかというような具体的な学習計画が見えてくるようになる。この目標はあくまで最初の段階の計画であるから、実際の生徒の反応や学力や進行状況に合わせて、変更できるようなある程度の柔軟性を持たなければならない。しかし、一方で、その都度簡単にぶれてしまうと、目標の意味をなさなくなってしまうので、教師の中に絶対に譲ることのできない、一本のしっかりと通った軸を持つことが重要である。

 そして、次に、その目標が生徒にとっても明確であることが大切である。50分の授業の中で、教師が最終的にどういう方向に持っていこうとしているのかを生徒がはっきりと理解して、その目標に向かって教師が上手く動機づけを行いながら教えていくことができれば、クラスの中に必ずよい雰囲気が生まれるはずである。目標が目の前にはっきりと見えていることによって、初めて、生徒も頑張ることができるのである。


3.教師自身がいつも「学習」している

二つ目の条件として、学ぶ側の生徒だけでなく、教える側の教師も常に学んでいるということが挙げられる。ここで言う「学ぶ」という言葉には次に挙げる三つの意味がこめられている。

3-1.専門性

まず、一つ目に「専門性」である。英語教師は英語を教えることを職業としている。生徒に間違った英語に関する知識を教えることは決してあってはならない。ということは、確かな英語力を備えていることは必須条件である。英語力といっても、ただ単にTOEICで満点とれるとか、英語検定1級とれるとかいうようなそういった意味での英語力だけではなく、新しい文法事項を上手く他の文法事項と繋げて、体系的に、かつ分かりやすく教えることができるとか、文章の内容に合わせた文章の読み方を教えることができるとか、いろいろな質問をぶつけてくる生徒にでも対応できるような「英語教師」としての英語力、または説明力を身につけることが重要となってくる。そのためには、教師としての経験がものを言うかもしれないが、日々、自分で英語力を鍛える地道な努力を続けること、また、積極的にセミナーなどに参加して、いろいろな英語教師の教育実践に触れて、そこから自分の考えを深めていくなど、できることはたくさんある。教師になってからも、一生、英語力と説明力を高めようとする姿勢が大切なのである。

3-2.人間性

次に、「人間性」である。田尻先生はあのコロコロ変わる、豊かな表情を作り出すために鏡の前で何回も練習したとおっしゃっていた。田尻先生は「教師はエンターテイナーである」とおっしゃっていたが、似たような、有名な言葉に「教師は役者であれ」とあるように、教師は生徒の前では多少本当の自分とは違っているとしても「英語教師」としての仮面をある程度演じることが必要なのかもしれない。私は、田尻先生が実際にはどのような人物なのかは詳しくは知らないが、DVDを通して見る田尻先生は、たいていとても素敵な笑顔をしていて、一人一人と話す時など、真剣な時は、とても鋭い目で生徒を見つめ、テンポよく、聞いていて心地のよい英語で授業を進行し、生徒の答えに対してはオーバーリアクションで返して、クラスの雰囲気を盛り上げていた。私の見た限りでは、田尻先生は生徒にとって、魅力と人間性溢れる英語教師そのものであった。田尻先生はそういった教師としての自己像を実現させるための努力も欠かすことはないのである。

3-3.生徒から

最後は「生徒から」学ぶということである。上に述べたように、いかに自分の英語力や教師力を上げるための努力を積んだとしても、実際の授業で上手くいかないことはたくさんある。その時は、生徒の実態をしっかりと掴めていないのかもしれない。生徒がどこでつまずいているのか、また、どうしてついてこられないのかをしっかりと調べて分析し、そのたび、自分の方法に軌道修正を加えていくことができる。また、他のクラスでは上手くいったのに、また違うクラスでは上手くいかないこともある。ゲーム形式にした方がやる気を出したり、グループ学習の方が向いていたり、個人学習の方が向いていたりなど、クラスによってそれぞれに適した学習方法があるからだと考えられる。そういったことも、実際に授業をすることから教師は学んで、自分の教育実践に活かすことができるのである。また、生徒は日々、いろいろなことで悩んでいる。勉強のことだけではなく、友人関係、進路、家族との関係など、考えることは他にもたくさんあるわけである。そういったことが生徒の学習意欲に影響を与えることは簡単に起こりうる。授業内に限らず、授業外でも生徒一人一人と向き合って、実態を知ることも大切である。教師は生徒に教えるだけでなく、常に生徒から学ぼうとする姿勢を持ち、そこから自分の教師としての成長に繋げることができるのである。


4.生徒との信頼関係を確立

 次に、生徒との信頼関係を確立することも大切である。生徒に英語力をつけさせるためには、生徒にある程度の訓練を強いたりなど、強制的にさせなければならないこともよく起きてくる。しかし、生徒との意志疎通をはかろうともせずに、教師からの一方通行の思いだけで、生徒に何か活動をさせようとしたら生徒がついてくるはずもない。そのような教育実践は上手くいくわけがないのである。クラスの中にも、英語に対してすごくやる気のある生徒もいれば、英語があまりできなかったり、大嫌いな生徒もいる。教師を嫌う生徒もいるだろうし、勉強や学校自体が嫌いな生徒もいるかもしれない。しかし、そういった生徒達のことも決して見捨てたりせずに、一人一人と向き合おうとする姿勢を田尻先生は持ち続けている。たとえ、生徒達が心を開いてくれなかったとしても、粘り強くそういった子どもたちに向き合おうとすることから、初めて生徒との信頼関係が生まれるのである。


5.試行錯誤の繰り返し

 今や、日本だけでなく、アメリカでも「カリスマ教師」としてとりあげられるくらい有名になった田尻先生であるが、最初から成功した、順風満帆な教師人生を送ってきたわけではないと本人は語る。田尻先生が教師になりたての頃の英語の授業は、ただ教科書の本文を暗記しろと命令するだけのスパルタな内容、力を入れて指導していた野球部は、いい成績を残すことはできたものの、卒業する時になって、野球部員達に「頑張る力となったのは先生への恨みです」というあまりにも残酷な言葉を突きつけられたという、そういった壮絶な過去を持っているのである。
 
 そのような過去があるからこそ、田尻先生は「自分は変わらなければならない」と考え直して、努力を積み重ねて、今のカリスマ教師の姿になったのである。つまり、常に成功体験ばかりだと人間は大きな成長をすることはできない。大きな失敗を経験することで、何故上手くいかなかったのかを真剣に考え、原因を探り出し、そこで初めて、自分に足りないものに気付いて、大きな成長を遂げることができるのである。しかし、私は、よい教師になるためには、必ず、大きな失敗をすべきだと言っているわけではない。日々の中でも、何か新しいことに挑戦してみて、失敗したり、上手くいかなかった時に、その原因をしっかり分析して、次に繋げることを当たり前にできる人が次のステップへと成長できるのである。


6.まとめ

 ここまで、私が思う「よい英語教師」の条件を4つ述べてきたが、結論として言いたいのは、これらの条件全てに当てはまろうとする必要はないということである。田尻先生だからこそできること、逆に田尻先生にはできなくても、他の英語教師ならできることもある。結局は、それぞれの教師の個性に合わせた教育実践をしていくことが何よりも重要である。
 
 よい英語教師の教育実践を目の当たりにして、そういう姿になりたいと思ったとしても、理論を理解せず、また、十分な経験も持たないまま、ただその真似をするだけでは上手くいくはずがないのである。どんな時でも、自分の頭の中でしっかりと理論を立てながら考え、実験的にいろいろなことに挑戦してみては、失敗するということを繰り返していって初めて、自分の個性に合った方法を見つけて、自分なりのよい教育実践に繋げていくことができるのである。
 
 私は、これから「よい英語教師」に一歩でも近づいていくために、まず、自分のことを知ることから始めたい。私の個性とは何か。私の長所は何か。私のどういった個性や長所を英語教師という職業に活かすことができるのか。逆に、私が思い描く理想の英語教師になるために、今の私に足りないものは何か。どうしたらその欠点を補っていくことができるのか。これらの問いに対する答えをすぐに見つけることはなかなか難しいことではあるが、こういった小さいことを考えることから始めていきたい。










英語授業を具体的に分析し、自省する:学生さんのレポートから

授業を具体的に分析し、自省する:学生さんのレポートから



日本赤十字社が東北関東大震災義援金を受け付けています
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)


YRさんとHAさんはやや具体的に英語授業を分析してくれました。YRさんは、蒔田守先生、田尻悟郎先生、和田玲先生の実践を彼女なりに分析し、その三人に共通するのは、①一貫した、長いスパンでの目標設定、②生徒のモチベーションをあげるための工夫、③教師と生徒の信頼関係、だと考えました。彼女の分析をお読みください。




優れた授業実践の分析と考察


YR



1. はじめに

昨今の英語教育では、文法訳読重視の所謂古いタイプの授業から、よりコミュニカティブな授業が求められるようになってきている。しかし日本語と英語のバランスをいかに保つのか、何をどのように指導すればよいのか、ということははっきりとは示されていない。自分自身も、昨年の教育実習の中で最も悩んだのは、生徒に学ばせたい内容をどのように(どんな方法で)教えればよいのか、ということである。大学においても様々な理論や文学について勉強できるものの、具体的な細かい指導法に関してはあまり詳しく授業の中で学ぶ機会は正直なところあまりない。

そこで本レポートでは、自分が将来教師を目指すにあたり、少しでも理想的な授業スタイルについて考えるためにも、授業で見た実践のような、授業力を高く評価されているような先生方の授業実践について自分なりの分析を行い、それに考察を加えていきたい。このレポートにおいては特に、蒔田守先生、田尻悟郎先生、そして先日講義を受けさせていただいた和田玲先生の実践について考えていきたい。


2. 実践分析

2.1. 蒔田守先生

まずは初めに蒔田実践についての分析を行いたい。

授業においては、中学段階の3年間を通して、英語学習初期段階から、聞き手を意識したSpeakingへ発展させるための授業の実践を見た。3年間の各段階における実践内容をまとめると、1年生段階では教師があらかじめ持つ音声学等の知識を駆使しながら英語の基本的な音声知識を徹底的に指導し、生徒に英語らしい発音を身につけさせる。詳しい流れは以下の通りである。


(1)口頭で単語の確認(発音、リンキング、ストレスなどの指導も)

(2)リズム音読

(3)教科書CDリスニング

(4)T→Ssリピート

(5)リズムに合わせてリピート

(6)音読×3回→指名された生徒音読

(7)BGM音読


2年生段階においては教科書の文章の内容を、ただつらつらと音読するのではなくそれに適したBGMを流しながら他の生徒に向かって読む練習を重ねることによって聞き手を意識しながら読むことを意識させる。そして先の2年を経験したのち3年生段階においては、生徒一人ひとりが自分の読み方のスタイルを確立し、与えられた(教科書の)文章を、意味を立ち上げながら聞き手に語りかけていた。

(本講義の)で振り返りでも多くあったように、蒔田実践では3年間での一貫した目標実践が際立って優れていたように思う。「音声・文法ルール→読み手の意識→自己流スタイルの確立」と、Widdowsonの言葉を借りるならば、objectを一つずつ達成していくことでaimへと近づいていくプロセスが組み立てられていた。筑波大学附属中で指導されているということなので、生徒がもともと持っている潜在能力ももちろん関係しているとは思うが、基礎からの積み重ねが丁寧にされていることで、3年時での生徒の英語は、学習段階から習得段階にかなり発展していた。

2.2. 田尻悟郎先生

次に田尻実践についての分析を行いたい。田尻実践の特徴として、特に私が感じたのは生徒の心の部分への配慮が細かいということである。授業で見たプロフェッショナルのDVD
は編集の効果も多少あると考えうるが、各場面において各生徒に、的確なタイミングで指導を行っていた。

以前履修した教職系の授業において、「授業(教科指導)は生徒指導をするための絶好の機会だ」という話をきいたことがある。その内容として、私たちは教科指導を通して生徒に学力だけでなく、社会人としての資質を身につけさせる必要があるということであった。田尻実践はまさにそれにかなったものであり、あの短いDVDの中でもそれぞれの生徒の内面の揺れ、そして自己成長が垣間見ることができた。そしてその根底にあるものとは、やはり田尻先生と生徒たちの信頼関係である。そのような信頼関係を築くためには、授業だけでなくそれ以外の時間の中でも積極的に生徒を知ろうとする姿勢が求められると思う。DVDの中にも、田尻先生と男子生徒が休み時間にじゃれあう光景が写っていた。

日本英語検定協会のホームページ(http://www.eiken.or.jp/eikentimes/lounge/200805.html)に、田尻先生が自身の実践についてのインタビューに答えているものがあった。そこでも述べられているように、田尻先生は過去の教師生活において挫折・失敗や他の教師からの刺激を経て、今の、教師としてのスタイルを確立された。生徒が学びたいこと、生徒が学習の末できるようになること(これもaimとして捉えることが可能かもしれない)を提示していくことで、生徒にやる気を失わせないようにされている。

 英語教育に携わる人の中には、近年の中学校の授業ではゲーム性に力を入れたアクティビティーにこだわりすぎて中身がないというような意見もあると聞く。しかし、田尻実践の中ではアクティビティーというよりも、一つひとつの学習活動にゲーム性を持たせることで、生徒に勉強事態が楽しいと思わせていた。優れた実践を見ると、生徒が楽しむことこそが最優先だという風に考えてしまうこともあるが、生徒が楽しんでいるのはなぜなのかということをまず考える必要があると思う。

2.3. 和田玲先生

 最後に和田玲先生の実践についても分析したい。和田先生の実践の中では、高校の授業ではあまり徹底的にやられることのない音読に力を入れた実践が行われていた。この実践の中でも「ただ読む」ことからの発展を目指すために様々な工夫が見られた。
 
 まず大前提として、和田先生の授業では、生徒は家で予習をしてくる必要はない。授業の流れを追っていくと、以下のようになる。(ただし残念ながらこれは実践の中のほんの一部である。各段階において、生徒の学習状況を把握するために、終わったら机をたたくなど音や動作で示させるという工夫があった)
 

①いくつかの単語を教師が板書し、それを生徒が二人組で交互に英語で説明しあう。(その単語選択にもちゃんとした意図があり、教科書の新出単語やその内容に関するもの)

②フィードバックとして意味だけでなくcollocationや類義語等を提示する。(生徒に自然な形で知識を与えている)

③単語の意味を覚えていかペアで口頭でテスト

④単語(熟語)群からその日の教科内容を推測する。 (生徒の答えの中で面白いものやほぼ正解に近いものを紹介させる)

⑤教科書の内容をCDで聞かせ、与えた質問への答えを書かせる。(英語の苦手な生徒にも解けるもの、得意な生徒の腕試しとなるものと、難易度に段階あり)

⑥2回リスニングしたのち初めて教科書を開かせる→黙読 (この際に文章の訳も与える)

⑦段階づけた音読を繰り返していく (だんだんとCDの速度についていけるようにゲーム性を利用して読む速度をあげている)

⑧最終的にCDよりも速く読めるようになる

⑨もう一度CDを聞いてみる

 (始めに比べかなりゆっくりと聞こえるように感じる)

 
先に述べたように上に挙げた行程は授業の一部にすぎないが、約1時間という短時間においても「できた感」があり、生徒は少なからず自分の伸びを感じることができる。何度も何度も音読というアウトプットを繰り返す中で自分の中に内容が定着していくのであるが、タスクにおける負荷も徐々に大きくなっていくため生徒は飽きることなく音読を繰り返す。

また、この授業を受けた後に生徒は各自家で復習をしてくることが求められる。内容としては、①教科書CDをディクテーション②和訳③音読(最低20回)④フリースペース(感想などを書く)である。このように授業の内外において徹底的にインプット(主にリスニング)とアウトプットを繰り返すことによって内容の定着とともに英語表現が自然と生徒の中に残っていく。生徒のフリースペースでのコメントにも見られたように、この授業を終えたのちに生徒たちは自分の伸びを確信している。そしてそのことにより更なる英語学習へと動機づけられ、自ら英語力を伸ばしていく。生徒にとってはつまらない作業である音読を、いかに工夫していみづけることができるのか。単に構文を教えて実力を伸ばすのではなく、いかにして言葉のリアリティと生徒を出会わせることができるのか。


3. 考察

 上に挙げた3つの実践の中で共通していることは果たして何なのか。自分なりに共通点を考察してみた。
 

①一貫した、長いスパンでの目標設定

②生徒のモチベーションをあげるための工夫

③教師と生徒の信頼関係


まず①に関して言うと、どの実践においても教師側に明確な目標設定がされていた。また、それが明確であるがゆえに生徒もそれを読み取り、教師に従っていた。たとえ1時間ずつの各授業の目標設定が上手くいったとしても、毎回ばらばらであれば結局一回限りの実践で終わってしまう。一貫した指導を根気良く続けていくことによって生徒の真の学力をみることができる。

次に②に関して言うと、どの授業も生徒に達成感や上達感覚を味わわせることによって、生徒がもっと学習したいと前向きに感じられるような工夫が多くあった。和田実践においては、英語の苦手な生徒にも解ける問題の設定や、彼らの活躍できる場面を授業の中においておくことによって全員参加のできる授業づくりがなされていた。田尻実践においてもゲームで生徒同士を競わせることによって、ライバルに負けたくないという思いが生徒をかりたてていた。

最後に③の教師生徒間の信頼関係について述べたい。これは、英語教師に限らず全教師にとって最も大切なことである。信頼関係なくしてコミュニケーションなど成立するはずもなく、授業がうまくいくはずもない。授業を行うためには、生徒と教師のインタラクションは欠かせない。また生徒が教師を信頼することができなければ、いくら優れた実践を行うことができたとしても学力伸長の方ははたしてどうだろうか。田尻先生がDVDの中で告白していたように、教師へのネガティブな感情が学習の動機づけとなってしまったとして、彼らのその後にとって何の役に立つことがあるだろうか。生徒に媚びてしまってもいけないが、生徒と適切な距離を保ちながら良好な信頼関係を築くことができれば、英語の授業で教えるべき「コミュニケーション」が何なのかということも生徒は自ずと理解できるのではないだろうか。


4. 最後に

 これまで授業の後半で、いくつかの授業実践を見てきた。そして市場にも様々な優れた実践例を集めたDVDが出回っている。我々一人ひとりの教師に求められるのは、その実践をただまねて何となく「それなりの形」をした授業を行うことではなく、それらから自分にとって、自分の生徒にとって必要な情報・技術を学び、自分の授業実践に活かしていくことである。
 
 まだまだ実践経験も少ないため、考察で挙げたような①②③のポイントについてすぐさま応用をすることはできないが、それらを意識することで自分の授業スタイルを確立することができるのではと思う。







HAさんは、アレントを枠組みとして、自らの教育実習授業を振り返り、特に内容理解・朗読指導について考察しました。英語教育界はここ10年ぐらい音読が盛んになりましたが、音読を質的に高めた「朗読」については、まだまだ発展の余地があります。彼女の考察をお読みください。



自分の授業を見つめなおす
~アレント哲学「活動」の観点から~



HA


1.はじめに

この授業を通して何人かの学者の理論、コミュニケーションの持つさまざまな側面を学ぶことができた。9,10月に教育実習を終えたばかりの私たちにとっては自分の授業を客観的に見直す良い機会となった。

教育実習では、与えられた範囲を与えられた時間内に終わらすことが求められていたので、どうしても技術的なことにばかり気を配って、目標と活動が結び付いているか、ということにとらわれてしまっていた。実際、私が受けてきた英語授業も受験対策であったり、教科書ありきのものだったので、中・高時代は英語を言語として捉えるのではなく、暗記の教科というイメージが強かった。

そんな経験を何とかして撃ち破ろうとはやりの「コミュ二カティブ」という言葉に見合う授業を作ろうと意識していた。しかし実際授業を行ってみて得た感覚は自分が予想していたコミュニカティブなものではなく、生徒が押しつけられて教育実習生に付き合ってあげているというものであった。

その後この授業を受けてみて、自分の授業がいかに押しつけのものであったか、理論的に通用しないものであったかを痛感した。そのなかでも、アレント哲学の『『人間の条件』』の中の「行動的生活」に沿った田尻先生の授業の分析がとても興味深く、英語授業もやり方によっては「制作」ではなく、「活動」になり、より人間的なものになりうるということを感じた。そこで私が実際に教育実習で行った一授業を見直し、「活動」という観点から、英語の特性を生かし、生徒の人間らしさが見えてくる授業にするにはどのように改善することができるのかを考察する。


2.今回改作する授業案について

 2.1 実際の授業案
 
今回見直す授業の単元は、New Horizon 2 (東京書籍) Unit 6 ‘The story of Silent Night’ の第4時限であり、次の時間の朗読発表会につなげること、つまり強弱や抑揚をつけて英文を朗読することを目標とした授業である。(付録の単元計画参照)

 2.2 授業の流れ・内容
 
 まず、授業の前半はこのパートの新出文法である動名詞の導入を行う。その後、進出単語、本文へと移る。朗読をすることが目標なので、本文の内容理解はピクチャーカード4枚を使いながら、日本語訳を配布して素早く行った。その後本文を3つのシーンに分けて確認する。朗読のための指導は、教師が生徒に強く読む箇所に○を付けさせて練習させた。


3. アレント哲学

 3.1 「活動」とは
 
 今回取り扱うアレント哲学では人間の生活を「行動的生活」と「静観的生活」の2種類に分けた。アレントは『人間の条件』の中では「行動的生活」を扱い、「労働」「制作」「活動」の3つが大きな営みだと考えた。彼女の言う「活動」とは物の介在なしに、いろんな人間の中で自分らしさを表現することである。たいていの活動は、語り(speech)によって行なわれ、言語によって、私たちは相互の行為を理解するといってよいだろう。自己開示の場である「活動」には活力(power)が伴うもので、人間は本来、活力に満ち溢れた世界を望んでいる。
 
 3.2 英語授業の中の「活動」
 
 よい英語授業を見てみると、①複数性、②自己主張の場、③英語で自分の存在感を確立する、という「活動」の3つの条件が満たされていることが多い。
 
 最近の英語の授業は、「制作」的な面ばかりが注目され、テスト結果という生産物を生成することに重点が置かれがちである。もちろん英語の授業にはこの「制作」というものは欠かせない。しかし、授業が「制作」にばかり偏ってしまうと、それは人間的ではなく、機械的で無味なものになってしまう。また、教室には多様な生徒が存在するのに、個人差や個性を無視した授業展開となってしまう。
 
 そこで授業を活性化し、人間の営みらしくするためには「活動」が欠かせない。複数性が成立しているからこそ、そこには語りが生まれる。言語を扱い、言葉を通して自分の考えを述べ、仲間の意見に耳を傾ける。英語で自己主張するということは、自分の存在感を確立するために英語を使うということである。このように言語、コミュニケーションを教える教科である英語の授業において「活動」というのは本来切っても切り離せないはずである。


4.「活動」の観点からの授業分析

 「活動」の観点から見た授業の問題点を挙げる。今回は文法導入の部分についての見直しは省略し、内容理解・朗読指導の部分を見直す。
 

①生徒が物語に対するイメージを膨らませる時間を与えずに教師の解釈を押しつけている。

②登場人物の気持ちに同化する時間、指示がない。

③教師が朗読のポイント(強弱・抑揚)を明確に指示している。

④班での練習はただお互い聞きあうだけで、アドバイスを与え、改善し合うという意識がない。

⑤自分が物語に対して描いたイメージや朗読のイメージを仲間と共有する時間がない。

⑥次の時間にはそれぞれの持った物語の印象を「語り」として朗読するという意識がない。


大きく分けてこれら6点について改善できる方法を考えていきたい。


5.改善策

問題点①~⑥についてそれぞれ改善策を考える。今回は時間的な問題は扱わないこととする。

 5.1 問題点①について
 
 時間上の問題もあったが、生徒に日本語訳を配り、それを読むだけで物語の内容理解を終えてしまった。また教師がそれぞれの場面のピクチャーカードを見せながら時間に沿って物語を確認したため、すべての生徒の物語に対するイメージが似たものになってしまったかもしれない。
 
 これに対する改善策としては教師がピクチャーカードを見せるのではなく、それぞれの生徒に自ら何コマかの絵で物語を表し、1~2文でその絵を表現させるということができただろう。生徒1人ひとり物語の捉え方は違って当たり前なので、書いている絵のシーンや文も違ってくるが、それを仲間と共有し合うことで物語を読む面白さを感じることができるのではないか。実際に家庭教師の生徒2人にこれをやってもらうと、いつもは英語が嫌いで興味を示さない生徒が、なぜ自分はそのシーンの絵を書いたのかを熱心に友達に伝えていて、内容理解のいつもに比べてとても早かった。教師に押しつけられるのではなく、自ら内容を理解し、それを誰かに伝えるという活動が活気をもたらしたのではないだろうか。
 
 5.2 問題点②について

 私の授業においては物語の主人公、ヨセフとフランツの気持ちの変化や関係を考える時間が全くなかった。朗読を行ったパートの多くは2人の台詞で成り立っているので、朗読の強弱や抑揚には2人の心情の変化が大きく関係しているはずである。そこで2人の心情を確認するために、「ヨセフとフランツの心情変化グラフ」というものを提案したい。(グラフ1参照)


<グラフ1は省略します>


このように主人公の心情の変化をシーンごとに分けて捉えていくことで心情に合わせた朗読をすることができる。強弱・抑揚などはこのグラフと直結するところがあるだろう。このグラフも個人によって差が出てくる。グラフの個人差が物語の捉え方の差、さらには朗読の仕方の差につながり、「自分が感じたように読む」ということにつながるのではないだろうか。

5.3 問題点③について

教師が強弱・抑揚のポイントを生徒の意見を聞くことなく、○を付けるという形で押しつけてしまっている。教師が言ったとおりに朗読しさえすればOK、全く自分で考えることも要求されず、他の生徒の朗読との違いもないので、聞いていておもしろくない。これが最後の朗読発表会をつまらないものでしてしまった1番の原因でもあるだろう。

これを改善するためには、5.2で挙げたように主人公の心情をそれぞれが捉え、それに沿って朗読することもできるだろう。また、主人公の性格をいくつか設定し、それに合うように朗読するには?という投げかけを行うことでバラエティに富んだ個性が出る朗読ができるのではないだろうか。教室という違ったもの同士が集まった空間で全員に同じことを同じようにさせようとすると、つまらないものになってしまう。違っているならその違いを最大限に引き出して自己表現の場として教室を利用するほうが活力が生まれ、授業が生き生きとしたものになるだろう。

5.4 問題点④について

「語り」として相手に自分の朗読を聞いてもらうという意識を生徒に持たせなくてはならない。今、授業においてペア音読やグループ音読などがよく取り入れられるが、機械的なものとなってしまっていて、個人で読むこととなんら変わりがないこともよくある。

相手がいる、聞き手がいるということを意識して読むことでそれは音からメッセージへと変わっていく。たとえ相手が内容を知っていたとしても、特に物語の場合には読み手によって聞き手の捉え方が大きく変わってくるだろう。読み手の意識の育成だけでなく、良い聞き手、よいアドバイザーを育てることもとても重要だろう。

5.5 問題点⑤について

5.1~4にあったように、個人の考えを深める時間を設け、それを共有する時間を大切することが活動につながる。複数性の中で言葉を通じて自己を表現することは中学生にとって簡単なことではない。しかし、それを経験することで集団としての自分の立ち位置を確立し、人との関わりの中で生きていく練習をすることができるだろう。

5.6 問題点⑥について

生徒たちは朗読を強制的にやらされているという感覚を持っていただろう。自分が物語を読んでみて感じたように読むということがなかったので、そこに「語り」の側面を見いだせなかったのだと思う。私自身生徒に朗読するときに「語り」として読んでいただろうか、と考えると少し疑問である。

やはりまずは教師が自分の中に物語に対する解釈を持つことが大事であると感じた。最後の朗読大会でみんなの前で読んで評価されるから、という理由で生徒たちは朗読を練習していたと思う。他の生徒の朗読がどのようなものであるか、自分の朗読を聞いてほしい、とわくわくして練習していた生徒が一体何人いただろうか。評価のためではなく、朗読発表会で自分を表現したいと生徒がおもえるような段階的な指導が必要である。


6.まとめ

 以上のように自分の授業を振り返ってみて、どんなに「活動」ということを意識せずに授業を作ってきたのかを痛感した。特に今回は朗読の授業ということで「活動」に焦点を当てやすいはずであったのにもかかわらず、私の授業には活動と呼べるものが1つも見当たらなかった。生徒がつまらなさそうにしていた理由はやはりそこにあったのだろう。
 
 「活動」ということにこだわって授業を見つめなおしてみて最も感じたことは、教室という複数性を持つ空間の中で自己表現することの重要性とそれが持つ力である。もちろんこれは英語以外の授業においても考えなければならないことであるし、重要な点ではあるが、英語は言語であり、自分を表現し、相手とコミュニケーションをとる手段の1つになりうるということを考えれば英語の授業において「活動」を意識的に取り入れることは意味のあることだろう。
 
 技術的な指導法によって生徒の英語力が伸びることももちろんあるし、教師自身そのような指導力を身につけなければならない。しかし、そればかりに気をとられてしまうと、表面上の意味のやりとりのコミュニケーションばかりに追い求めて、生徒が生きていく上で必要な本物のコミュニケーション力を身につけることを忘れてしまいかねない。英語は授業中の学び合いを通して生徒の自己存在感を確立し、自己主張する力を伸ばしていくことができる教科ではないだろうか。学校という場はいろんな子が集まって、それぞれがちがうからおもしろいということを教師がもっと意識して授業を組み立てていくことで教室が開かれた場となり、「活力」のあふれた空間になるだろう。
 
「活動」のある授業を考える時には生徒それぞれの個性や豊かな人間性を想像しながら構成することが生徒主体の授業を作るポイントのような気がする。私はまだ自分の生徒を持ったことがないので何とも言えないが、まずは教師が生徒をしっかり観察し、教室が開かれた場となりうるように感性豊かなアプローチを行っていくべきだと思う。英語の持つ力"Be yourself in English”を意識した生徒の個性や一人ひとりの考えを大事にできる授業作っていきたい。










2011年3月18日金曜日

この国難に際して、改めて西郷隆盛に学ぶ


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【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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今回の災害が私たちに教えたことの一つは、「人は一人では生きてはゆけない」ということです。家族や友人だけでなく、近隣の人、行き交う人、組織で働く人、自治体に住む人、国民といった人々が互いに協力しなければ、人間の生活は成り立たず人心が荒廃してしまいます。そうなってしまえば、それは人間の社会ではありえません。

今、国のあり方が問われています。

以下は、幕末から明治の動乱の時期を生き抜き、敵味方を越えて多くの人々に思慕された西郷隆盛の書、『南洲翁遺訓』の原文(全文はここ)も掲載しながら、分かりやすく現代語訳を示し、その意を解説した松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓』PHPの中から、印象的だった点をいくつか書いたものです。

ただし以下の現代語訳は松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓』PHPの現代訳を参照しながら、この時節に合わせて私なりに日本語で再表現(意訳)したものです(もし間違いがあればご指摘ください)。ページ番号は最初が、松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓』PHPの現代語訳が掲載されているページ番号、次が同書で原文が掲載されているページ番号を示します)。

この本のわかりやすい現代語訳と、著者(訳者)の丁寧で熱意ある解説を読めば、「西郷さん」という人がどのような人であったかということがわかると考えます。今、国をあげて浮き足立ち、右往左往している私たちには、一見遠回りに見えても西郷さんという人物に学ぶことが大切だと私は考えます。



■ 人々が節度や恥を失ってしまえば、どんな国も滅びてしまう

放射能被害やさらなる地震の可能性あるいは品物不足の不安に、今一部の人達は自分のことばかりを考えた行動を取り、国の救済と復興を邪魔し、結果的には国を没落させかねない過ちを犯しています。互いを思いやる心を忘れ「自分一人ぐらいが」と私利私欲に抑制をかけないと、その我欲はたちまちに伝播し、日本という国に取り返しのつかない事態を招きかねません。西郷隆盛はこう言います。


[拙訳] 人々が節度や恥を忘れてしまえば、国は成り立たない。これはどの国においても同じことである。もし上に立つ者が、その者に従う人々に対して、自分だけの利益を求めて大義を忘れたならば、人々は皆そのようになり、すぐに自分の財産や利益だけを求め、卑怯な守銭奴の心ばかりがはびこり、節度を忘れ恥を知る心という節操を忘れ、家族の間でも金のことで争い、互いに憎しみの眼で見るようになる。こうなってしまったら、どうやって国が成り立つというのだ。

[原文] 節義廉恥を失いて国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者、下に臨みて、利を争い義を忘るる時は、下皆之に倣い、人心忽(たちま)ち財利に趨(はし)り、卑吝の情日々に長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相い讐視するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。(122-123ページ/349ページ)




■ 何かと揚げ足取りをする人は相手にせず、常に私利私欲を超えた見地に立つことを心がけよ

現在、多くの人が自然と指導的立場に立って人々を鼓舞し、日本の復旧に尽力しています。しかしその時に必ず出てくるのは、自分は何もしないで(指導的立場に立つ人に嫉妬するのか何なのか)何かと揚げ足を取り、否定的あるいは冷笑的な言葉を投げつけてくる者です。その小人ぶりは誠に憐れむべきですが、その言葉も、人一倍良心的な心で前線に立つ者の集中の邪魔になります。

ではそのように、自分の虚栄心ばかりに囚われた情けない小人物にどう対処すればいいのか。西郷さんは次のように言います。この突き抜けたようなところが彼の大人(たいじん)たるところなのでしょう。


[拙訳] あれこれと言挙げする人間のことに係わるのでなく、常に個人的な好悪や利害を超えた「天」を相手にせよ。天を相手にし、そのために誠心誠意尽くし、あれこれ言う人を咎めるなどということに時間を費やさず、むしろ自らの至誠に不足はなかったかと自省せよ。

[原文] 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。(273ページ/356ページ)




■ 実行を視野に入れていない議論は無視する

もちろん世の中は揚げ足取りばかりでなく、ほとんどの人は今、この国をどうやって立てなおそうかと真剣に議論しています。しかし中には、「ご説ごもっとも」ではあっても、はなから自分がそれを実行する気がなく、実行可能性についてまったく検討をしていない思いつきもあります。

もちろん、長期的な計画なら、たちまちの実行可能性よりも、抽象的な理念を重視するべきです。しかし、現在火急の「どのように支援物資をとどけるか、そもそもどこに、何を」あるいは「どのようにメルトダウンを阻止するか」という問題には、実行可能性が何よりも重要です。実行可能性を検討せずに、さらには自分で実行するつもりもない思いつきをつぶやき、それについて喧々諤々議論するのなら、沈黙し、義援金を送り、実行可能性を具体的に検討し実際に身を挺する人々にこの火急の任を委ねるべきでしょう。義援金は取り急ぎ送ったのなら、東日本の分まで自分の本来の仕事をするべきでしょう。

西郷さんも、口先の議論だけの人は放っておいて、実際に行動する人を高く評価したようです。


[拙訳] 現在行われている議論を聞いても、なるほどもっともと思われる議論はあるが、それを実際にいかに実行するかということの配慮がない。そういった議論は口先だけのものだから、そんな議論はつまらない。具体的に実行する配慮が行き届いた人を見るならば、この人こそはと感服する。

[原文] 予、今日人の論を聞くに、何程尤(もっと)もに論ずる共、処分に心行き渡らず、唯、口舌(くぜつ)の上のみならば少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。(196ページ/353ページ)




■ 信頼される人間こそが必要。人物がいないのなら、嘆くのではなく、自分が少しでもそのような人間になれるように努力する。

大規模社会での救援・復旧活動は最大の合理性をもって計画され修正され実行されなければなりません。大きな方針は大所高所から出され、臨機応変の対応はそれぞれの現場で工夫されなければなりません。その際の制度や方法には何よりも合理性が必要です。

しかしいくら合理的な制度や方法があっても、その実行を支える人がいなければ絵空事となります。やはり人間あっての制度であり、方法です。

現在、誰も対応しかねる難事に際して、政府も各種組織も悪戦苦闘しています。そんな中、テレビなどだけでその様子を見る人達は、とかく人物評価を高見の見物で行い「あれじゃぁ、駄目だ」と論評しているだけに終わりがちです(私もそうです)。

もし今の日本に信頼できる人間がいない、あるいは少ないと嘆くのならば、そんな暇があったら、今自分ができることにおいて工夫をこらし、自分こそが周りから信頼される人間になろうと努力するべきでしょう。下手な論評よりも小さな行動の方がはるかに大切です。

西郷さんの言葉です。


[拙訳] どんな制度や方法を議論にするにせよ、信頼できる人がいなければ実行には結実しない。人があって初めて方法が実行できるのであるから、人こそが大切なのである。もし信頼できる人がいないのならば、自分こそが周りから信頼される人になろうとせねばならない。

[原文] 何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行われ難し。人有て後(のち)方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己(おの)れ其人に成るの心懸け肝要なり。(162ページ/351ページ)




■ 今、学校で学ぶ者は何をすればいいのか

最後に私の仕事である教育・研究についての西郷さんの言葉を紹介します。

学校で学ぶ学生およびその学生を導く教師は、(少なくとも今のところ)直接の救援・復旧活動に従事するよりも、長期的に日本を立て直すための学問に専心するべきです(こうしてみると、戦時中の学徒動員というのはもう最後の手段の一つだったのだなと思えます)。

それでは学問とは何なのか?

それはこのような非常事態にでも、世のため人のために働くことができる力です。そのためには広い視野で物事を見られるようにしなければなりません。しかし博覧強記であろうとすれば、かえって自らの知識に酔いしれ、我執の念が強くなり、時にかえって世の害になってしまうところが人間の悲しいところです。

西郷さんは、広く学ぶことと自らを律することの両方が大切であると説きます。


[拙訳] 学問を志す者は、視野を広くしなければ学者とはいえない。しかしながら、視野を広げることばかりにこだわるならば、自らを律することがおろそかになってしまう。常に我を抑え自らを律しなければならない。視野を広くしながらも我を抑え、どんな人も受け入れるようになりなさい。他人に認められたいなど我を張るのは恥ずかしいことと知りなさい。

[原文] 学に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。去りとて、唯此こにのみ偏倚(へんい)すれば、或いは身を修するに疎に成り行くゆえ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思え。(252-253ページ/356ページ)




残念ながら、西日本で救援・復旧の特殊技能をもたない私たちは、義援金を送るぐらいしか、現在の火急の用に役立つことができません。

それならば私たちが今からでも始めて、死ぬまで保てる心構えを西郷隆盛に学んだ方がいいのではないかと以上の拙文をまとめました。

現在は未曽有の国難ですが、考えて見れば幕末から明治にかけても様々の動乱があり、誰もが右往左往しながらも、その頃の日本人は見事に近代日本を創りあげました。それは時に人が「世界史上の奇跡」と呼ぶほどのものでした。

その頃の日本を支えた一人が西郷さんです。現代の私たちも、今一度西郷さんに学ぶべきかと思います。





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2011年3月16日水曜日

中沢新一『純粋な自然の贈与』講談社学術文庫


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【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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今、国内外から被災した方々への義援金が寄せられています。この贈与は貨幣という形をとります。

しかしお金といってもこのような贈与として送られるお金は、通常のお金のような貨幣の交換価値(いってみるならお金の「値段」)を失っています。義援金を贈る人は、その対価(お金の「値段」「交換価値」)が返ってくることを期待などしていません。贈るということ、受け取ってもらえるということの方が大切なのです。

『純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)』で中沢新一氏は次のように述べます。


贈与という現象にあっては、贈ったり贈られたりしたものの価値には、値段がつけられない。つまり、贈与では、ものの価値は計量化されないのだ。また贈与がおこなわれる場所では、ものや言葉の意味も、ひとつには決定されない。価値や意味をひとつに決定するよりも、贈与がおこなわれる場所では、価値や言葉の対話やキャッチボールがくりかえされ、そのくりかえしのなかから、おたがいの間の理解や信頼が生まれてくる。そのプロセスのほうがずっと大切にされているのである。(148-149ページ)


中沢氏は、贈与が人々を結びつけると説きます。「純粋な気持ちで贈り物をかわしあう二人の間には、個体性をこえたつながりが、つまりはエロスによる結びつきの感覚が発生するのである。」(187ページ)

この贈与が、近代(特に新自由主義の跋扈以降の近年)の私たちが浸りきっている貨幣による商品売買とはいかに異なるかを、中沢氏はモースの思考を紹介しながら次のように説明します。


モースは、人間の社会を全体として統合している力のありかを、探りだそうとしていた。法律や商業や教育には、そういう力はない。法律や教育は、人に外側から力を加えることによって、社会をまとめあげる力にしようとしている。商業経済にも、その能力はない。商業はその本質から言って、人と人のあいだに、分離と距離をつくりだすからである。ある「もの」が商品となることができるためには、それが製造者やもともとの所有者の手を離れていなければならない。それに、家族や親しい友人の間では、なるべく「もの」を商品として、売ったり買ったりしないようにするのが、エチケットだ。切手集めの好きなあなたの親友は、以前からあなたの持っている古いアルメニア切手を欲しがっていた。ある日、あなたはその切手を親友に差し出した。親友はあなたがそれをくれたものと思って、友情に胸を熱くする。ところが、どうしたことか、あなたの口からは、その切手の値段が告げられる。しかも、冗談ではなく。その瞬間、長く続いた友情に、絶望的な裂け目が発生したのを、二人ともはっきりと感じとる・・・。(183-184ページ)


現代の私たちは、24時間営業のコンビニやATMが至る所にあり、パソコンや携帯からワンクリックで買い物ができるようになることをもって、社会が統合されていると思い込みかねません。しかし商業的な等価交換だけでは社会は潤いを失い、貨幣所有の多寡により異なるだけの人々が群居しているだけの場所になってしまいます。そのような場所では、今回のような災害が起こったならば、不運な者や貨幣をわずかしかもたない者は、人間の尊厳さえ奪われてしまうような目にあってしまいます。

こういった災害を前にすると、人々は自ずから「何かせねば」と思います。もちろんこれを「思いやり」や「お互い様」という言葉で説明することは可能ですし適切です。しかしこの自発的行為を、人々が贈与の深い意味を知っていることの証左と解釈することもできるでしょう。いくら社会が資本主義化するにせよ、贈与という古来からの行為はなくならないでしょう。いやなくなってはいけません。資本の論理からすれば、非合理的とさえもいえる贈与が、人間の社会を統合するために必要なのです。


 贈与がおこなわれるとき、等価交換では伝わらない価値や意味が、相手に伝えられている。等価交換のシステムでは、使用価値の異なるものの間に「同じもの」が見いだされ、この「同じもの」はものごとを平準化して、計算可能なものにつくりかえる力をもっている。このやり方を徹底していくと、世界をとても単純ななりたちに還元してしまうことができるので、経済の世界では大いに重宝され、この等価交換で物品を交換する組織が、史上として発達した。近代的な思考法は、等価交換の考えから、深い影響を受けている。

 ところが、贈与では平準化したり計算したり情報化したりできないものが、伝わるのである。心の内面で動いている無意識の思考や、情緒的な感情や、平準世界を抜け出していく超越性への思いなどが、交換されるものや表現を仲立ちにして、伝達されていく。市場の外の経済行為や、芸術と宗教の領域では、等価交換はむしろ遠ざけられて、こうした贈与の原理が前面に出てくる。(258-259ページ)


今回の災害で、気がついてみたら私たちは思いの外「市場の外」に出ています。あらゆる異なるものを「同じ物」に換算してしまう貨幣と呼ばれる不思議なものの魔力から(ほんのわずかにせよ)抜け出ています。贈与の原理で動いています。

もちろん株式市場は地球規模で動きつづけています。東京株式市場の動きは、日本人だけでなく、負の連鎖を恐れる世界の人々の関心事でもあります。市場は動きつづけます。しかし震災後の私たちは、それがわずかのことであれ、市場の外に出ているのです。

だからといって、純粋なる贈与の社会に移行しているわけではもちろんありません。贈与においても、物品の送付より貨幣の送金(義援金)の方が好まれることは、日本も大規模社会である以上、避けられないことは上でも述べたとおりです。大規模社会では、小さな部族社会では求められないような合理性(分化と再統合)が必要とされるからです。ですから今回の義援金では糸井重里さんが提案するような配慮が大切だと私も思います。

しかし、たとえ今回私たちが行なっている贈与が銀行振込やネット上でのクレジットカード決済に過ぎないにせよ、義援金を贈ることによって、私たちはその顔も名前も直接には知ることができない方々を、自分にとって親愛なる人とすることができます。被災地の皆さんも義援金を受け取ってくださることによって、これまた直接には出会うこともない私たちを友人とみなしてくれます。ここに新たな場が出現します。直接に顔や名前を知らないままの親愛なる関係です。そしてこの親愛なる関係は国境を超えて結ばれていることはご承知のとおりです。


(今回は)安全な場所にいる皆さん、私のように「う~ん、これだけあったら○○が買えるのになぁ」などと吝嗇な等価交換的思考に煩わされることなく(笑)、自分でできる範囲のお金を「ぽん」と喜捨しましょう。それは対価的な意味でなく、人知を超えた循環的な意味で、私たちの社会を豊かなものにします。私たちが時に命をかけて守りたいと思えるほどの豊かな場になります。

そして復興しましょう。また資本主義的経済競争に邁進しようというのではなく、思い立ったらすぐに市場の外に出て、必要としている世界各地の人々に義援金を贈ることができるぐらいに復興しましょう。

日本は今回、海外から多くの贈与をいただきました。ありがたい。日本もいつかまた、いや今こそ、贈与の関係に―等価交換の商業的関係ではない親愛なる関係に―身を委ねましょう。

お亡くなりになった方々の貴い命が返ってこない以上、生き残った私たちには今回の災害を、世界を豊かな場にして、お亡くなりになった方々の霊に応える責務をもっています。


というわけで、もう一度(笑)


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身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう


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【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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関東圏の方は、計画停電で公共交通機関が麻痺し、長い行列で待つことも多いかと思います。

その時間をイライラしながら待つのではなく、忙しくて日頃できない身体の調整の機会としてとらえるのはいかがでしょうか。残念ですが地震や原発あるいは停電に関して、一般市民ができることは限られています。そうならば、徒に心を荒げることなく、身体を整えることで心を鎮めるというのはいかがでしょう。「安全な地域にいるから、お気楽なことを言いやがって」とお怒りの方もいらっしゃるかもしれません。でも、昔の日本人はそうして身心を整えていたと思うのです。イライラしていいことはありませんから、もしよかったら身体の調整を試みられたらいかがでしょう。


あるいは相次ぐ地震や、なかなか収まらない原発問題などで強い不安をお持ちの方も多いかもしれません。心を自己意識で制御しようとするのは難しいものですが、実は心は身体を整えることで落ち着かせることができます。武術や茶道あるいは坐禅などをやられている皆さんでしたら、ぴたりと「型」に即した姿勢をとるときに心が静まることは実感されていることと思います。不安を鎮めるためにも身体を整えてはいかがでしょう。

嘘だと思われるかもしれませんが、下にありますような姿勢をとり、上虚下実が達成され、背筋がすっと伸び、肩の力が抜け、みぞおちが緩み、身体の正中線が保たれますと、人間は怒ったり邪な気持ちをもつことができなくなります(逆に言いますと、怒ったり邪な気持ちをもった瞬間、人間の身体は強張り歪みます)。


以下は、私が読んだままになっていた、武蔵野身体研究所矢田部英正先生の本の一部を紹介するものです。これを機会にまとめてみます。



『からだのメソッド』

この本の特徴はひたすら具体的でわかりやすいことです。狙いは「見えない身体感覚を調えることによって、眼に見えるからだの形を整える」(9ページ)こと、そして「自分のからだに<気づき>をもたらす」(10ページ)です。

第一章では「立ち方」を検討します。まずはバランスが、左右の足、爪先と踵、足首の内と外、のそれぞれでどのようになっているかを身体感覚で確かめます(15ページ)。次に「足の付け根から爪先まで、脚の中心に自分の骨の存在を自覚」できるかどうか確かめます。自覚できれば次に「骨盤から足が生え、大地にしっかりつながっている感覚」を確かめます。その感覚があれば「背骨は自然とまっすぐのびているはず」(23ページ)です。さらには頭が背骨の上にきちんと乗っているかを確かめるために「耳と肩」「鼻と臍」をまっすぐにつなぎます(25ページ)。

このような身体感覚を探るようなことは、忙しい日常ではやろうとしません。やってみたら楽しく気持ち良いので習慣になるのですが、やるまでがなかなか大変です。今回の行列待ちを、この立ち方の検討に使ってみればと提案する次第です。

第二章は「歩き方」です。この章はとても啓発的です。なぜなら「日本の「履物」と西洋の「靴」は、本来、まったく異なる歩き方を要求しているため、同じ一つの歩き方だけで対応していると、見た目に不自然なだけでなく、健康的にもさまざまな問題の生じてくる危険」(30ページ)があるからです。

かくして「西洋式の歩き方」と「キモノの歩き方」です。わかりやすい説明とイラストで両方の歩き方を実践・実感することができます。どちらかといえば西洋式の歩き方に傾斜しながらも、いぜんとしてキモノの歩き方をひきずっている現代日本人の多くは「キモノの歩き方」をとても面白く感じることと思います(武術オタクの私としては「キモノの歩き方」の合理性に驚いています)。矢田部先生は二つの歩き方を使い分けることを提言していますが、私はもっぱら「キモノの歩き方」を練習し実践しています。

第三章は「坐り方」です。デスクワークの多い人には本書の96ページの写真で示されている「立ち腰」「反り腰」「へたり腰」の違いをぜひご自身の身体で実感していただきたく思います。多くの人が「よい姿勢」と思っているのは、胸をはる「反り腰」で、実はこれは腰椎に悪い坐り方です(そういえば、いわゆる「よい姿勢」をすることが得意な学生さんは、長年剣道をやっている人でしたが、彼は腰痛持ちと言っていました)。私も「椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・」で書いたように腰痛で困り、その後治りましたので、このあたりはとても共感できます(注)。

第四章の「食作法」、第五章の「呼吸法」もさまざまな気づきをもたらしてくれます。日常の立居振舞がこれほどに深い面白さを与えてくれるのかと思うことでしょう。

第六章は、このメソッドを実践した学生さんのレポートですが、次の感想など、都市生活を送っている方には興味深く読めるのではないでしょうか。


実生活のなかでも自信をもって自然体の姿勢をとろうと意識するようになった。たとえば電車に乗ってつり革につかまっているとき、座席に腰かけているときなど、何気ない時間の過ごし方が変わった。かつては何も考えずに目的地の駅まで過ごしていたが、姿勢というものを意識して、背骨の上に頭を乗せ、胸は張らないでみぞおちを緩めるなど、ひとつひとつの型を意識するようにした。すると、心にある種の余裕というか、理由のない焦りがなくなった。

すわっていたときには、足を組むか、爪先を立て、遊ばせていたことが多かったのだけれど、仙骨を立てるように意識することによって、足は地面に落ち着き、ぴったりと地に着いた足の裏からじんわりと心も落ちついていく感触があった。(171ページ)。


上は、この本のごくごく一部の内容ですが、少し試してごらんになってはいかがでしょう。きっと新しい発見があることと思います。



(注)
「椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・」の記事を書いた後、私は十年以上直らなかった歯の噛みあわせが正しくなり、椅子に座ると必ずといっていいほど足を組んでいた癖もなくなりました。

ある友人は次のようなメールをくれました。


「姿勢」は大切だと思います。小学校の教員として長く勤めていますが,授業や集会時の児童の後ろ姿から,その教師や学校の実力がある程度わかるんですよね。後ろ姿を見て,「おっやるな!」と思った子は,当然前から見ると目に力があります。若い先生たちには「後ろ姿で90%はわかる。目を見れば確信できる。」なんて偉そうに言っています。心の状態や思考の深さなど,ある程度は姿勢からつかめると思います。特に小学生は正直ですから,体に表れるのでしょう。かけ声だけの「姿勢」ではなく,「良い姿勢」が「旺盛に学びを求める姿勢」につながるように今年もがんばろうと思います。


また、授業でもこの話を少ししたところ、思いの外反響が大きかったので驚きました。以下はその一部です。


今回の授業の中で姿勢についての話があったので、姿勢についていくつか述べたいと思います。

私自身、座っているときは足を組んだり、机に肘をついたりと、かなり姿勢が悪いという自覚があります。小学校から高校まで剣道をしていたのですが、現役の頃はいい姿勢を保つ指導をよく受けました。しかし、右半身を前に置く基本の姿勢を小さい頃からしていたので、左足の付け根が骨盤の方に少し食い込んでしまっていたらしく、両足の長さにかなり差ができ、中学時代からは、腰痛に苦しみました。私の道場では、常に基本の姿勢を崩さない稽古が行われていましたが、友人の道場に行った際、左足を前に出して行う稽古があり、ずっと基本の構えだけをしていた私にとってかなり違和感と難しさを感じました。その道場の友人たちは、その稽古をしていたためか、腰痛などは全くないと言っていました。左側を前に出す稽古が体のバランスを上手く保っていたのかもしれないと思います。

また、私の祖母は80歳を超えているのですが、昔から華道と茶道をしていて、教室に行くときは毎回着物を着ています。華道や茶道は、綺麗な姿勢を保たなければならない上に、着物を着ることで背筋が伸びるので、祖母は高齢にもかかわらず全く腰が曲がっていません。それどころか、車を運転したり毎月旅行に行ったりする、私以上にパワフルです。

祖母を見ていると、若いうちから正しい姿勢を保つことで、年をとっても元気に過ごすことができるのだと強く感じます。

今のままの崩れた姿勢をしていたら、将来どうなってしまうのか今からかなり不安です・・・(Tさん)



今日の授業の最初にあった姿勢についての話だが、この話を聞きながら僕が考えたのは姿勢に関する自身のエピソードである。小学生の時からずっとサッカーを続けてきている僕だが、小学6年生の時に足のかかとの激しい痛みでプレー中に苦しむことがあった。病院に行っても特に異常はないとの診断だし、身長が急激に伸びていた時期だったので単なる成長痛ではないかと考えていた。しかし、ある日親のすすめでスポーツ選手専門の整骨院に出向いた時、普段の姿勢や寝ている時の姿勢が悪いからかかとに負担がかかっていると言われ、本当に驚いたことがあった。実際それを忠告されてからは、日常生活で特に姿勢に気を配るようになり、結果的には痛みがなくなっていったのが事実である。今日先生が言われていた通り、姿勢というものはなめてはいけないなというのが、言わば教訓のようなものとして自分の中にある。これから机やコンピュータに長時間向きあうことがあるわけなのだから、日頃から姿勢には意識を置いた生活を心がけていこうと思った。(O君)




お話の中で特に二つのお話が印象に残りんました。まず一つ目は「姿勢」の大切さです。私はだれから見ても分かるよう、ひどく猫背です。自分が猫背だということに気付き始めたのは小学校高学年の頃でした。親に、「そんな姿勢しとったらしょんぼりしとるように見えるけ直しんさい」と何度となく言われ続けましたが、結局直ることなく今に至りました。

先生もおっしゃっていたように姿勢の悪さからさまざまな悪影響を受ける、と私も身をもって感じます。私も椅子に座るときは必ず足を組むのですが、それによって姿勢も曲がるし骨盤もゆがむしで、数分間その姿勢でいるだけで背中や骨盤に気持ち悪さを感じてすぐ組み替えてしまい、そっちのことに気を取られて授業中集中できないことがあります。また、私は五分間しか立ち読みができません(笑)姿勢が悪いから肩に疲れを感じさせているのだと思います。

このように姿勢の基本が身についていないだけでも多くの影響を及ぼしています。このほかに基本が大切だということの例として、私の部活動の話を用いようと思います。私は中高とバスケ部に所属していましたが、試合中によく足がつったり怪我をすることがありました。高校三年の時にスポーツクリニックに通っていたのですが、そこで先生に「頻繁に怪我をするのは足に十分な筋肉がついていないからだ」と言われました。筋肉をつけるのは簡単ではないし引退間際だったので、内心「今更そんなこと言われても遅い!」思っていました。今考えると、いちばん基礎・土台となるものが弱かったからすぐ怪我をしたりフォームが崩れたりしていたのです。「基本が大事」という教訓はどんなことにも当てはまるだろうし、基本を飛ばしていると他でカバーしようとしてもなかなか成果として現れないでしょう。(Aさん)




今回の授業では、姿勢のお話が印象に残りました。私自身座るときに足を組む癖があり、そのせいなのかはわかりませんが、最近腰痛に悩まされています。特に寝るときが辛くて、仰向けになることができません。そのことをこの前母と話したところ、なんと母も私とまったく同じ症状に悩まされているそうです。でも今のこの年齢で母と同じ、というのは自分でも納得いかないし、将来も不安なので、姿勢には気を付けていこうと思いました。余談ですが私は中学生のころ自力でO脚を直しました。その直し方は、歩き方を変える、という簡単なものでした。歩くときに意識して1本の線の上を歩くようにするとO脚はなおせます。特別に時間を割いて何かするのではなく、普段の生活の中でちょっと意識するだけで姿勢は変えられるので、これから心がけていこうと思います。(Nさん)




姿勢の大切さの話を授業でされてから最近意識するようにしています。私は歩くときは猫背にならないよう意識しているのですが、座るときの姿勢までは意識してませんでした。小学校では先生がクラス全員に姿勢を指導していたので気をつける習慣があったのに、何も言われなくなってだんだんと癖のある座り方になっていることに気がつきました。受験勉強のときは長時間座って勉強していたので勉強するたび腰が痛くなって、勉強に集中できない日もありましたが、今思えばそれは自分の姿勢が原因だったかもと思います。座るときの姿勢も意識していきたいです。(Kさん)




今回の授業で印象に残ったのはみんなも書いているように姿勢の話です。
昔から僕は姿勢が悪く中学生のころからよく腰が痛いと言っていました。
高校に入って部活の時に腰をひねってしまい接骨院に通うようになりました。
そのときに先生に普段から姿勢をよくすれば今回のけがはなかったのにと言われ後悔しそれからは姿勢に気をつけているのですがあまり改善できていません。今回の授業はもっと真剣に姿勢について考えるきっかけになりました。(MA君)




授業の始めに、先生が姿勢についての話をし、私も思い当たる節がありました。

中・高と同じ塾に通っている剣道部の友達がいるのですが、彼は姿勢をいつも気にかけており、決して頬杖を突いたり、足を組んだりして勉強することはありませんでした。

彼は中学から高校に進学する段階で中学英語がアルファベット以外何も身についていない状態でした。ですが、高校1年生の時に中学校の文法、単語、熟語、その他事項をおよそ半年で全て覚えきってしまいました。普通3年間かけてじっくりやるところを、同党の質で約半年で完了してしまったという事実に、その時の私は感心しながらも不思議に思っていました。今回の授業では、彼の吸収力の高さは姿勢の良さによるものかもしれない、と考えました。

私はパソコンを使ったりペンで何かを書くとき、かなり顔を近づけて描きます。小学校の頃から癖になっており、今でもそれは治っていません。ただ、直そうという意志が弱いことも分かっているので、今では無理やり二つの距離を遠ざけるようにしていますが、その他の面でも少しずつ直していけたらと思います。(MN君)



あるいは、次は武術関係のブログ記事ですが、なるほどと思わされました。


「体の声」について

 重心が僅かでも変化すると、それに従い、体が求める在り方は中央から指先に至るまで刻一刻と変化する。
 
 それが快楽原則に則り動けば「ダンス」となり、人を崩せば「体術」、剣を握れば「剣術」、杖を持てば「杖術」となる。

 問題は、その瞬間その瞬間に、自分の体がどう在りたいのかすら、人間は分かっていないという事だ。

 筋力トレーニングや癖、生活習慣、偏見などが「体の声」を耳から遠ざける。

 私にとって武術とは、失われた体の声に対する「聴力」を取り戻して行く作業になりつつある。

 耳の底にある「異物感」が、いつも私を苛立たせる。
 








■『美しい日本の身体』


ギリシャ語で「姿勢」を意味するhexisという言葉には、人間の「資質」や「知識」、「能力」といった意味が同時に込められていたそうです(10ページ)。モースは、人のたたずまいに映し出される、社会的・文化的習慣(habit)の型をhabitusと呼びましたが、これはギリシャ語のhexisのラテン語訳だそうです(42ページ)。

日本にもこの「姿勢」に関する素晴らしい文化があり、矢田部先生はこの新書でそれを解説します。一言で述べるならそれは「小手先の動き」を戒め、「目線、指先といった末端の動きが、身体の中心とのつながりにおいて実現すること」(46ページ)を大切にする文化です。別の観点から言いますと「腰を入れる」ことや「丹田を練る」こと、つまり解剖学的にいえば「骨盤の内部に身体を統率する中心をつくること」(61ページ)です。「丹田への気付きはウエスト部分に上昇しがちな動作の基点を骨盤内部の仙骨へと下げるのに有効で、そのことによって腰には無理な負担がかからず、骨格の自然を有効に活用する基礎を築くはたらきを持っている」(159ページ)から、日本文化は丹田(下丹田)を重視していたわけです。丹田が錬られれば「上虚下実」(じょうきょかじつ)が得られます。

このように日本文化は骨盤にうまく動作の基点をおくことを重視していますから、動きの練磨を「骨(コツ)」をつかむことと表現し、ひたすら筋肉増強をはかる西洋近代スポーツと大きく考えを異にしています。


これら柔術や弓術の身体技法に特徴なことは、筋肉を増強させることに重きをおかず、むしろ「力を入れない」ために神経を集中させる指導法が見られる点にある。「骨(コツ)をつかむ」という日本語は、この脱力状態において体感される「骨(ほね)の感覚」に由来するもので、運動を支える力の源が、表層の「筋肉」から「骨」へと深まってゆくと、その技術は筋力とはまったく異質な力を発揮するようになる。(204ページ)


しかしこの「骨(コツ)をつかむ」ということは存外難しいものです。自身、体操選手であった矢田部先生は次のように言います。


倒立で30メートル歩くことよりも、倒立で30秒ピッタリ静止することの方がはるかに難しい。これが立ち姿勢や坐姿勢になると誰にでもできることなので、そうした日常の動作をわざわざ省みることは少ないけれども、微動だにしないで5分でも姿勢を保つことは容易にできることではない。実際にトライしてみれば「からだの自然」に従って「立つ」「坐る」ということの技術的な奥深さが実感できるだろう。

身体の歪みや偏りというのは、外観的には筋肉のバランスに端的にあらわれるので、長時間同じ姿勢を保とうとすれば、日頃負担のかかっている筋肉に痛みや痺れが生じてくる。これは身体が自然なバランスを取り戻そうとする一つの段階でもあって、正坐なり、結跏趺坐なり、一定の型に従って訓練を続けていくと、いずれ筋肉に負担をかけずに「骨格の自然」に身を委ねることを、自然体と言ってもよいが、実際にそれが実現したときには骨と骨のバランスを司る「中心の感覚」が自覚されてくるはずで、その部位というのはやはり骨盤の中心に位置する「仙骨」に落ち着いてくる。(205-206ページ)


人間の「意図」よりも、自律した「自然」の方に信頼をおいてきた日本文化の深さ、勁さ、そして美しさを少しでも取り戻したいものです。






■『日本人の坐り方』

圧倒的に面白い読み物です。いわゆる「正坐」は、それだけが「正しい」特権的な坐り方ではなく、漱石ぐらいまでの日本人には「端坐」と呼ばれていたもので、日本の昔の着物・袴が許した多彩な坐り方の一つに過ぎなかったことを、数々の写真・図画・引用で示します。正坐(端坐)にしても「真」「行」「草」の三種類があることをご存知でした?「真の端坐」(左右の踵をぴったり合わせて、踵の上に尻を乗せる)を一度試してみてください。骨盤がうまく前傾し「立ち腰」になると同時に肩が落ち、「上虚下実」(じょうきょかじつ)を実感することができます。






■『椅子と日本人のからだ』

事務所や学校では坐ってばかりいるのに、日本人は椅子に無頓着です。かといって高価な椅子を買っても存外に合わなかったりします。西洋近代の考え方は「人間工学」で人間が楽に坐れるような特殊構造を椅子に組み込みますが、実は椅子に頼らずに坐ることを追求した(たとえば坐禅!)文化をもつ東洋の考え方の方が合理的です。

腰痛に悩み、高価な椅子を買おうと思っていたら、その前にこの文庫本を読んでみてください。(ちなみに私は友人に薦められたこの椅子を今は使っています。これ以上高価で特殊構造をもった椅子は不要(あるいは逆効果)と私は思っています)。






■『たたずまいの美学―日本人の身体技法』

矢田部先生の最初の著作で、他の本と比べるとやや硬い印象を受けますが、日本人の身体技法についてよくわかります。他の本を面白いと思った方でしたら、この本を読んでも面白いと思われることでしょう。



ずいぶん長い記事になりました。

でもこの「国難」を、日本古来の身心文化で乗り切ろうではありませんか。





追記

立ったり坐ったりしている時に、身体各部を緩める「ゆる体操」(運動科学総合研究所:高岡英夫先生をやるのもいいかと思います。(実際、陸上選手がスタート前に身体をブラブラさせている姿はよく見るものです)。しかし人前で以下のビデオのように本格的にやってしまうと楽しい結果になるかもしれません(笑)













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